K80 蒲生啓介  面倒くさくて過保護女に伝えていなかった事がある。  ……正確にはごついメタルの男(愛称:白髪)が車を急発進させたときに気付き、なんやかやという間に 人様から借りた車を突入・炎上させるという主義思想に関わらず乱暴で粗野な手段に訴えるために車を降ろ されたので、ネット接続どころではなくなっていた。過保護女のカードを拝借し通販で購入・契約したPHS を介してどこからでもネットに繋げるとはいえ、走りながらキーボード打てるほど私は器用ではないし、そ んなのがいようものなら一度見てみたいものだ。きっと笑える。  そんな大道芸みたいな話は置いておくとして、何を伝えていなかったかというと、実は以前に私の後を追 って吸血鬼のサーバに侵入してきた「アイツ」が連絡をとってきたのだ。直に、私自身に。  吸血鬼のサーバを分割して転送したレンタルサーバの全てに、あるウェブサイトのURLが残っていた。 ご丁寧にBASE64でエンコードされているので情弱にはわからないだろうが、直に読める人間にはあっさりわかる。  つまり、これは私への招待状なのだ。  しかしそれは「敗北」を意味していた。生IPを抜かれたわけではないにしろ、尻尾を掴まれたのだ。今回は 掴まれた尻尾というのが所詮レンタルサーバだから実害はないようなものだが、それでも気分は悪かった。 少し気を抜いたら特定されていたかもしれない。  だが今回に限って言えば、少なくとも向こうに悪意はない。と思うよ。まさかその先のページでウィルス 踏ませるような単純な手段はとらないだろうし、悪意があるならレンタルサーバのアクセス権限を押さえら れたのだ、好き勝手に破壊すればいい。そうしないということは何かしらの事情があってコンタクトを求め ていると見ていいだろう。  記されてあるURLをささっとチェックし、まずそうなブツは存在していないことを確かめた上で、私はそ の誘いに堂々と乗っかってやった。  招待された先はチャットルームだった。そのへんの雑なCGIで間に合わせに作ったような、簡素でいて通 う気を失くさせるような、そんな部屋。おそらくこの対談のためだけに急ごしらえで設置したのだろう。  ログインに気付いたのか「ソイツ」が喋る。 『来て頂けるとは思っていませんでした』  会話。  私は指をノーパソの平べったいキーボードの上をはわせ、そしてぴたりと止まる。何を喋ったものか。  思い返してみれば私は聞かれた事について答えたり何かを要求したりしかしてこなかった。会話と いうものは確かウィットに富んだジョークをベリグッドな感じでリスペクトするべきものだったと記憶して いるが実際にやったことがないものについて前情報だけでうまく対処できるとは思えない。 『用がないなら帰るけど』結局私はごく当然の応対をした。こちらは呼ばれた身なのだ。 『あなたに協力して頂きたい事があります』 『なに』 『その前に確認ですが、あなたは吸血鬼のサーバをクラックした人ですね?』 『それ以外の誰がここを覗ける?』 『失礼しました』妙にレスポンスが早い。『その節はお世話になりました。時間的余裕がなかったので、 あなたのクラックは渡りに水で、大変助かりました』 『そう思うんなら尻尾を掴むような真似は謹んでもらいたいんだが』 『申し訳ありません。ですが事は急を要します』  一拍、間が空く。まるで居住まいを正すかのように。 『私は夢子と申します。吸血鬼が絡んでいるゲームに関わっている者です』  なんだその亜麻色チックなハンドル。まあ蒼き凍の乙女とかでないだけマシか。 『そりゃ想像はつくけど』 『あなたはこのゲームに参加していますか?』 『それなりに。アドバイザーとしてだけど』 『そちらの陣容は? 具体的戦力という意味で』 『よくわかんないけど、神崎姉弟とかいうのと一緒にいる』 『神崎姉弟……始祖側ということですね』  無機質にずらずらと流れていく2バイト文字の羅列。それらが溶けて染み入るように眼球を通り、脳の裏 に浸透していく。 『先にこちらが握っている情報をお渡しします。誠意の証と受け取って下さい』  そう言って、彼女は淡々と、同じ速度で、おそらく早口で、こう語った。 『ツイッターで呟かれている通り、アタリの携帯は始祖の場所にあります。始祖の住所は○○県△△市…… です。吸血鬼の過激派がそこを襲撃する可能性がありますが、穏健派が阻止するために動いています。この 間隙を縫えばアタリを押さえられるかもしれません』 『……で?』 『こちらの要望は一つ。その現場に一般人の姉と弟が別々に向かっています。見かけたら、可能な限りで構 いませんので彼らを保護し脱出させて下さい』 『できない、と言ったら?』 『ではせめて交戦しないで下さい。彼らはゲームに関わる気はありません』 『私はあなたを信用したわけではないのだが?』  実際、そうだ。何べんでも言うが、彼女(名前からすれば少なくともネカマではあろう)がよこした情報 なんぞ、ちょっとネットをうろつけば誰でも手に入るようなものなのだ。少なくともこの世に生を受けてか らまだ年越しソバも経験していない私ですら取って来られるような情報を渡されたところで誠意も何もあっ たもんじゃない。もっとビックリするようなネタを期待していたのに。例えば始祖は既に死んでいる! とか。  さらに言えば……これは推測に過ぎないが、こいつはウソをついている。いや、ウソではないか。考えうる 最悪のケースを語らずに「希望的観測」を言っている。現に今、始祖の洋館はテロリズム溢れる吸血鬼の マシンガン攻撃でやばいことになっている。  もちろんそれは指摘しない。いま始祖の洋館の前にきてまーす、なんて、誰が教えるものか。  要は、彼女は私たちに始祖のところに向かって欲しいわけだ。もちろん要求した人間の保護が為されれば 万々歳なのだろうが、そうでなくとも私たちがそこに向かうだけでメリットがある。  数秒考えて、私はキーボードの上で指を躍らせた。 『情報屋に吸血鬼の仲間割れや始祖の住所を流したのはあんただな?』  これははったりだ。先ほど黒いレザーの痛々しい娘がこぼしていたのをちょっと拝借してみた。会話が ぶっつり途切れていたたまれなくなったとかじゃないよ。  だがこのはったりは見事に成功した。 『その通りです。さすがにあなたに隠し立てはできないですね。申し訳ありません』  ぶっちゃけ全く期待していなかったのだが。 『ですが嘘はついていません。嘘は嫌いなので。先ほど語った内容は事実です』  夢子と名乗る人間の要求はそれほど大それたものではない。現場にいる二名と交戦するなということだ。 こちらとしても別に100人斬りとかやりたいわけではないので無駄なドンパチは避けられるに越した事はない。  だが――私はその申し出を素直に受けるのをためらった。ひとつはここまでの経緯をタイプして過保護女 に説明するのが面倒なことと、何より本能的に感じていたのだ。「コイツは信用ならない」と。私のオリジ ナルの記憶がそう囁いているのかもしれない。それが杞憂だとしても、向こうはこちらより一枚か二枚上手 だ。情報の量も質も、手の伸びる速さも範囲も。そんな相手を真っ向から信用できるほど私は善人でもない し間抜けでもない。 『こちらからも要求がある』  ダメ元というやつだ。どのみち私はこの夢子と名乗る女(ネカマじゃないような気がしてきた)から情報 を引き出せと言われているわけでもないし、やったところでお小遣いが増えるわけでもないし、ほとんど興 味本位の要求だった。 『吸血鬼についての詳細なデータ。始祖とは何か。あんたの目的。そして保護を要求した人間の素性と現場 にいる理由。満足できる回答がもらえれば協力してやる』 『前二つについてはあなたが吸い出したデータにあるはずですが?』 『まとめるのがめんどくさい』あんな大量のデータいちいち見てられるか。 『そういうことでしたら。http://www.xxx/xxxx/xxx.zip こちらに私がまとめた資料があります。ソースは 少々古いですが信用できる情報かと』  リンク先の安全点検をしてダウンロードしてみると……めんどくさい。偽装されてる。偽装の手法はわか るが解読するツール作るヒマなんてないぞ……仕方ない。私はそのデータをそのまま読み始めた。  ……少々お待ち下さい……。  ……吸血鬼っていうのは、前情報通り、何かすごいことをしてすごい能力を持った人のことを言うらしい で、それとは別に吸血鬼たちは人造人間……ホムンクルスを創り出す研究も行っていたらしい。人体改造か ら新たな生命の創造へ、というのはありふれたSFではあるが、実際に志す輩がいるとは、世の中バカばっ かりだ。  で、このホムンクルスの研究はゲームの主催者であるトトが主導して行っていたようで、神埼姉弟の言う 通り出奔。ここら辺は聞いた通りなので割愛する。  具体的に吸血鬼そのものについて。吸血鬼は大分類としてパワータイプ、スピードタイプ、特殊タイプが いるらしい。このうち特殊タイプは要するに分類不能のゴミ箱だ。各々の特徴は読んだままなんだが、どれ だけゴッドスピードな吸血鬼でも早く動くためには脚の筋肉とか多分必要なんだろうし、程度の問題なんだ ろう。で格言。 「スピードタイプだとわかったら、即座に殺せ。パワータイプだとわかったら、即座に殺せ。特殊タイプだ とわかったら、そのときには、お前は死んでいる」  んな事言われてもなあ。  ちなみにここまで読んでからレンタルサーバから吸い出したデータに検索をかけてみると、吸血鬼のタイ プ別のリストがヒットした。これによると、白髪はパワー型、神崎姉はスピード型、神崎弟と黒レザー女が 特殊型らしい。私に接触してきて金銭を与えてくれたあの死体男は……名前を知らないので面倒くさくなっ て探すのをやめた。  吸血鬼の身体的特徴について。  すごい。どのくらいすごいかっつーと、全員が100m走を15秒切るくらい。あり得ない。速いやつだと10秒 切る。あり得ない。私なんか20秒くらいかかるのに。あと全員が2Lペットボトルのジュースを2本買って しまっても平気で家に持って帰れるぐらいすごい。無理。  やつらが身体的にすごいのは前情報通りとして、特に別項目として治癒能力について書かれている。前に 白髪が世間話程度に「腕ぐらいくっつけときゃ治る」と言っていたがそれは事実で、ただし血液の補給を必 要とするらしい。ただゾンビよろしく不死身かというとそうでもなく、やっぱり急所をやられると一撃らし い。あと、銀とかにんにくとかは意外と平気らしい。そりゃ、通例なだけで苦手な根拠もわからないのだが 『その程度の情報で十分でしょうか?』  急かすように夢子と名乗る人物が言う。私は受け取ったデータから目を離した。 『とりあえずは。回答の続きを』 『次は始祖についてでしたか。始祖については私も語るべきところを持ちません。吸血鬼の元締めであるこ としかわかりませんが、始祖本人も依頼を受け業務を遂行しているという点から、彼は単なる象徴ではなく 実質的な指揮をとるタイプの元締めであると言えるかもしれません』 『つまり、お飾りではないと』 『そういうことです。推測に過ぎませんが』 『知らないものについては仕方がない。次を』  知らない、という言葉をそのまま信用したわけでもないが、始祖そのものについてはあまり興味もないし 知っても仕方がない。どちらかといえば味方なのだし。 『私の目的と目標の男女についてですね。まず保護して頂きたい二名の素性ですが』  数秒の沈黙の後、一気にずらずらと長文が流れる。 『高梨ヒロキ、高梨ヒロコといいます。姓の通り、実の姉弟です。ある暴力団とつながりがありますが、構 成員というわけではありません。弟の方は、年齢は二十歳前後、筋骨隆々というほどではありませんが中肉 中背よりは体を鍛えている、というような印象です。拳銃とナイフで武装していますが、関係のない人間に 手を挙げることは絶対にありません。交戦しないで欲しいというのは無用の流血を避けるためでもあります 交戦の意思を見せなければ彼は決してあなた方に敵対はしないでしょう。理由は、これは彼らの目的でもあ るのですが、彼ら姉弟はお互いを保護するために別々に現場へ向かっているのです。お互いが無事であるこ とを知らずに最悪のケースになってしまった』 『……姉の方は?』 『高梨ヒロコさんの方ですが……先ほど一般人と称しましたが、彼女は吸血鬼の一員です。ですがご存知の 通り、吸血鬼化した者は何らかの副作用を抱える。彼女にはその副作用が一切見られないので、おそらく吸 血鬼としての能力を持たない構成員なのでしょう。要するに事務方か、下っ端のアルバイトか、そんなとこ ろだと推測されます』 『その、姉の方は丸腰なのか?』 『はい。彼女は吸血鬼の仲間割れを察知して始祖に保護を求めに向かったようです。彼女自身と、弟のヒロ キさんの保護を。もっとも、いち構成員に過ぎない彼らの面倒を始祖がどこまで見るかはわかりかねますが 反抗する気はないと出頭した人間を無碍にすることもないでしょう』  ふうん……。  正直、どこまで信用していいかわからない。彼女の言葉は全て本当かもしれないし、全て嘘であっても通 用するものだ。要するに彼女の言を証明するものは何一つないということだ。だが吸血鬼の仲間割れの情報 を流したり、私に穏健派、過激派以外の第三者の存在を通知したりするところを見れば、彼女は私たちに害 をなそうとする者ではなさそうだ。そういった情報を流しても私たちには一切の損がない。信じる信じない は別として。 『……最後に私の目的ですが、その姉弟の無事です。そして、とっておきの秘密が外に露見しないこと。で すが、誰がゲームに勝つか、についてまであなた方の協力を求めるつもりはありません』 『あなた、が勝とうとしているのではないという証拠は?』 『残念ながら、証明はできません。金銭目的でないという証明なら、指定する口座に賞金と同額を今すぐお 支払いしても構いませんが』  金。その単語にアンテナが反応したが、しかし、口座ってなんだ。もちろん口座なるものの存在は知って いるが、資本主義の権化である私有財産そのものである口座など革命神様がお許しになるはずがない。そも そも石神ユズの口座番号は知っているが、そこにお金を振り込まれても私が自由に使えるわけでもない。そ れに、金銭を目的にしているなどと思われるのは革命の申し子たる私にとって屈辱の極みだ。 『金はいい。とりあえずは了解したが、姉弟の無事までは約束できない』 『お聞き入れ下さり、ありがとうございます。ところで、お名前を伺っていませんでしたね。差し支えなけ ればお教え下さいませんか』 『……ヨミ。海城ヨミ』    ***  洋館のエントランスホールで遭遇した人影は、私たちが近づいても微動だにしなかった。まるで絵画や彫 刻に見とれているかのように、何分間でもそのまま立ち尽くしていそうだった。  暗がりの中、おぼろげにそのシルエットが見て取れるぐらいの距離まで近づく。一葉さんが白鞘に右手の 小指をそえると同時に、人影は、若木が燃えて灰になり風に弄ばれるように、音もなく膝から崩れ落ちた。  一葉さんは倒れた人影に対し半身になってじりじりと近づいていく。ぴたりと4秒間静止し、構えをとい てしゃがみ込む。それを見て、私はまだいまいち息の整っていないヨミを促し、エントランスの中央へ進んだ。  倒れこんだ人影は、女性だった。そのすぐ近くに黄色いモヒカン頭の中年男性、少し離れたところに、よく 見えないがもう一名がぴくりとも動かず身体を横たえている。  呑気にお昼寝、さすがにないか。  一葉さんはしゃがみ込んだまま動かず、整った眉をわずかに歪ませていた。 「一葉さん?」  声をかけると、彼女は思案顔のまま、すっくと立ち上がる。 「……誰だ? この人」 「誰って……どっち側かはわかんないですけど、吸血鬼さんなんじゃないんですか」 「いや、まあ、そうなんだろうけど」彼女は白鞘を抱くようにして一歩後ずさる。「オールトの雲を倒せる 人がいたなんて」  オールト? どこかで聞いた単語だ。 「オールトの雲。そこで死んでるヒヨコ頭よ。始祖に反旗を翻した張本人。特殊タイプの中でも理屈も何も あったもんじゃない能力の持ち主で、私が三番目に闘いたくなかった相手」  張本人? つまりボスってことか。なら……。 「……頭がこうなっちゃった以上、抵抗はもう少し続くだろうけどとりあえずは鎮圧したも同然ね。とはいえ、 始祖の無事は確認しないと」  一葉さんはそう言って周囲をあらためて見渡す。その横をすうっとヨミが通り過ぎ、少し離れたところの 死体に近づいていった。 「ちょっと、ヨミちゃん。危ないよ」  一葉さんが小走りに駆け寄り、ヨミの肩に手をかける。私は膝をついて今しがた倒れ込んだ女性の首筋に 手をやった。  陶器の置物のように冷たく、人の肌とは思えないほどじっとりと湿っている。指先が勝手に反応するほど 嫌な感触だった。人間が本能的に拒否する「死」という事象が指の皮を伝って脳を小さく揺さぶった。しか し職業病なのか、私は同時に弱々しく脈動する仲間達から情報を聞き出す。 「……まだ息がある」  だがそれは正に虫の息で、かすかに心臓が動いている程度だ。呼吸はもはや途絶えており、身体を痙攣さ せる力も残っていないようだった。 「ヨミちゃん?」  一葉さんの声に顔を上げると、ヨミがこちらに駆け寄り、ノートパソコンをこちらに向けた。 『この二人は高梨ヒロコ・ヒロキという姉弟。ゲームに関係しない人物で見つけ次第逃がしてくれって協力 者から申し出があった』 「協力者?」 『説明しているヒマない。助からんか?』  丁寧語でタイプするヒマも惜しいのだろう。……少なくともヨミはこの二人を助けたいと思っている。在 庫はちょっと惜しいけど……人命には変えられないか。  私はこれまで延々と肩に食い込み苦痛をもたらしてきたクーラーボックスを床にどんと降ろし、ふたを開 ける。  取り出したのは、400mlの輸血パック。でもこいつは売り物じゃない。  私は400mlパックを3つ取り出し、懐から取り出したナイフで掻っ捌いた。屠殺される家畜でもここまで 盛大に血を撒き散らさないだろう。床にみるみるうちに血の海が広がり、服にも、クーラーボックスにも、 赤い鮮血が飛び散った。  一連の行為を得体の知れないといった様子で遠巻きに眺める二人を差し置き、私は話しかけた。床に 広がった合計1200mlの、自分の血に。 「ほんとはね……やりたくないんだよ、こういうの。でも人の命がかかってるんだ。みんな、ごめん、 行ってちょうだい」  血の海にむかってぼそりとこぼす。赤い溜まりが傍に倒れる女性の両脚、出血している箇所に向かって、 まるで掃除機に吸い込まれたように集まっていった。 「……そう、かなり危ない。そっちの子たちと協力して、まずは止血、傷は塞がないでね。それから全力で 酸素まわして。身体の修復は後回しで」  私は今度はパックを4つ持って立ち上がる。高梨ヒロキという人間だった死体の前に歩み寄ると、死体の 胸にはできそこないの人形のように非現実的な空洞が開いていた。そして1mほど向こうに、手にぎりぎり 乗るサイズの赤黒い物体が異様な存在感を持って転がっている。  これは……さすがに無理か? しかしどうやったんだ。  これと同じものをついさっき見た。侵入口の鍵の部分だ。あれも鍵を壊したにしてはきれいに丸く、やす りでもかけたかのように滑らかにくり抜かれていた。  あれと同じようなことをされたのだとしたら――私は跪き、人の身体に穿たれた穴のふちを指先で撫でる 「……そう。とりあえず私の言うことを聞きなさい。そこは迂回して、止血はしなくていい……ウチの子た ちを応援に送るから、しばらく保たせて」  呟いて、400mlパックをひとつ切り裂く。ダムに水が流れるがごとく、ぽっかり開いた穴に赤い水が染み 入っていった。 「いまさら衛生観念も何もあったもんじゃないけど……手で触るよりは」  今度は肉塊の真上で自分の左腕を切り裂き、体内の血液を露出させる。細い血液の糸が意思を持って三叉 に分かれ、先端が鋭いくさび型に凝固した。  ……くり抜かれた他の部分は全く破壊されていなかった。しかしこんなことをしたって、既に事切れてい る人間が生き返るわけがない。どうしたって非常識なこの傷を治すことは不可能だ。仮に身体組織の復元に 成功したところで、一度死んだ人間は生き返らない。  だが死人を蘇らせることはできた。当然にできると思えてしまっていた。  血液の糸で三点を押さえ、真上から引っ張り挙げる。血管が引っ張られるようなとても気持ちの悪い痛みが 左腕に走った。そうやって、その肉塊をあるべきところに収めた。  残った3つの輸血パック全てにナイフを突き刺し、ぼたぼたと死体の上に注ぐ。 「……そっちの子たちの望むとおりに、造り替えなさい。今まで通ってきた道、周辺の風景。そんなもの全 てを、ずたずたにされた景色は破壊して、望むままに、造り替えなさい!」 「なに、あれ……」  こっちが聞きたい。  血売り女がかついできたクーラーボックスには自分の血が入っていて、それで輸血? まあ輸血はまだ許 容できる。血液型も調べずにいきなり輸血したとしても四分の一ぐらいの確率で当たるわけだ。  だが、その次はなんだ?  胸を「抜かれた」死体を前にして、元通りに肉塊をはめ込んで、接着剤でも流し込むように自分の血液を ぼたぼたと垂らす。蝋人形の修理じゃないんだ、そんなことが現実に起こりうるのか? いや、そんなこと が許されるのか?  横暴だ。  吸血鬼とかホムンクルスとか、この時点で既に非常識さ加減に勘弁してほしいところなのに、その上あれ はなんだ? 蘇生術? 死霊術? 荒唐無稽もいいところだ。  血売り女は血液の操作に集中しているのか、ヒロキと呼ばれていた死体の上に手をかざしている。その手 首から細い血液の糸が死体の胸につながっており、そこで連絡を取っているらしい。  小さく開いた薄い唇の隙間から、ぼそぼそと何事かを呟く。血液への命令なのかもしれないし、魔術の呪 文なのかもしれない。どっちみち、そこの刀女子高生や私には全く理解し得ないものに違いはなかった。  そんなもの許されるわけがない。横暴だ。あってはならないことだ。  どうにかならないか、と問い掛けたとき、私はどうにもならないことをわかりきった上でそれでも言葉に 出した。私を初めて対等な立場の人間として認めてくれた、私と同じ電子の海に漂うパーソナリティ。夢子 と名乗ったアイツは、言ってみれば私の初めての友人なのだ。彼女の願いはなるべくなら聞き入れてやりたい、 そう思ったのも事実だ、認めよう。  だが現実問題として、いったん死んだ人間というのは生き返らないものであり、損傷した死体を元通りに 修復したとしても魂は返ってこない。それは夜に眠れば必ず朝がくるのと同じぐらい、ありふれていて強固 な常識だ。  だから私は……朝が来ないのを怖れるなんて見当違いな不安感に脳を支配されつつ、首を横に振った。 死体が一度びくんと跳ね、喉にからまった血に咳き込んだのを見て。  咳き込みはそれほど激しくなかった。オールトの雲の能力が、単純な破壊のものではなく、対象物をくり 抜くというようなものだったのが幸いしたのだろう。胸以外の箇所についてはほとんど損傷がなかった。高 梨ヒロキだった死体は、マラソンランナーが呼吸の具合を確かめるように胸に手をあて、それからすっと立 ち上がった。 「問題ありません。マイマスタ」 「……こうなると予想はしてたけど」触手のような血の糸を左腕に戻す。「生前の記憶は?」 「あります。しかし今はあなた様の僕でございます」 「なら最初で最後の命令だ。生前の記憶に従い高梨ヒロキとして同じような生を歩め。死んだ事も蘇生され た事もなかった、お前は気を失って目が覚めた。そういう設定でな」 「……了解しました。マイマスタ」  血を読むまでもない、私は自分の血液に命令して、私の僕だという男の脳を貧血状態にする。彼はあっさ りと膝から崩れ落ちた。  確信があったわけでもなかったが「こうなる」ことを予想していなかったわけでもない。やってみたらで きてしまった、というのが率直な感想だ。それは例えば、初めて泊まるホテルの部屋でコンセントの位置を 探すときのようなやり方だ。あてずっぽうな、経験則じみた直感に則って施術をしたに過ぎない。 「ヨミ」  声をかける。心なしか彼女は肩を震わせたように見えた。 「……その、協力者ってのに連絡はつく? 二人が無事なこと、でも連れて帰るのは無理だからそこらへん どうにかして欲しいこと、伝えてちょうだい」  ヨミは何か焦ったように頷き、開きっぱなしのノートパソコンに向き直る。その後ろで、一葉さんが両手 で白鞘を抱くようにしている。右手が、柄をゆるく握っていた。 「一葉さん。……二葉でもいいんだけど、車、運転できます?」  吸血鬼の反乱、その首謀者であるオールトの雲が死亡した以上、騒ぎは直に収まる。始祖の安全を確保し た後は、もう帰るだけだ。 「……ええ。二葉が運転できるわ。もちろん無免許だけど」 「なら、白髪に車を調達させます。帰りの足がありませんからね」 「助かるよ。後は始祖を見つけるだけ……」  きつい目でこちらを見ていた一葉さんが顔を上げ、螺旋階段の先を見る。そしてそのままの角度で固まった。 「私がどうかしまシテ?」  一葉さんの視線の先で、小柄な少女らしき人影が手すりを撫でながらゆっくりと螺旋階段を降りて来てい るのが見えた。弱々しい白熱灯に浮かび上がる肌は抜けるように白く、入念に手入れされているであろう本 物のブロンドはきっちりとロールされている。宝石のような瞳というのはああいうものを言うのだろう、 そんな感想を抱かせる青い双眸。黒と白という明確極まる色使いのドレスを身にまとって、白人の少女が高み からこちらを見下ろしていた。  始祖、と一葉さんが呟いた。  黒いフリフリのロリロリは私が商売道具として使っているものとは色艶が全く違っていて……真に遺憾だが それが非常に上等なものであることがわかる程度には詳しくなってしまっていた……「始祖」の名に恥じぬ 本場のゴスロリファッションであることが伺い知れる。 「あら、お客様かシラ? お初にお目にかかりマス」  彼女は螺旋階段の途中で止まり、そこから私たちに向かって挨拶の言葉を投げた。 「カーミラ・ヘルンバインと申しマス。この館の主で、そちらのイチヨウなどからは始祖と呼ばれたりもし ますが、どうゾ、カミリィとお呼びになって」  一葉さんが無言で前に進み出る。彼女は階段の前で白い膝をつき、恭しく頭を垂れた。 「神崎一葉、ただいま馳せ参じました。この非常時にお傍でお守りできなかった事をお赦し下さい」 「あラ、かまいませんワ。現にワタシはこうして無事ですし、『始祖』たる者が下賎の者の手にかかるなど あり得ませんし? むしろこんなに早く駆け付けてくれるとは思っていませんでしたワ」 「……そう言って頂けると、いくらか気が休まります」 「ところデ、そちらの方々は?」  深い光をたたえた蒼の瞳が優しげにこちらに向けられる。 「協力者です。彼女らの助力がなければ私も二葉も屋敷に侵入することすら叶わなかったでしょう」  まっすぐに垂れた髪をわずかに揺らして、一葉さんがこちらを促す。自己紹介しろ、ということなのだろう。 「……あなたが、始祖?」 「カミリィでよろシクてよ。……石神ユズさん、で合ってるかシラ?」 「なんでその名前を知ってる?」 「チョット小耳に挟んだだけですワ。これでもワタシ、顔が広いですカラ。始祖という言葉を知った上で訪 ねていらっしゃったなら、別に不思議トハ思わないのではなくテ?」 「二、三、聞きたいことがある」 「なにカシラ? イチヨウの紹介ですもの、何でも聞いてチョウダイ」 「吸血鬼内部の粛清はどこまで進んでる?」 「シュクセイ?」耳慣れない言葉なのか、彼女はかすかに眉間にしわを寄せた。「ああ、粛清。ウラギリモ ノを処刑する事ですネ? それならイマ表でやっているのではなくテ?」 「あんたが指示して粛清を、それも構成員の七割強を粛清しようとしているって話があるんだけど?」  ブロンドの美少女は、一度そっと瞼を降ろし、それから所在なさげに視線をさまよわせた。 「存じませんワ。イマ表で殺し合ってる人たちは粛清しても構いませんけれど、7割だなんて、そんな指示 を出した覚えもありませんし。それに粛清だなんてムサイ言葉、ワタシはゼッタイ使わないワ」  だろうな、とも思う。彼女は「処刑」と言うだろう。どっちみち、粛清者のリストにはカーミラ・ヘルン バインの名前があったのだ。彼女が粛清を指示したのなら自分を粛清対象にするわけがない。 「イチヨウ、その件についてはアナタに任せマス。その情報の出所を突き止めて、ワタシの名前を騙った輩 の処遇も全て任せマスから、なるべく早く調べてチョウダイ」 「承りました」  髪の毛一本揺らさず、一葉さんが答える。 「次。トトはどこにいる?」 「それも存じませんワ。ワタシも使いをやって探してはいたのデスガ、かくれんぼがオ上手みたいネ」  私はそこでゆっくりと深呼吸をした。  はっきり言って、前二つの質問は興味本位に過ぎない。一葉さんの目的である始祖の安全の確保は既に済 んだ。そして「ゲーム」も吸血鬼陣営の抗争が終結した時点で彼らの勝ちが確定するだろう。もともと、吸 血鬼が勝つことについては全く異存はない。だから「ゲーム」に関する情報はもはや私にとって大した意味 を持っていなかった。  だがこれだけは別だ。 「最後の質問」  私は彼女の青い瞳の向こう側を視線で射抜くように睨み付けた。 「日紫喜依子って名乗ってるヤツはどこにいる?」    ***  元々、ゲームが好きだからゲームを主催したに過ぎない。  そう聞いている。実際のところトトという輩が何を目的として動いているのかは不明のままであるし、彼 の関わった事件を見ていれば彼の一挙手一投足が他人を欺くための芝居に見えてきてしまう。本人に悪気は ないのだろうが、それほどトトという人間の挙動は予測するのが難しい。  アルバムに新しく写真を追加したところで、ふと懐かしくなりぱらぱらとめくり始める。金庫に厳重にし まってあるこのアルバムには、同じ女性が様々な様式の服を着てむすっとした顔で写っている。一番最初の 写真はもう1年半も前のものだが、その頃から現在に至るまでずっと表情は硬いままで、しかも棒立ちの写 真ばかりだ。ポーズをとれとは言わないが、もう少し威厳のあるところを見せてくれても良いだろうに。  レディ・ユズは今ごろ始祖の元に到達しただろうか。神崎姉弟と共に行動している以上、彼女に危険が及 ぶというのも考えづらいが、まだ少し心配ではあった。数時間前に顔を見たときは随分頼もしくなったもの だと思えたが、実際切羽詰った状況になったとしたらどうなるかわからない。なにせ、レディはどうにも頭 に血が昇りやすい性格だから。  ムラマサはどうしただろうか。彼はあくまで一般人だし、レディのように頼もしい従者がいるわけでもない。 五所瓦との繋がりはあるにしても結局のところは少々社会の裏通りを通った経験があるだけのチンピラだ。 だがだからこそ、フィリップ=マーロウになりたがるあの男の青臭さには、私は本物の敬意を抱いている。 どこでつまづいたっていいが、できれば死んで終わるエンディングだけは避けて欲しいものだ。  おそらくそろそろ私もこの箱から出ないといけないだろう。そうだな、そうしたらムラマサと酒を酌み交 わすのも悪くない。あいつと飲むとなればどうせその辺の薄めたアルコールを出すような居酒屋になるだろ うが、この際ワンカップでも構わない。あいつと飲む安酒は格別に美味く感じるだろう。  不意に人が近づいてくる足音が聞こえた。二時方向。まっすぐこちらに向かっている。覗き窓からでは誰 かはわからない。少なくともレディでもムラマサでもなさそうだ。青い細身のジーンズが見える。おそらく 女性、二十代前半ぐらいの女の脚に見えた。 「頭低くしなさいな」  それが私に向かって言われたことだと気付く前に、箱の中で小さく風が吹いた。一瞬の後に強い日差しが 私の肌と目と頭皮を焼いた。箱の屋根が、吹き飛ばされたのだ。  目が眩み、眉間を貫通してひどい頭痛が走る。額と、頬と、瞼と、とにかく露出した部分が火であぶられ たようにちりちりと傷んだ。太陽の日差しを直に浴びたのは何年ぶりだっただろうか。 「……ひどいな。私の家が台無しじゃないか」  目が開けられない。だが女の正体は声色でわかった。 「どーせ命令したところで自分からは出て来ないくせに。いつまで引きこもってんだ」 「そうは言うがね」私は声のした方に体を向けて言う。「私はもう死んだ人間だよ。本当なら二度とこの箱 から出ることはなかったはずだし、今さら甦って人間のフリをしたいとも思わない」 「うっさい引きこもり。んなこと言って未練たらたらでしょうが。トトに協力したり、あの子を思いっきり 焚き付けたり。だいたい、アンタが引きこもったせいでメンテも覚束ない素体がたくさんいんのよ。とっと と出てきてどうにかしなさいな」 「事後まで面倒見ると約束した覚えはないよ」 「屁理屈こねてんじゃないよ。人としてどうなのよそれ。まあ、出来損ないの人形がどうなろうと知ったこ っちゃないけど、ひとつだけ面倒見て欲しいのがいるんだよ」 「それは、アレかな? 最後に手がけた……」 「それ。アンタの研究は私にとっては見世物程度でしかなかったけど、あれは別よ」 「彼女については特別なメンテナンスは不要だよ。学者というのは大半のことについては無責任だが、自分 の手がけた仕事についてだけは責任を取りたがる人種でね。そりゃ食事を与えなきゃ死ぬだろうが、普通の 人間と同じ生活なら問題ないはずだ」 「……本当でしょうね? メンドくさくて適当こいてんなら殺すわよ?」 「先日見たときは元気そうだったよ。少々人見知りの気はありそうだったが」  言葉の応酬が途切れる。やはり、少々意外なことだったらしい。 「……そこまで計算してたわけでもなかったんだけどねえ。で? あの子の方は?」 「息災だよ。今頃は始祖と口ゲンカでもしているのかな?」 「ああ。まあ、そうだろうねえ。いくら手っ取り早いとはいえアレを使ったのは軽率だったわホント。私も よく殺さなかったもんだ」 「それと、聞かれたよ。日紫喜依子について」  ふうん、と目の前の女が声をもらした。 「どう答えたのよ?」 「私の知っている限りを教えたさ。なにせ、目下研究中のテーマだからね。弟子とか生徒とかそういうもの ではないが、いい加減一人立ちしてほしいと思っていたところだ。あなたもそうだろう? だから『お守り』 を始末したんじゃないのかね?」 「ううん……まあ、私にも思うところはあったんだけどねえ。じれったいと言うか埒があかないと言うか。 やっぱり少し早かったかなあ。最近の若い子はのんびりだから」  いくらか目が慣れてきて、薄目を開けると、目の前の女はいつの間に取り上げたのか、私が先ほど見てい たアルバムのページを一枚一枚、ゆっくりとめくっていた。 「……これネガある?」 「残念ながらそれしかもらってない」 「……くれない?」 「私の大事な研究資料だ」 「……じゃカラーコピーでいいからさ」  まだ日差しが染み込んで痛む目を懸命に開ける。昔の思い出の詰まったアルバムを抱くようにしている 髪の長い女がそこにいた。 「レディの頼みとあっては断るわけにはいかないが、タダじゃあない。料金は写真一枚だ」    *** 「ヒシキ……?」  始祖……カーミラ・ヘルンバインと名乗る女は唇に指を当て、思い出すような素振りを見せた。 「存じませんワ。イチヨウ? アナタ、知りません?」 「存じ上げません。ですが……」 「この住所宛にその名前で手紙が届けられている。あなたが直に小包受け取ってハンコを押す姿ってのも想 像できないけど、どこかにいるんじゃないの? 秘書とか、ああ、あとメイドとか」 「メイド、ですカ? うちの使用人はスチュワートただ一人デス。屋敷に関しては全て任せてアリマスので 彼が臨時に人を雇うことはあるカモしれませんガ、オ手紙を届けられるような人は他には……」  そんなわけ、喉まで出かかった台詞はため息に変わった。あり得る。 「ナンでしたら、探してアゲマショウか? イチヨウの恩人ですもの、そのくらいの礼はさせて頂かないと」  私は緩慢に首を振った。 「いいよ。アナタが知らないんなら誰も知らないはずだ」  自嘲気味につぶやく。そうだ。日紫喜依子なんて人間を知ってるのは本人だけ、そのはずなのだ。 「白髪、もういいぞ。キリュウさんと一緒に脱出しろ。こっちで首謀者をとっちめた。とりあえずさっき車 を止めたところで待機しておけ」  声に出して呟く。さっきと同じ、経験則に似た直感というやつだ。白髪からの応答はなかった。当たり前か。 「さて」私はヨミと一葉さんを交互に見た。「始祖を連れてここから脱出するのも少し難しいけど、 どうするの?」 「脱出?」カーミラ・ヘルンバインの緊張感のない声が響く。「私が、ここから、デスカ? 必要ありませんワ」  一葉さんがさっと顔を上げて上申する。 「始祖、お気持ちは察しますが今は御身の安全が第一かと」  その言葉を聞いた途端、始祖を名乗る女の子の顔が、ぴしり、と固まった。 「キモチ?」  かつり、と固く乾いた足音が響く。階段の上からこちらを見下ろしていた始祖が、一歩一歩ゆっくりと、 手すりを撫でるようにして降りて来ていた。 「私の、キモチ、ですって? イチヨウ」  喉の奥がひび割れたようなくぐもった音が鳴った。一葉さんが、跪いたまま、ブラウスの胸元を掴んでいる。 彼女の唯一の弱点、喘息の発作だ。 「がはっ、ぇぐぁ、はぁ……」 「アナタはとてもキレイで、賢くて、忠実ですワ。私が最も信頼している吸血鬼と言ってもいいくらい。 私はアナタがとても好きヨ」  足音とは別の、かたん、という乾いた音がホールに響いた。一葉さんが決して手放さなかった白鞘を取り 落としたのだ。 「デモネ、イチヨウ。下僕が主の気持ちを察するだなんて、ソンナ大それた事を言ってはイケマセンワ。ソ モソモ、子飼いの犬が少々騒ぎ立てたぐらいで主たる私が逃げ出すというのもオカシな話デショ? もちろ ん、私の身を案じての事と一点の疑いもなく信じていますが、それはそれ。オ仕置キは公正にしなくてはネ?」  カーミラ・ヘルンバインが一歩近づくにつれ、一葉さんの背中が不自然に痙攣する。 「ぐぅっ……ゲホ! ぜぇ……始祖、どうか……」 「ダイスキよ、イチヨウ」  一葉さんの目の前まで来た始祖は、睦言を囁くようにそっと手を伸ばし、膝を折って胸をかきむしる一葉 さんの白い首に手をかけた。  私に口出しする権利はなかった。目の前で行われているのは吸血鬼という組織の内部のことであって、 一葉さんのどれだけ辛そうな咳き込みを聞いたところで私は部外者なのだ。何も言えるわけがなかった。 「やめなさいな」しかしはっきりと、私は口にした。  ごく普通に考えれば……つまり、一般的な社会人としては、よそ様の都合には口を挟まないのが常識なのだ。 例えそれがどれだけ非道で悲惨で痛ましいものであっても、自分のテリトリーの外には自分の理解し得ない 理屈が広がっていて、安易に口出しをすると余計なお節介になる。さらに言えば、私たちは私たち自身の理屈を 侵されないようにするのに手一杯で、そして他の誰かも同じように他者からの侵入を嫌っているのだ。  私にはそれがわかっていた。今も理解している。だが全く別の理由で私ははっきりと、やめろと口にした 「……アナタはイチヨウの恩人ですし、ひいては私の恩人でもあるわけですガ、差し出がましい口を叩くの はご遠慮下さらない? 私、アナタとは良いおトモダチになれそうだと思ってイマスから」 「何もひどいことしないでって、言ってるわけじゃないのよ」 「ああ、ソウネ。少しウルサかったかしら? でもイチヨウの叫び声はキレイよ。肉体という枷に繋がれな がらも主を思う美しい女の苦悶の表情、きっと病みつきになるワ」 「だからそうじゃなくって」  私は自分の胸の奥の奥でくすぶるいらだちの原因をはっきりと自覚していた。 「借り物のチカラで偉ぶってるアンタの態度が気に入らないって言ってんのよ」    ***  女が顔を上げる。雨が降ってきたのに気付いたように唐突に、彼女は薄暗くなった空を見上げた。 「来た」 「……何が?」  彼女はそのままぼうっと、まだ出てもいない夜空の星を数えるように真上を向き、そしてゆっくりと、開 いたままのアルバムに目を落とした。 「来たのよ。あの子が。私に。宣戦布告に!」    ***  カーミラ・ヘルンバインの耳が私の発した言葉を受け取るより早く、私は左手首から伸ばした血液のナイ フで彼女の右前方を逆袈裟に斬り払った。 「……何のマネかしら? それに、借り物、トハ?」  耳をくすぐるような可愛らしい声が、そのときだけは一段冷たく感じられた。カーミラ・ヘルンバインが 一葉さんの首から手を放し、ただの一般人である私を見据える。暗殺者集団の頭目と一介の血液販売業者が 息遣いすら絶えた空間で互いを睨み付けている。社会的地位、というのが暗殺者に与えられるものなのかど うかわからないが、立場としては睡眠不足の肉食獣の目の前に飛び出したビーバーといったところだろう。 「私はアナタみたいな歯に衣着せぬ物言いをする、女の子のオ友達が欲しかったのデスガ……考えが変わり ましたワ。タクミと全然チガウ」  瞬間、ぴりっとした感覚が皮膚の裏側を駆け抜けた。生まれて初めて経験する感覚。だがそれが何を意味 したのかも、うっすらと分かっていた。 「跪きなさい。なりふり構わず赦しを乞いなさい。奴隷のように、惨めったらしく、滑稽に。興が乗れば生 爪を剥がすぐらいで赦してあげなくもないワ」  カーミラ・ヘルンバインは高らかな声で命令した。広々とした玄関ホールに朗々と響いたその声は、私の 耳には届いていたが、彼女が話しかけた相手には一切届いていなかった。数秒後、先ほどの宣言が空気に紛 れ完全に消え去る頃になって、彼女はようやくその端正な顔を戸惑いの色に染めた。  カーミラ・ヘルンバインは、私の血に話しかけたのだ。 「だから借り物だって言ったでしょ? アンタのそれは、借り物な上にニセ物なのよ。ある特定の命令符号 を持つ対象にしか聞こえない話し声なの。だから聞こえない人間には一切聞こえない。例えばそこで寝っ転 がってるヒヨコ頭さんみたいにね」  おそらくだが、オールトの雲には吸血鬼特有の副作用がなかった。外見から察すると思考回路はイカレて いそうだが、そんな人間どこにも一定の割合でいるものだ。おそらく彼は、吸血鬼ではなく、ホムンクルス だったのではないだろうか。  そう推察するには根拠があった。ひとつは一葉さんと白髪の副作用。二人の副作用の症状は血液に下され た命令が引き起こしていたものだった。次にオールトの雲の能力。いくら特殊で優れた能力だとはいえ、他 の吸血鬼とは色合いが違いすぎる。一般の吸血鬼は人間が持ち得る何らかの能力を飛躍的に伸ばしたものば かりだったのに対し、彼の能力はどう考えても人間業ではない。最後に、一葉さんにしたような事を始祖が 誰に対しても可能であるなら、オールトの雲が真正面から反旗を翻すわけがない。普通に考えれば暗殺だと か不意打ちだとか、そういう方法をとるはずだ。もちろんイカレた頭の持ち主が何を考えていたか私には想 像もつかないが、その三点から察するに、始祖はオールトの雲を、制御できなかったのではないか。 「そして、アンタに繋がっていた『線』はさっき私が切った。繋ぎ直さない限りもう更新はないし、更新が なければ新陳代謝と共に少しずつ命令が薄まっていく。そのうちアンタも普通の人間に戻れるわよ。どこに でもいて、いてもいなくても同じような、そんな一般市民にね」 「何を言ってるのかわかりませんワ。イチヨウ! その女を……」  冷たく固まった空気を切り裂くような甲高い声が走り、ホールにこだまする。こだました事で彼女も気付 いたようだ。こだまする程、周りが静かな事に。  一葉さんが律儀に跪いたまま、子供の我侭に困っているような顔で声の主を見上げていた。 「……彼女の血が受けている命令はちょっと複雑すぎるけど、アンタの出した例外命令を無視させるぐらい はなんでもないのよ?」  一葉さんの血に話しかけ、さっきの例外命令を無視するように伝えた。彼らは即座に私の言うことに耳を 傾けてくれた。彼らも反感を持っていたのだ。主でないものの命令など本当なら聞きたくもないと。  一葉さんは取り落とした刀を左手で掴み、すっくと立ち上がった。 「始祖。あなたが何であろうと私たちにとってあなたは始祖なのです。私は未だに覚えています。二葉と二人、 人のいない夜道をあてどなく歩いていたところを救って頂いた恩は決して忘れはしません。どうか、ご自重下さい」  これ以上駄々こねるようなら縛るぞ、とぼそりと呟き、私は再び白髪の血に話しかける。 「白髪、外の様子はどうだ? ……つってもそっちからこっちへの連絡手段がないか。安全なようなら、いま 玄関ホールにいるから来い。そうでなければさっき言ったように待機」  数分後、玄関をノックする音が数回響いた後、唐突にドアが吹き飛ばされた。 「あん? ……なんだ、いるんなら開けてくれよ」  蹴倒したドアをまたいで白髪が入ってくる。 「他人様の家のドアを勝手に開けるのもどうかと思ってな」 「他人様の家のドアを勝手に蹴破るのもどうかと思うけど……」  白髪の後ろからキリュウさんと二葉が顔を出す。白髪は顔や肩が擦り傷だらけだったが、キリュウさんも 二葉もとりあえず目立った外傷はなさそうだ。 「外の様子は?」 「ああ。オールトの雲を仕留めたと言うから、それっぽく脅してみたら全員逃げていった。白髪君が指揮官 を拉致してくれたのが大きいな。追撃したいところだが、足も戦力もないし、今のところは放置するしかあ るまい」  二葉が答えながら玄関ホールに入ってくる。始祖の姿を認めると、彼はひとつ会釈をした。 「脱出ルートを考えるまでもない状況だ。足は奴らが使ってきた車がいくつか鍵つきのまま放置してあるか らそれでいいだろう。ここの処理も済ませねばなるまいし、とにかく長居は無用だ。始祖よ、申し訳ないが 一旦ここを退避してもらえるだろうか?」  姉とは随分違って無愛想な語り口である。まあ、彼の副作用は眠くなるだけだから、カーミラ・ヘルンバ インの言う「オ仕置キ」をされていないのだろう。 「……行きましょう。もうここに用はないわ。吸血鬼の内々の話は私には関係ないし、ここで一旦お別れでいい?」 「……残党の襲撃も考えられるし、出来れば一緒に行動してもらいたいのだが」 「白髪を預ける……となると今度は運転できる人がいないのか。仕方ない」  私はすっかり軽くなったクーラーボックスを肩にかけ、ひとつため息をつく。とにかくこれで全て終わっ た。誰がゲームに勝つかまで見届ける気もない。だからこれで全て終わったんだ。  一歩、また一歩、何かを忘れているような気分を無視して私は外へ歩を進める。何を感じている? 帰っ てお風呂に入ってぐっすり眠って、翌日からは先輩のずぼらな指示に文句つけながら血を売って歩き、家で ヨミと一緒に出来合いの弁当を食べる、そんな単調な生活。それでいいじゃないか。見なくていいものをわ ざわざ直視しなくても世の中は渡っていける。  自分を説得するような独白を叩き砕いたのは、聞き慣れた電子音だった。 「にゃ、にゃー」  電話口から人を舐めた態度の猫撫で声が響いてきて、私は携帯を握り潰しそうになる。 「……誰? 用件は? 10秒以内に全部話しなさい」 「えーっ! ちょっと、もう少し譲歩してくれないかにゃ……」 「いま気が立ってるんだ。譲歩してやるからとっとと喋れ」 「わ、わかったにゃ……ボクちんは【またたび】っていう情報屋にゃ。えーと、ユズさん? ギミーシェル ターから伝言を預かってるにゃ……」 「だれそれ。ギミーシェルター? 知らないわよそんな人」 「えーっ! だってアイツ、レディと私の仲だとか言ってたにゃ! 知らないとか聞いてないにゃ! むし ろ知っててもらわないとボクちんが困るにゃ!」  にゃーにゃーうぜえ。 「レディ? 箱男のことか?」 「あー……箱男。そういう名前なのね……とにかくその通りにゃ! じゃあ伝えるよ準備はOK?」 「ちょい待ち」一旦携帯を耳から離して録音機能をスタートさせる。「OK」 「えー、おほん。『レディ、息災かな? 今頃はおそらく始祖の館でひと悶着だとは思うが、急ぎの用事な ので別の情報屋に伝言を依頼した。できれば自分で知らせたかったが、なにせ、私は外に出られないものだ からね』」 「いま気が立っていると言ったはずだけど?」 「にゃー!! わかったにゃ……伝言はひとつ『レディのお守りが危ない』これだけにゃ。そんで次にギミ ーシェルターに会った時にボクちんのことよろしく言っておいてほしいにゃ。ギミーシェルターに嫌われた らもうおまんま食い上げ」 「うざすぎて伝言役としては不適切だったって言っておくわ」 「にゃー!!」  断末魔の悲鳴を無視して電話を切る。 『レディのお守りが危ない』? 私の、お守り……思い当たる人は一人しかいない。即座に電話をかける。  コールが20回を超えた頃になって、私はようやく腕を降ろした。 「先輩……」 「本当にいいの?」  仕事の上司が危険かもしれない。そう言うと一葉さんは手助けを申し出てくれたが、私はきっぱりとそれ を断った。 「吸血鬼とは関わりありませんし、何より残務処理で手一杯でしょう?」  暗殺者集団というのが日頃どんな業務を行っているか知らないが、これから数日、いわば最高幹部である 神崎姉弟に暇がなさそうなのは明白だった。 「まあ、それはそうだけど……助けが入用ならすぐに連絡してちょうだい。私も二葉も、こちらの仕事を投 げてでも駆けつけるから」  そんなやり取りがあったのが30分前。  彼女たち吸血鬼と別れて、私とキリュウさん、白髪、ヨミの4人は始祖の洋館がある山を降り、市街地へ 急いだ。既に日が沈み、月が顔を出す。満月まであと2日程だが、もはや私には関係もなかった。 「その人は、一般人なの?」  車中でキリュウさんが問いかけてくる。 「私の、仕事上の先輩。今回のゲームを調査するよう私に依頼した張本人」  上の空で頷くと、彼女は意味ありげにふうんと相槌をうった。 「男?」 「男」 「もしかして、私に輸血してくれた人? 本当にぼんやりとだけど覚えがある」  再び頷く。 「あの人か。私にとっても命の恩人だ」  このところ先輩に連絡がつかなかったのは、先輩が危険を感じて身を潜めていたからなのだろうか。だと したら私に連絡のひとつくらいよこすだろう。自分に危険が迫っているのを知りつつあえて私に知らせなかった。 私じゃ頼りないから? それはあるかもしれない。私を捨てて逃げた? あの人は生粋のリアリストだ、 それもあり得る。  ゆっくりとかぶりを振る。どちらであったとしても、彼は田代さんに助けを求めただろうし、そうすれば 田代さんから私に話の一つぐらいあったはずだ。  あの不器用な人間のやりそうな事だった。先輩は、きっと、私を巻き込まないために自分一人で対処しよ うとしたのだろう。 「『一人で物事に対処するな』……自分で言っておいて、蚊帳の外にしないで下さいよ」  ぼそりと呟く。 「一筋縄じゃいかない相手みたいだね。白髪クン、飛ばして」 「これ以上スピード出したら捕まるっつの」 「法定速度ごときにビビってんじゃないの。いい? この世の中には法律より優先されるものが二つあるの ひとつは人命、もうひとつが乙女の恋心よ!」  先輩の家はぼろぼろの一軒家で、庭は雑草がぐんぐん生い茂り、塀には苔がびっしりと張り付き、一部崩 れている箇所もそのままにされている。郵便受けには美容院や宅配ピザのチラシがぎゅうぎゅう詰めになっ て押し込まれていた。人が住んでいないと思われても仕方ないようなそんな家の前に車を止め、私は連れの 3人に車で待つように言い、急いで玄関の引き戸に手をかける。  鍵はかかっていなかった。無断で立ち入り、書斎の方へ向かう。  何度も訪れた部屋だ。窓際のPCデスクの上は灰皿からこぼれた灰が落ちていて、パイプベッドの上にはし わくちゃになった毛布とハンガーに吊るされたままのシャツ。床にはペットボトルが散乱していて足の踏み 場もなく、入るたびにいい加減整理整頓を覚えろと胸中で毒づく。それが、今回だけは違った。  よく見知った顔が、雑誌が大量に収められている本棚に背を預けて倒れていた。 「先輩……」  声が勝手に唇の隙間から漏れ出した。同時に椅子に座っている人物にも気付く。 「やあ、遅かったね。そっちの用件は済んだのかい?」  知らない男だ。くたびれた地味なシャツにすその余っているズボン。髭は伸び放題になっていて、粗雑と いうより不衛生な印象を受ける。目じりに刻まれた深い皺とは相反して私を見るその視線だけは妙に澄み切って おり、年齢がわからなかった。 「……誰だ、アンタ」  怒気を隠さず言い放つ。 「誰だ?とは、つれないね、レディ」  その言い草と声色が一致する。 「箱男……」私は歯軋りを隠して男を睨み付ける。 「もう箱には入っていないからね。そうだな、ギルモアと呼んでくれればいい」 「お前が!」  声を荒げると、箱男……ギルモアはゆっくりと首を振った。 「最初に言っておくが、彼……石神君は死んじゃいないし、彼をこうしたのは私じゃあない。私はあくまで 自分の意思でここに来ただけさ」  私はギルモアの声を無視して先輩の傍に膝をついた。首筋を触ると、まるでついさっきまで雪に埋もれて いたかのような不気味で冷ややかな感触が返ってくる。脈が、なかった。 「なに、これ」それなのに彼は息をしていた。 「私は医者ではないからね……もっとも、医療の心得があったところで『それ』はどうしようもないだろう そうではないかな? レディ」  ギルモアを睨み付ける。だが彼の言う通りだった。世界中のどこを探してもこれを治せる人間はいないだ ろう。そう、人間は。 「……お前は」  私は立ち上がって、椅子に腰かけてこちらを眺めている男を睨み付けた。 「お前は! 何をしにここに来た!」 「八つ当たりしても仕方がないだろう。実際、私にはどうしようもない。それとも知らせない方が良かった かな?」 「……っ!」  言葉に詰まり、ギルモアの襟首を掴む。彼には責められる謂れはない、それはわかっている。誰を責めた ところで誰も救われないのはわかっていたが、怒りのぶつける先がそこにしかなかった。 「私を責めるのはお門違いだよ。私はこの通り小さきものだし、言ってしまえば被害者と言えなくもないんだ。 大きなものの、言葉遊びにすら劣る暇潰しに巻き込まれた被害者とね」 「……お前、は」  言いたくもない言葉が、聞きたくもない返事を誘う質問を形作る。 「知っていた、のか? 私が、何者か」 「でなければ血液のサンプルで情報を売ったりしないさ」  ……掴んだ襟首を放し、指一本動かさない冷たい骸に向き直る。薄く開かれた眼は私を見てはいた。だが 先輩は私を見ていなかった。意識もなく、意思もない、生ける屍。首筋にしっかりと、二つの赤い犬歯の痕 が残っていた。 「それが、何を意味するかわかっているだろう。彼はもう、全身の血液を支配されている。その上で半分生 かされているんだ。君は決断しなくてはいけない」  私を怖いと言った子がいた。  ちょっとしたイタズラだ。手首を掴み、周辺の血液に話をして数秒止まってもらう。正座して脚が痺れる のと同じような現象。冗談半分にそれをやったとき、彼女は私を怖いと言った。  そうだ。それまでもほんの小さな違和感が私を取り囲んでいたのだ。集団の中にあって独り異質な個体。 それは明確な形を取らないまま、私を少しずつ、周囲から引き離していった。でもそれは、意識して見据え なければ見えないままにしておくこともできた。私と私以外との間に張られた、見えない透明な壁。いつの 間にか、私は見たくないものを見ないままにしておく事が上手くなっていた。 「君は決断しなくてはならない」  私は私であることを拒否したかった。何か忘れている気がしても、そのまま遊び呆けていたっていいじゃ ないか。それで後悔したって誰に迷惑をかけるわけじゃない。いつまでも浅いまどろみの中で終わらない夢 を見ていたって構わないじゃないか。 「君が決断しなければ、彼はただ死ぬ。もともと人の生き死にに意味などないが、誰かが信じ込めるような 仮初の意味すらもなく、本当にただ死ぬだけだ。そして君は、彼をさしたる決意もなく見殺しにしたことを 長い生涯ずっと後悔し続ける」  だから! 何で皆私に決断を求めるんだ! 何で私が、他の誰かでいいじゃないか。違う、イヤだ。誰か に先輩の生き死にを決められるなんて絶対にイヤだ。私が、私だけが、彼に触れる。彼を殺せる。どうして も手に入らないなら壊してしまってもいい。違う、そうじゃなくて……。 「いい加減あきらめなさいな。アンタがどんだけ普通を演じたところでアンタはアタシの娘なの。誰もアン タを理解ってくれない。できないのよ。できないことを責めるのは非人道的ってものでしょ」  うるさい!! 彼はそんなじゃない! 「誰も彼もが皆自分を好きでいてほしいものよ。でもね、私たちにはそれが叶わないの。ならいっそ、自分 を好きでいなければならないようにした方が、お互いのためなの。だから私たちは」  わかりたくもない。でも身に染みてわかってしまっていた。だから私たちの血族は、営々と続いた長い歴 史の中で自ら孤独になり、残された愛する者が自分を置いて幸せになるのを拒んでいた。  それなら、なんで私を拾ったんですか。ねえ、いっそ放っておかれたなら、本能の赴くままに生きていた方が 良かったんじゃないですか。私は、私に近づく人たちを好きなだけでいたかった。彼ら彼女らが私を好きで いなければならないなんて、そんなの望みたくもなかったのに。 「たいした理由じゃない」  ……先輩? 「お前がいい趣味してたからだよ」  血の気の失せた頬を撫で、私は先輩が最初に私に言ったことを思い出す。 『ルールは一つ、俺の命令は絶対。まず時間厳守。次に、そうだな、黙って俺の前からいなくなるな。いな くなるなら必ず言いに来い。引き留める権利もないが、何かしら言ってやれることもあるかもしれん』 「そうでした。そうでしたね、先輩。私がいずれいなくなると、わかっていたんですよね。あの時は、なん でそんなこと言うのかわかりませんでした。今でもわかってはいませんけど、それは、たぶん、私がわかり たくないだけなのかもしれません」  決断しなければならない? 言われるまでもない。  私は、私の好きな人を好きでいる。この想いを他人に消させはしない。 「先輩」私は自分の唇を噛み切った。「サヨナラです」  そして、想い人の冷たい唇にそっとキスをした。    ***  電車の中は座席は全て埋まる程度の混み具合で、禿頭のサラリーマンや部活帰りの女子高生、買い物帰り の主婦、そんな人たちが互いによそよそしく肩を狭めて座席に座っていた。ある人はイヤホンから流れる空 気の振動に耳を澄ませ、ある人は中吊り広告を端から端まで真剣に読み耽る。そこには他の誰かが存在する ことを忘れたような人ばかりが集まっていた。 「私はここに残らないといけない。石神君が目覚めたら病院に連れて行こう」 「お願い。10分もすれば気がつくと思うから」 「そうか……レディ、これから君がどこに行こうとするのか、私には察しがつくんだが、その情報は要るかな?」 「要らないわ。わかるもの……私は父さんの娘だから」  私はその中を、電車の進行方向とは逆に歩き、車両を次々と移っていた。いくらか空いているとはいえ、 立っている人にとってはそれなりに迷惑だろう。外は既に夜の帳が降り、窓ガラスは反対側の座席に座って いる人たちの疲れた顔を映している。そこに映っているはずの私の姿はなかった。 「ヨミを送ってやって」 「いいけど……これからどこか行くの?」 「ええ。ちょっと人に会いに」 「……会いに行くだけ?」 「ええ」 「……私たちって、そんなに信用ないかしら」 「信用しているからこそヨミを預けるんです」 「……言っても無駄か。わかったよ。明日、服買いに行きましょう。もう少しマシな、カワイイ感じのやつを」  見なくていいものをわざわざ見なくても、世の中は渡っていけたかもしれない。気付かないフリを続けて いれば私はいつの間にか、最も生きやすい形に自分で自分を調整していたかもしれない。  それはそれで別に問題があるわけじゃないし、おそらく誰もが多かれ少なかれやっていることだ。でも私 は素直を首を縦に振るわけにはいかなかった。それは長いこと続いている反抗期のせいなのかもしれないし 私個人の性質によるものなのかもしれない。いや、多分、自分が初めて好きになった人の影響だろう。  もう何度車両を変わっただろう。私は重い鉄扉の前で立ち止まる。私の直感と、記憶と、そして影を映さ ない窓ガラスが、目的の人物がそこにいると指し示していた。  もう後戻りはできない。私は結局、ヨミを守ることも放棄してここにいる。結局のところ、私は自己中心 的な人間なのだろう。自嘲しつつ、最後の鉄扉を開けた。  女にしては背の高い、長い黒髪の女が、こちらに気付いて心持ち目を大きくした。 「やあ……。久し振り」  親しげにかけられた声を無視して私は自分の言いたいことを言う。 「いくつか聞きたいことがある」 「……なに?」 「カーミラ・ヘルンバインに糸を繋いでいたのはアンタ?」 「確かめるまでもなくない? 私以外に誰がいるのよ」 「……今回のゲームの目的は?」 「ああ、うん。他の二人はよくわかんないけど、トトは、なんか自分の同類を捜すとか言ってた。ギルモア は、ホムンクルス研究のために私に協力してただけ。一通り研究が終わったらあっさり身を引いたなあ。私 はたいした事考えちゃいなかったよ。ただ単に、ちょっと組織として大きくなり過ぎて使いづらくなってき たんで、この際内部抗争でも起こして間引きしようかなって。それだけ」 「ホムンクルスってのは……やっぱりアンタの差し金だったのか」 「いやあ、単に興味本位で見てただけ。操血術式をインプラントすればクローン生成の問題の大半は解決し ちゃうんだね。つっても、その肝心の術式は私じゃないとできないから、結局研究止まりなんだけどさ。で も満足そうだったよ、ギルモアのやつ」 「……それなら何で先輩に手を出した? アンタの目的には関係ないじゃないか」  女は、つり革をつかんだまま、頭に手をやった。 「あのねえ。いい加減独り立ちしなさいって。そりゃ今回のゲームの目的には一切関わりないけど」  つり革から手を放して、女は私に向き直った。 「母親が子供の成長を促すのは立派に義務でしょう?」 「そんなこと頼んだ覚えはない!」  車両に響き渡る怒声は、女の耳には届いていないようだった。どこ吹く風といった様子で女は嘆息する。 「またそうやって駄々こねて……。ほんと、成長しないんだから。あんたまだ血を舐めて遊んでるわけ?  いい加減自立してもらわないと心配なのよ。で、あの男どうした? ちゃんと吸って僕にした?」  私が駆け付けたとき、先輩は完全に血を読まれていた。先輩の血は先輩の言うことを一切聞かない他の誰 かの僕となり、彼は緩やかな死を受け入れるだけの生ける屍になってしまっていた。同じ力を持つ読み手が 彼の血をもう一度読んで説得すれば彼はその呪縛から逃れられたかもしれないが、私にできるわけがなかっ た。そうなってしまった以上、彼の命を長らえさせる手段は一つしかない。  相手の血を吸い、対話ではなく服従させる。強制的な血読み。他人の尊厳を無視して醜い我侭を通す最低 最悪の、私が最も軽蔑する行為。 「……吸った」 「あらそ。美味しかった?」 「ふざけんなクソババア!!」  こいつは、私に血を吸わせるためだけに、先輩を殺した。たったそれだけのために! 「どこでそんな言葉覚えてくんのよ。血を舐めて人間からかってるようじゃ子供扱いされてもしょうがない でしょ。いい加減、血を吸う事を覚えなさい」 「……人間だ、私は。アンタみたいな化け物と一緒にするな!」  目の前の「吸血鬼」はたわいのない冗談を聞いたときのように小さく笑う。 「なぁるほどねぇ。まだそんな幻想抱いてるわけ? 諦めなさいって何度も言ったでしょう? 人間は吸血 鬼に従うし、吸血鬼は人間を意のままにする。対峙した以上、その壁は越えられない。それが生物の格とい うものよ」 「越えられないって、諦めたのはアンタの方じゃないの」  女はぴたりと表情を止めた。そして感情の失せた瞳でこちらを見据える。 「私は、自分で自分を誤魔化すのが上手くなってしまった。こんなヘンな力を持って産まれたから人の群れ に上手く馴染めないんだって、自分に言い聞かせてきた」  ちくりと唇が痛んだ。ある意味偽善かもしれない。でも本心だ。 「でも彼は違った。身寄りもない見知らぬガキを拾って、血と話ができるなんて絵空事を聞いて冗談扱いも しないで、普段からぞんざいにこき使っておいて、私なんか見捨てて逃げればいいのにこんな時だけ体張って かばって! 底抜けにやさしい人なんだ。人の群れからはぐれた私を、あんなにあっさり引っ張り上げて くれたんだ。誰も信じられなかった私が、初めて信じられたんだ。壁なんかないって、彼だけは!」 「だから、そんなに好きなら自分のものにしちゃえばいいじゃない。て言うか、もうあんたのものなんだから。 彼はあんたに嘘偽りのない真摯な愛情を注いでくれるはずよ。そりゃ少し打算はあるかもしれないけど 男と女の間なんてそんなものでしょ?」 「もう、あの人には会わない」  女が眉をひそめる。 「……私は弱いから、いつかきっと、あの人を思い通りにしてしまう。愛を囁けと命令してしまう。そして いつか、胸に芽生えたこの想いもかすれていく。私は彼を好きなこの気持ちも、彼自身も、失くしたくない だから、あの人には二度と会わない」  ぴんと空気が張り詰めた。汗が自分の首筋を伝っていくのがわかる。取り巻く空気が一段と冷たく感じ、 私は身構える。 「……そういう甘っちょろいところ、誰に似たのかしら。ああ、言うまでもないか。あの男ね。無様な死に 様だったな。禁断症状で理性を失った自分の娘に血を吸われても一切抵抗せずにそのまま意味なく捕食された、 あの無様な男」  空気の振動が鼓膜を通じて意味を形作り、それを脳が拒否した。  なに? 「あれ見てちゃんと吸えてたから、もう大丈夫だと思ったんだけど、勘違いだったわね。まさか、あれ以来 血を吸ってないなんてことはないと思うけど」  こいつは、なにをいっている? 「……なによ、まさか覚えてないの? 一切手加減なしに、残して生き長らえさせるとか考えもしないで、 吸えるだけ血を吸い尽くしたじゃない。自分の、父親の血を」  じぶんの、ちちおやを 「あんたが殺したのよ」  わたしが、ころした? 「止めなかった私にもいくらか責任はあったかもしれないけど? いくらあんたがダンピールだとはいえ、 血を吸わないと死ぬわけだし、変に人間と馴れ合うようになっても困るから、教育の一環としてね」  教育? 何の? 「いい加減認めなさいな。依子」  日紫喜依子。かつて子煩悩な父親に甘やかされて育った、ある吸血鬼の娘。 「私をその名前で呼ぶなあ!!」  一瞬の間の出来事だった。左腕から大量の血液が噴出し、世界を赤に染める。意識の外で、私の血液たち が自発的にとった、私の意識の行為。どちらが主でも従でもない、生命を維持し生命により形作られる、生 物の生命と魂の象徴。それが幾本もの赤い槍となって目の前のいけすかない女をその槍先に掲げようと襲い 掛かった。  それよりほんの少し遅れて、女の指先から細い糸が伸び、一瞬で膨張する。その赤い膜に槍のほとんどが 捕らえられる。唯一貫通した一本が、女の目を食い破ろうとその槍先を伸ばす。しかし眼球に後数ミリとい うところで、まとわりつく私のものでない血に絡め取られ、勢いを失った。  女は、ひとつ嘆息をした。 「……あのねえ。あんたが私に勝てるわけないでしょ。あんたは生まれたばかりの赤ん坊。こっちは二百年 からのベテランなのよ? でもまあ」  ざくろのように赤く光る唇が、明確な笑みを形作り、女は周囲に目を走らせる。 「あんたが信じてるものを一通り壊す必要がありそうね。人間ってのはしょせん飲み物が入った肉の袋なのよ?」  言葉と同時に、槍を防いだ膜から数え切れないほどの細い糸が伸びる。鋭利な先端を持つ針のような血が 周囲に座っている、何の罪もない人たち全てに向かった。  そして、その全ての針が、薄い粘膜によってぎりぎりのところで停止する。 「……何のつもり?」  女に向かっていた血液を引き戻し、薄く引き延ばして、乗客を襲う血液の針を絡め取る。  だがそれで精一杯だった。逃げて、と周囲の人たちに言っても意味がないのはわかっていた。目の前の女 の姿は私以外には見えないし、私たちの声も一切聞こえていない。私が展開した血液の膜は圧倒的に量が足 りず、向こう側が透けて見えてしまう程だ。こいつがその気になれば、布に縫い糸を通すように針は貫通し その向こうにいるどこの誰とも知らぬ人の生命を奪うだろう。 「けどね……一瞬止まれば十分なんだよ……っ!」  私は心臓に集まる血液に命令し、採血可能量を越える量の血液を外部に派遣する。視界に砂嵐のような幻 覚が走り、両の膝が私の意思と関係なしに折れる。景色の色が薄れ、わきの下に嫌な汗を感じるくせに全身 に鳥肌が立っていた。  顔を下げないようにするのが精一杯だった。目の前の女がどんな表情をしているのかも読み取れない。せ いぜい、笑みが消えたのはわかる程度だ。 「……やめなさいな。あんたは身体は人間なんだから、身体の血を出し切ったら死んじゃうでしょう。そう までして、あんたに特別優しいわけでもない、ともすればあんたに危害を加えるような無関係の人間の命を 助けたいわけ? 理解できないな」  女が嘆息したかと思うと、周囲に漂う女の血液が鎌のようにしなり、私を襲う。  首から、残り少ない血液が滲み出す。頬を隠していた髪がばっさりと床に落ちた。  それでも、私は目を背けなかった。自分の血を戻すこともしなかった。 「やめなさい! 本当に命に関わるよ」  せき止めている針に今にも貫かれそうなのが、左の手首から伸びる血液から伝わってくる。私がこの体た らくなのに、目の前の髪の長い女は指先、いや、爪の先をちょっと血液に戻しただけだ。差は圧倒的だった  私は、ほとんど感覚がない血の失せた右手で、ポケットの中にある四角い箱を取り出す。いつか先輩に手 渡された、長方形の箱。それを開け、一本の棒を取り出し、口にくわえる。  先端に火をつける。白い煙が私の視界を覆う。紛れもない、先輩のにおいだった。 「……針先を厚く、そこ以外を薄くして針を防いで。もっと細かく、命令に忠実に動いて。それでも足りな いなら私を空っぽにしてもいいから、やって」  肺からニコチンが血液に染み渡り、血液がより過敏に反応するようになる。針に貫かれそうになった血液 の膜が、徐々にそれを押し戻していく。 「……認めるよ。私は、あんたの娘だ」  かすんだ目で睨み付ける。枯れ果てた井戸のような喉で、締め上げるように声を出す。 「でも、人間だ」  煙の向こうで、女が諦めるように首を横に振ったのが見えた。 「……あんたがそこまで馬鹿だったとは思わなかったわ。いいよわかった、本当は自分の娘に手なんか挙げ たくなかったけど、身体が致命傷を負えば血を戻さざるを得ないでしょう」  無数の針に込められた力はまったく衰えないまま、女は新たに爪の先から血液を伸ばし、楔のような形に 整える。通行止めのコーンぐらいの大きさの、槍の穂先。刺されば致命傷を負うのは明らかだった。 「自分の無力さ加減に歯噛みしながら、眠りなさい」  空気を貫いて、重い衝撃が接近するのがわかった。 「……。」  でもそれは私に届かなかった。  私と、女の間に割り込んだ小柄な人影は、手をかざしただけで血液の槍を押し留めてしまった。それどこ ろか、槍の穂先はその形を保てず本来の液体の姿に戻り、逃げ帰るように女の足元に集まる。  見覚えのあるくせっ毛が、半分顔をこちらに向ける。 「ヨミ」  見間違えるはずもない、私の小さな同居人だった。 「……アンチ吸血鬼」女がぼそりと呟いた。「操血術を阻害する能力、世界の頂上者に対するアンチテーゼ 聞いてはいたけどギルモアのやつ、ここまで完璧に仕上げていたとはね」  瞬間、周囲に張り巡らせた血液の防壁に加えられていた圧力がふっと消えた。目の前の女の指先に血液が 集まっていく。 「アンタとその子が知り合いだってのはびっくりだったわ。まあ、元々アンタの遊び相手にいいかなって 思ってたから、ちょうどいいけどね。その子がここまで完璧に仕上がってるってなら、不本意だけどここは 引き下がるしかないね」  時間をかけてゆっくりと、女は笑みを浮かべた。薄い、子供をあやすような笑み。 「ちゃんと母親と認めてくれただけで満足するわここは。でもね、依子……アンタはまだ子供だから。その うちわかるよ。私たちがどんなに無垢な愛情を向けても、彼らは壁の一枚向こうからそれに応える。人間が どうこうじゃない、生物としての本能。自分より強い力を持つ相手に抱く怖れ。それは否定できないし非難 してもしょうがないの。そのうち身に染みて、わかるよ。愛した人が自分を怖がるってことの虚しさがね」  私が何か言うより先に、女の姿が色褪せていき、やがて霧のように見えなくなった。にこやかな、殴りつ けたくなるような微笑を残して、私の母親は目に映らない微粒子に身体を変化させてその場から消え去った  張り詰めた空気から解放され、私はがくんとうなだれる。残った意識を絶やさないように懸命に、辺りに 展開した血液を呼び戻す。あらかた集め終わると、ヨミが手を差し出しているのに気付く。私の、かけがえ のない眷族。手は暖かかった。 「……ヨミ」かすれる声でその名前を呼ぶ。「手伝って。……最後の、仕事がある」    ***  市内有数の私立病院。入院病棟の廊下を、明らかに場にそぐわない格好をした若い男が歩いていた。徹底 的に色を抜いた白に近い短い銀髪を逆立て、ネックレス、指輪、口と耳にピアスと、ところどころにシルバーの アクセサリを身に着けている。どちらかというと怪我をして運び込まれる役の方が似合いそうなその男は、 ひとつの個室の前で立ち止まった。表札を一瞥して、そのドアを開ける。 「……誰だ? お前」 「よぉ、旦那。うちのご主人様からお届けものだぜ」  細く白い指が絶え間なく動き、キーボードの上で軽快なダンスを踊る。私はそれを陰鬱な面持ちで眺める  あの後、私は自分の部屋に戻ってすぐに意識を失った。これまで生きてきた中で最もハードに肉体と血液 を酷使した結果だ。  気がついたのは満月の翌日の朝だった。ヨミが呼んでくれたらしく、キリュウさんが私とヨミの面倒を見 てくれていた。目が覚めて、意識がはっきりする前に田代さんから電話がかかってきた。例の「ゲーム」に 勝ってしまったそうだ。持ち主に返す約束だったZ404がアタリの携帯だとか。本当ならもともとのフラッグ だった携帯を握っている神崎姉弟が勝者なのだけれど、ゲームの裏の事情を知っている身としてはそれに意 味がないこともわかっていた。  それから、田代さんはトトに会いに行ったそうだ。拍子抜けするほど近所に住んでいたらしいが、近々 引っ越すとも言っていたらしい。その理由も聞かされたがよくわからなかった。「私たちが近くにいると 世界の数が等比級数的に増えてしまうから」だそうだ。そして「とっておきの秘密」というのは、田代さんに とっては奇跡のような秘密なのだろうが「あなたを好きな人が身近にいる」だったらしい。あの水上という教 師のことだろう。気付かない方がどうかしてる。  箱男……ギルモアは一度だけ私の前に姿を見せた。先輩の入院先と、別れを告げに来た。研究が最高の形 で結実した、と満足げに言っていた。そして箱から出てしまった以上、少なくとも屋根のあるところを捜さ ないといけないと言い残して出て行った。何がしたかったのかさっぱりわからない。  神埼姉弟は「吸血鬼」の再編に忙しいようだ。始祖が求心力を失った以上、維持するにせよ解散するにせよ 彼らが舵取りをしなくてはならない。落ち着いたら一度甘いものでも食べに行こう、そう言っていた。  私とヨミは、この通り。陽の当たらないところを選んでおっかなびっくり歩いて行くしかないのだろう。 日溜まりの中をスキップして歩くよりは断然いい。ただ、そこに先輩はいない。  やがて一つ大きくタン、とキーボードを叩く音が響く。後ろで結われたくせっ毛が揺れ、ヨミがこちらを 向く。喜怒哀楽の薄い表情のまま、彼女はこくんと頷いた。  いろいろあった。この数週間、なんだか一年分ぐらい働いた気がする。いわくつきの携帯争奪ゲーム、吸血鬼、 可愛らしい眷属との出会い、様々な友人たちとの出会い、母親との再会。でも、それもこれで終わる。  完全に、終わる。 『と い み み せ ち に る』  ディスプレイを見るとヘンな言葉が並んでいた。驚いてBSキーを押す。ええっと、こういうときは、Altと かなキーを押すんだっけ。 『せんぱい』  きちんと入力されているのを確かめて、変換しようとして、また不安になりもう一度見返す。大丈夫、 間違いない。 『先輩』  名前で呼ぼうか、少し考えた。でも結局やめることにした。私と彼の間柄は、仕事の上司とその部下で、 私は彼を『先輩』と呼び続けてきた。なら私にとって彼はやっぱり『先輩』という名前で良い。これまで積 み重ねてきたものを今さら翻したくはなかった。 『こんな形ですみません』  キーボードに目を落として人差し指で単語を一つ打ち込み、ディスプレイを見る。打ち間違えて慌てて消し、 最初からまた打ち直す。 『いま私は、前に住んでいた部屋を引き払って』  今ごろ白髪は病室の隅の方で居心地悪く壁に背を預けているだろう。 『あなたの知らない平凡な田舎町に、部屋を借りています』  そして先輩は、病院のベッドの上で、遅々として進まない一方的なチャタリングを眺めているはずだ。 『もうご存知でしょうが』  指が思うように動かない。疲労のせいかもしれない。元々キーボードを打つのは遅いのに。 『私は、人間と吸血鬼のハーフです』  一度打ち込んだ文章を、消して、書き直してまた消して。疲労のせいじゃない。打つのが遅いだけでもない。 『私は』  私は、しゃべりたくないんだ。 『あなたの血を吸いました』  打ち込む一語句ごとに怖れが募る。いつ回線を切られるかもわからない。 『私があなたの家に着いたとき、もうあなたは他の吸血鬼に血を吸われていました』  そもそも先輩はこの文字を見ていないかもしれない。気持ち悪いと言って遠ざけているのかもしれない。 『あなたを助けるためには、そうするしかなかったんです』  体のいい言い訳だ。もともと私に関わらなければ母親に血を吸われることもなかった。 『私があなたに会えば』  会えば。会ったなら。会えれば。会いたい。けど。 『私はあなたを意のままにできます』  それが、吸血鬼の力。絶対的な支配の力。 『私にはそんな気はありませんけど、そうできるってだけで、怖いと思います』  そんな気はないけど。 『だから、チャットでお話しさせてもらってます』  そんな気にならない自信はなかった。 『私は』  何だろう? 私は。私は、何を言いたい?  あなたのことが 『もう二度と会いません』  ディスプレイに映った言葉は私の胸に舞い戻り木霊する。 『二度とあなたに会いません。恩のある人だし、そんな人を怖がらせたくないから』  そんなたいそうな理由じゃない。私は、私の好きな人が私を怖がる姿を見たくないだけだ。結局は、自分のため。 『だから、さよならです』  無機質な感情のこもらない文字の羅列。  私は、私はあなたに会えて嬉しかった。暗く沈んだ海の底でそのまま朽ちて死んでいっても良かった、そ れをあなたが救ってくれた。最初はどちらでも良かったんです、でも私は、あなたにぞんざいに扱われて、 人並みに扱ってもらえて、忙しくて慌しい日々を送るうちに、いつの間にかいっぱしの人間になれたような 気がしていました。甘い夢でした。いま思い出しても暖かい涙と共に浮かび上がる様な、たどたどしくて心 が弾む音楽が聞こえてくる様な、素敵な季節でした。今でも感謝しています。私は出来るならあなたに直接 会ってお礼を言いたい。精一杯の感謝の言葉、考え付くだけの感謝の言葉と共に、笑顔で、一点の曇りもない 笑顔で、勢いよく頭を下げてお礼を言いたい。先輩は私の先輩なんだから、私は後輩らしく。そしてあなたの 偉そうなありがたそうなお小言を頂いて、ほんの少しいじわるな言葉で返すんです。整理整頓ぐらいちゃんと してくださいとか、シャツはハンガーから外して畳んでくださいとか、女の子を煙草くさい車に乗せないで くださいとか、そんなお節介な言葉で返して、生意気言うなって小突かれて二人で笑いあうんです。 そして、身体は大切にとかそんなありきたりの言葉を最後に、私はゆっくりだけど淀みない足取りであなたに 背を向け歩き出す。私が経験できなかった高校の卒業式みたいに、顔を上げて、ちょっと強い風に髪を巻き 上げられながら、決して振り返ることなく、あなたと別の道を行くんです。  気がつくと頬を涙が伝っていた。左手首の包帯にぱたりと落ち、染みになることもなく拡散し見えなくなる。 『さよならです、先輩』  言いたいことはたくさんあった。今にも喉をついて飛び出しそうな言葉の数々を、私は指に託すことが できなかった。私と彼はいま繋がっている、私がこの指を動かしさえすれば、私の感情のある程度なら彼に 伝えることができたかもしれない。でも指が動かなかった。動かすのを無意識に拒否していた。伝えることが 怖かった、拒絶されるのはもっと怖ろしかった。そして思い通りにならない指で懸命に、伝えなくてはならない 言葉を私はただ繰り返し打ち続ける。涙が流れるのをそのままに目を見開いて、気が狂ったように、言葉を 打ち込んでは消し、自分に語れる言葉がないのを思い知る。 『サヨナラ』  もし先輩が私のことを怖くないって言うんなら、先輩が私を探して下さい。どこかにはいます。どこにも いないなんてことはありません。化け物ですが幽霊じゃないんです。約束します、私は先輩に何の命令も 出しません。先輩はいつも通り先輩らしく、私をこき使ってくれていればいいし、私は、そりゃ不平不満 ぐらいは言いますけど、先輩の下で働くことは正直言ってけっこう楽しいんです。だから、もし私が必要なら、 先輩が私を探して下さい。どこかにはいます。必ず、います。 『私はあなたのことが好きでした』  打ち込んだその一文を確定しないままに、私はノートパソコンを閉じた。そこから先は、喉をかきむしり たくなるような嗚咽に呑みこまれてもう憶えていない。    *** 「……と、いうのがまあ私の初恋だぁね」 「うおーロマンチックです! 先輩すごいです!」 「まあまあ、大人の女になればこのくらいは造作もないと言うか、嗜みと言いましょうか」 「そこに痺れますぅ! 憧れますぅ!」 「恋は女をキレイにするものよ、お譲ちゃん」 「なにがだこの血吸い女」  ハリセンで叩かれる。もう声も出るようになったというのにまだ使ってる。 「依頼がもう三件も溜まってるんだ。とっとと片付けにかかってくれ。金がないからって普通のアイス買って きたら縫い針を千本飲ませて吐き出させた上にそれ使って口縫うぞ。ハーゲンダッツ以外のアイスは下級 市民が慰めに口にするものだ」  いつからこの娘はこんなに可愛くなくなったのだろう。少し背が伸びたからだろうか。いやでもこのつんつん 具合もなかなか。 「私あれ脂っこくてあんまり好きじゃないです……」 「脂は最高だ。にんにくも最高だ。ああそう、世の中にはzirrowという脂とにんにくを極めた至高の料理が あるそうだが一度食べてみたいものだ。どこの国の料理か知らないが、きっと料理に生涯を捧げたような 漢気溢れる料理人が作っているに違いない。今度連れて行け」 「……私にんにくダメなんだけど」 「お前たち……理解できないな。脂ににんにく、あんなおいしい食材がどうしてダメなのか。まあいい、 味覚オンチどもは海草でも食ってればいい。いや、藻だな。藻。うん、お似合いだ。味気のない藻をもそもそ 塩水で食っていればいい。そして藻のお仲間に成り下がり孤独に光合成すればいいさ。私はzirrowの絶妙な 味わいを楽しみながら優雅なひと時を過ごさせてもらう」 「そんなああ、ヨミさんひどいです」 「情けない声あげる暇あったら、さっさと依頼人のとこに行って来い。こっちはもうハッキング済ませて 裏付け取ってあるんだ。ちゃっちゃと働け小娘」  ばさり、とクリップで止めた書類を投げて渡す。浮気の証拠写真とメールの文面だ。 「もう浮気調査はこりごりです……」 「……藻の酢漬けにするぞ」 「はいぃいぃぃいってきますぅぅう!」  16くらいに見える女の子は慌しくかばんを取って出て行った。しかし……藻の酢漬けとはおそろしい。 食卓に並んでも誰にも相手にされない不遇なおかずの最高峰ではないか。  ちなみに小娘呼ばわりしていたが身長はヨミの方が10センチ以上も低い。もちろん実年齢なんか考える までもない。 「まったく……ほら、さっさと仕事しる。雑用なら小娘に放り投げてもいいが、荒事はお前の仕事だろうが」 「ああ、メールでもらった資料だけどさ、あのほら、現場の写真。rarとかいうファイルあれなに? zipで ちょうだいよ」 「お前は麻呂かggrks」  苦みばしった表情で鋭い眼光を投げかける2歳児。……ところどころ日本語がヘンなのは私の教育方針に 問題があったのだろうか。  冷蔵庫を開けて最後のハーゲンダッツを取り出し、幸せそうにくせっ毛を揺らすヨミを眺めながら、私は 自分のデスクのある部屋に戻る。デスクの上の灰皿はこれ以上煙草を突き刺せるところがないほど膨れ上がって おり、灰がぼろぼろ零れ落ちていた。どうも私は公共の場所に関しては潔癖症気味だが自分のプライベート スペースに関しては無頓着らしい。  灰皿をつかんでゴミ箱の上でひっくり返す。デスクの上に戻して私は窓際に歩み寄りながら大きく伸びをした。 今日はいい天気だ。洗濯物はぱりっと乾くし、夜になればきっと気が触れそうなくらい美しい月が顔を 出すだろう。そして私たちの時間が始まる。  そんなことを思ってしまうのは、私がある程度分別のつく歳になったからだろうか。  胸にほんの少し疼きを感じて、私はいとおしい宝物を撫でるように胸元を指でなぞる。そして煙草を取り 出して火をつけた。  先輩。私は、あと少しで合法的に煙草が吸えるような歳になりました。お笑い種かもしれませんが、一丁前に 私も先輩だなんて呼ばれています。あなたは私を探してくれていますか? 「……いえ、違いますね」  先輩。私を探して下さい。もし見つけられたなら、私は真っ当な手段であなたを誘惑してみせますよ。 正々堂々と、あなたを手に入れて見せます。壁だろうが何だろうがぶち抜いて、この手で、真正面からです。  だって、この世界には吸血鬼すら束縛し続ける強い力があるんですから。 ED:K「blood circulation」