K76 蒲生啓介  ○○県□□市に産まれる。  ○○県立小学校卒業。□□市立△△中学校中退。  父母と本人の三人暮らしの家庭で育つ。幼児期は引っ込み思案な子供で、虫や爬虫類などは平気だったが 幽霊や怖い話を聞くと泣き出すような子だったそうである。  友人はそれほど多くはないが少ないという程でもない。知り合いと呼べる人間はそれなりにいたようだが、 本人によると、友人ときっぱり言えるのは保育園からの付き合いである松井綾香・雪村千里の二名のみ。  小学校での得意科目は理科と体育。逆に算数は致命的なほどにできなかったという。体育ではクラスの女子 児童の中で一番とまではいかないものの、目立つ活躍を見せた。中学校にあがると体育の授業では消極的に なったものの、相変わらず理科の成績は良く、数学もまた致命的なままだった。担任の数学教師の口癖は 「どこがわからないのかわからない」だったという。それ以外の成績は中の上といったところで、県内の第 一女子高等学校への進学を希望。中学三年のときの担任いわく「数学が出来損ないレベルになれば余裕で受 かる」程度だったらしい。  中学三年の冬に父が急死。死因は脳溢血と見られる。同時に母が失踪、本人も行方不明となる。警察によ る捜索は2年程続いたが、目撃証言が極めて少なく、母子とも発見には至っていないため、以降の消息は不明。  家庭の経済状況については、決して貧しくはないが不明な点が多い。父は繊維製品を取り扱う商社の正社 員であり、一定の収入は確保されていたようだが、自家用車を複数台所有する等、住居の家賃に比して生活 振りがそぐわない点が多々見られた。この点から、警察の一部では父の死を何らかの金銭トラブルと関連付 けて捜査する意見も出たが、手がかりとなる背景も証言も一切見つかっていない。  男の子が履くような黒のカーゴパンツに、同じく黒のインナー。  そして赤茶色のところどころ擦り切れた男物のレザージャケット。  商売道具専用のクローゼットのさらに奥に仕舞いこんでいたこれらの衣服を引っ張り出す。  着てみるとある意味残念なことにぴったりで、あの頃から身体サイズにほとんど変化がないことがわかる。  でもまあ、そういうものなのかもしれない。それは私があの頃から何も変わっていない証左でもあった。 あの頃から、一切進歩していないという意味でだ。  結局のところ、過去を忘却の彼方に追いやるには人の人生は短すぎるということなのだろう。そして私は その人生の四分の一も消化していないのだ。 「……どうしたのその格好」  待ち合わせきっかり10分前に到着した私を見て開口一番にそう言ったのはキリュウさんだった。 「……スーツだと動きづらいので」 「まあそりゃあそうだろうけど」キリュウさんは苦笑いともとれる微笑を浮かべる。「なんていうか、コメ ントに困るよ」 「して頂かなくて結構ですよ。愉快な応答が来るとも思えないので」  実際、今の私の格好に対して気の利いた感想を言えるものなら聞いてみたいものだ。時代遅れのカーゴパ ンツという代物に、明らかにサイズの合っていない男物の赤茶色のジャケット。加えてこの低身長がとどめ を刺す。 「動きやすい格好というと、これぐらいしか思いつかなかったもので」  真っ当でいてそれなりに動きやすい服もあるにはあるが、お気に入りの可愛い服を汚したくないのは誰で も一緒だろう。 「帰りに渓流釣りにでも寄る気?」  彼女は地面に降ろしたクーラーボックスを眺めて言う。なるほど釣りに行くにはちょうど良い格好かもし れない。 「平和に終わればそれもいいですね。釣りなんてやったことないけど」 「準備はいいのか?」  横合いから口を挟んできたのは神崎弟、二葉だった。数時間前と全く同じ、真っ黒な詰襟のままだ。 「これから出発となると……日が暮れる前には着けるだろう。始祖には俺たちの協力者として紹介するが、 ヘンな気は起こしてくれるなよ。最悪この手でお前たちを処分する羽目になる」  先ほどから口を酸っぱくして言う。外部の人間を始祖様に紹介するというのはよほどの例外事項なのだろう。 「何度も言いますが私は一般人ですって。何もできやしませんよ」  適当にあしらっていると、背後からハリセンで頭を強打される。  後ろを振り向くと、ヨミがノートパソコンを指差して何事か訴えている。 『吸血鬼のメール及び電話通信を傍受しました。どうやら吸血鬼のうち反旗を翻した部隊が始祖の元に集結 しつつあるようです。加えて、このタイミングでトトが』  トト? 主催者、ここ最近めっきり影の薄くなっていた主催者が?  ヨミがこちこちとマウスを操作する。現れた一文は不可解としか言いようがないものだった。 『携帯は始祖の場所』 「……どういうこと?」  ヨミは頭を振る。内容についてではない。この、絶妙極まるタイミングで、参加者を扇動するようにこん な具体的極まる内容を垂れ流す。これまで携帯の場所をあやふやにして混乱を増長させていたのが、途端に これだ。 「ほんとに、このトトって人は他人に迷惑をかけるのが趣味なのかね」 「トトが動いたか」  そう言い捨てる二葉には、動じている様子が見られなかった。 「で、どういうこと?」  問いかけると、彼は一度姉の方に視線を流してから喋り出す。 「……お前たちはトトについて何も知らないんだったな。トトは、言うなれば俺たち吸血鬼の協力者だった。 詳しくは知らないが、ある種のホムンクルスに関する研究を行っていたらしい」 「ほむんくろす?」  ……技の名前か? 「このゲームが開催されるほんの少し前、トトが出奔した。奴は自分が残した研究データのほぼ全てを破棄 し、どこかに行方をくらました。それ自体は単なる裏切り行為だが、困るのは残された研究素体だ。メンテ ナンスもおぼつかない状態で、ほとんどが遺棄されたと聞く。俺たちは完成体や、まだ回復の見込みのある 素体を確保するという指示も受けていたが、残念ながらそちらはほとんど足がつかなかった」  わからいでもないわね、と一葉さんが呟く。 「そりゃあ、自分が何者であれ、せっかくこの世に生を受けたんだもの。どこの馬の骨とも知らぬ暗殺者集 団に匿われたいなんて思う人はいないでしょうよ。ま、ともかく」  彼女はカラになったビール缶を指ではじいた。冷たく短い金属音が響く。 「何が目的かは知らないけど、トトは始祖とは反目する立場にいるわけ。いずれ障害になりかねないと思っ て、携帯を追うついでにトトの足取りも追ってはいたんだけど、全然ダメ。楽観的に見ても彼は私たちの味 方ではなさそうよ」  ふむ。  始祖とトト。互いに相容れない存在であるだろうことは容易に想像はつくが、居場所も目的もわからない 影の主役に考えをめぐらすのは今はよそう。時間もない。  ヨミを家に戻すべきか少し考えたのだが、吸血鬼どもが慌しく動いている今、目の届かないところにやる のも不安だった。キリュウさんを残してヨミのボディーガードをやってもらおうかとも思ったが、よくよく 考えればキリュウさんはそこまでする義理もない。それに、私たちは争いに行くのではなくあくまで話し合 いに行くのだ。こちらには暗殺者様がお二人もいらっしゃることだし、いざとなればとんずらこけばどうと でもなる。結局、神崎姉弟、キリュウさん、私とその下僕である白髪、ヨミの六名で始祖のお屋敷にお邪魔 することになった。狭いのでヨミは私のヒザの上である。  そしていま私はその判断を痛烈に後悔している。  白髪は私の指示より早く車を道路のど真ん中で切り戻し、元来た道を少し戻った後、神妙な面持ちで運転 席を離れる。それに二葉が続いた。  私が見えたぐらいだ。暗殺者様である他の四人はかなり明確に行き先の状況を把握しているのだろう。  彼ら二人はわき道の自然林に紛れ込み、しばらくして二葉だけが戻ってきた。 「状況は?」一葉さんが冷たく言い放つ。 「始祖の住居らしき洋館を吸血鬼の集団が取り囲んでいる。数は、見えた範囲だけで百以上。白髪君が引き 続き様子を探ってくれている」 「交戦中?」 「ああ」二葉は先を続ける。「だが始祖に護衛の部隊がついているなんて話は聞いたことがない。となると おそらく穏健派がどこかから情報を得て集結したんだろう。『過激派が始祖に反旗を翻す』という内容のな」 「参ったね……」キリュウさんは腕組みをしてシートに体を沈める。「つまり誰かの情報操作が入ってるわ けだ。気に入らないな」  ……変だな? 「誰がそんな情報を流せるんだろう?」  私はぼそりと呟き、ぐだぐだと思うところを垂れ流した。 「一般参加者には『携帯は始祖の場所』という一文しか明示されていない。私たちがここに来てるのだって、 始祖の住所をヨミが見つけ出してくれたからだし……そりゃ過激派が来ること自体はわかるよ? でも穏健 派の方々がそれを察知できるわけがない。仮にイヤな予感がして様子を見に行くにしても、まずは一葉さん たちに相談なりなんなりするもんなんじゃないの? 始祖って引きこもりなんだし」  ぱたぱたぱた。  先ほどから安定の悪いところに座っていたせいで少しお尻が痛い。身の丈が小さいからといって一番座り 心地の悪い場所をあてがわれるという不当な扱いを受けていた私はもはやこの過保護女に協力する気がなか ったのだが、ここで有益な情報を渡してさっさと始祖のお屋敷とやらに向かってくれればこの後部座席を思 う存分使用できるのだ。実際景色を愛でる趣味はないし、まだ頭の体操にハッキングでもしていた方が良い 時間つぶしになる。  吸血鬼陣営の謀反の情報か……。  聞いた瞬間にアテはあった。以前私が吸血鬼のサーバをクラックした際にこっそり同列の権限でログイン しデータのいくつかを見ていった輩がいた。もちろんこちらとしてはシャットダウンなぞされては面倒だっ たからそいつの動きには注意を払っていたのだが、どうやら同じ穴のムジナというか、要するに目的は一緒 のようだったので放置していた。  そいつは足跡を消すときに奇妙なスクリプトで上書きするという、あまり教科書的ではないやり方を取っ ていたので少し興味を持っていたのだ。確かにばっさり消すよりはダミーのログを残した方が目立たない。 足跡についてはサーバ自体をおじゃんにしたのでどのみち結果は一緒だったのだが、その他の点についても 正直ちょっと参考になったぐらいだ。  そしてあいつなら新しい侵入口を作るぐらい容易いことだろう。 「過激派が始祖を襲撃する」という情報を流したのが奴だとして、そいつがトトとかいう奴である可能性も なくはないが、携帯は始祖の場所、とか言っておいて更に情報を流すか? だったら最初からそう言えよと 問いたい。小一時間問い詰めたい。  革命の第一歩は精密な情報統制である。やはりこういう情報工作を仕掛けるのは、基本的に数の上で不利 な立場にいる輩のはずだ。となると、私たちの知らない第三者がまだゲームに参加しようとしている、と考 えるのが一番自然だろう。だからそこの黒いのは「気に入らない」のだ。 「……。」  しかしイチから全部説明するのは面倒だった。  ぱたぱたぱた。  聖剣エクスカリバーで頭をぶっ叩いて血売り女の注意をこちらに向ける。血売り女は頭をさすりながら ディスプレイを見て眉間にしわを寄せた。 『前に吸血鬼サーバをクラックした際に便乗してきた誰かがいました。そういった情報を流せるとしたら、 そいつかもしれません』 「……つまり、まだゲームに参加してるのがいるってことか」 「諦めが悪いというかなんというか」あまり諦めた様子のないキリュウさんが呟く。「かく乱が目的なら、 ここになるべく多数の勢力が集まって派手にドンパチやる方が都合がいいはず。となると、この情報は相当 手広く流布してるね。それこそツイッターで誰かつぶやいてるかも」  なんだよそのついったーって。 「参ったわね……ほんと」  それまで沈黙を保っていた一葉さんがぼそりと言い、後部座席のドアを開けて外に出た。長い髪が風にあ おられてふわりと舞い上がる。 「つまり、全員集合ってことじゃない。何人切り殺す羽目になるのかしら……ねっ!!」  キン! と小さく鋭い金属音が響く。  音のした方を見やると、一葉さんが林の方を向いて腕を振るったところだった。いつの間にか手にはヤの つく自営業の方が持ちそうな緋牡丹のあしらわれた短刃が握られている。  次の瞬間、木の陰から黒ずくめの吸血鬼が獲物を振りかざして襲いかかった。  キン!  再び短い金属音。思い切り振り抜いたであろう日本刀は、一葉さんが加えたわずかな横ベクトルによって むなしく空を切り、アスファルトを削った。 「……獲物に振り回されてるようじゃ、私の髪の毛一本切れないわよ?」  そう呟くと同時に、まるでダンスでも踊っているかのようにすうっと両手を動かす。彼女が再び背筋を伸 ばしたとき、手に握った短刃は二本に増えていた。一瞬の後、黒ずくめの吸血鬼は断末魔をあげることもな く膝を折った。 「もう一人いるんじゃないの? 諦めて出てきたら?」  一葉さんが心持ち声を張り上げて言い放つと、似たような背格好の吸血鬼が姿を現した。  しかし両手に持った短刃を構える一葉さんの目の前で、黒ずくめは前のめりになって道路に倒れこんだ。 「……無事か? 遅くなった」  そのさらに後ろから顔を出したのは白髪だった。肩で息をしている。 「白髪クン? ……なによ、けっこうやるじゃない」 「軽口叩いてるヒマはねえ」白髪は運転席に勢い良く乗り込み、乱暴にドアを閉めた。「早く乗れ。多分 何人かこっちに向かってる」 「捕捉された?」  一葉さんも乗り込むが後部座席は既に満席なので勢い良くキリュウさんの膝の上に座った。キリュウさん があからさまに嫌そうな顔をする。 「こちらに気付いた様子はなかった。あの距離で捕捉されるとは考えづらいが、目が良い奴がいるんだろう。 こちらに奇襲がかかったのが何よりの証拠だ」  憮然とした表情で二葉が言った。 「で!」白髪は車内に響き渡る大声で言う。「どっちに行くんだ!?」  引き返すか、突入するか。  気付くと車内の全員がこちらを見ていた。 「お前たちに合わせる。戻るなら戦闘用の装備を持って来られるが、時間も惜しい。一長一短があるなら お前たちの協力が得られる方が断然良い」  まただ。またそうやって私に責任を押し付ける……。 「どうする?」  一葉さんが長い髪の隙間からこちらを覗いてくる。  日紫喜依子。  その名が脳裏に浮かんだ途端、どす黒い何かが肺の裏を覆った。 「このまま突入したとして、勝算は?」 「数の上では話にならないが、背後からの奇襲に合わせて館内部の味方が出てくればじゅうぶんある。乱戦 になればこちらのものだ」 「時間も惜しいわね」  私は胸ポケットに手を伸ばし、そこに収まっている冷たい刃物に指を這わせた。 「突っ込むわよ。白髪、飛ばせ!」 「撃ちまくれ! 弾幕を張って奴らに頭を上げさせるな!」  怒号と銃声の飛び交う中、館を攻める過激派吸血鬼が声を張り上げている。館はマシンガンの雨を下から 受け、まるで地震のあった後のように半壊していた。 「隊長、ネズミ狩りに行った奴らが戻ってきません」 「あ!?」  単に聞こえなかったのだろう、隊長と呼ばれた背の低いトレンチコート姿は首を横にして耳に手を添える。 「ネズミ捕りに行った部隊が! 未帰還です!」 「んなもんほっとけ! 偵察が二人、後は女子供なんだろ? 逃げただけだろうが」 「しかし……」 「引き返して救援を連れてくる間にここを落とせばいいだけだ! んな心配してるヒマあったら仕事しろ! 突入してこい! ったくミサイルとかねーのかミサイルとか」 「んなもんどうやって手に入れるんですか」  報告していた背の高い痩せぎすの男が呆れたように顔を背ける。 「……マシンガンだってどうやって調達したんだかああああああああああ!?」  彼が素っ頓狂な悲鳴をあげたのも無理はなかった。なにせ、彼のいる場所に向かって一直線に軽自動車が フルスピードで突っ込んで来ていたからだ。  指令と思しき吸血鬼とその使いは身を投げ出すようにその場を離れる。しかし周りで館に向かって銃器を 乱射していた部隊に回避する余裕はなかった。整然とした包囲網はいとも簡単に細切れに分断された。 「ななななんなんだありゃあ!」  使いの吸血鬼が喚く。暴走する軽自動車は砂煙をあげてUターンし、再び彼らを目標に定めて猛進を始めた。 「ぱぱぱパワー型! 誰かいないか! 止めろ!」  いたとしてもさすがに100km/hをオーバーしているであろう車両を止められるかは怪しいものだが、突然 の闖入者に指令は混乱をきたし……有体に言えば、びびっていた。  鉄の身体を翻して突き進む暴走車両は目標の体をその鼻先に捕らえることかなわず、再び身を投げ出した 指令吸血鬼のすぐ横を突っ走り……そのまま館を取り囲む大樹の一本に激突し、炎上した。  なんだ、特攻ってやつか……?  内心で自分が助かったことを安堵しつつ頭を上げた彼の表情は、再び凍りつくことになる。 「ってえ……あんたがボスだな。悪いがおねんねの時間だっ……」  どこからか現れた、自分の部隊の人間ではない白髪の吸血鬼が振り下ろした拳は、指令の眉間をこれ以上 なく正確に打ち抜いた。 「……おーおー、やるじゃん白髪クン」  レンタカーで包囲網を散々かき乱してから、リーダーらしき人間をノックアウト、離脱。先ほど炎上する 前の車内で白髪に命じた内容はちょっと酷じゃないかと思ったのだが、こうきちんとやられるとそれはそれ で憎らしい。 「スタントマンみたい。走ってる車から転げ落ちるなんて」 「丈夫なのが取り得、にしても思い切りがいいね。さすが男の子」キリュウさんの軽口に、一葉さんが相槌をうつ。 「オーケー次は私か。じゃね、上手いことやんなよ!」  キリュウさんはこれまた黒いレザーの手袋をはめ、腰の後ろからぎんぎらに輝く、ナタと呼んでもいいよ うな厚手のナイフを抜いた。そんなもんどこに仕舞ってあったんだ。  暗殺、かく乱が得意だという彼女は音もなく林の中に消えた。 「さすがは『霧生陰』。視界の悪いところでやりあったらちょっと危ないだろうな」  始祖の洋館を取り囲む林の中、館を囲む部隊の人がマッチ棒ぐらいに見えるような距離で一葉さんは言った。  キリュウさんは、素人の私から見るとなんかぐにゃっとした動きでふらつきながら突入していったのだが、 突入した後はどこにいるのかなかなか見つけられない。混乱して右往左往している吸血鬼の傍らに軟体動物 のようなぐにゃりとした動きで肉薄し、すれ違いざまに腕や足を切りつける。次の瞬間には注視しているこ ちらからでも見失ってしまう。 「彼女は自分のことあんまり高く評価してないみたいだけど、あれはかなりの脅威よ。人の認識の枠の一歩 外を直感的に把握して、誰にも見つからないまま踊るように銀のナイフを振るう。霧が生む陰のように見定 められない、二つ名の通りね。アンチ吸血鬼としては最高の能力なのかもね」  何言ってるのかわかんなかったがとりあえず頷いておいた。  さて次の手だ。まず目的。私たちの目的は始祖に会うこと。神崎姉弟の目的は始祖の安全の確保。  そのためには始祖の館を包囲している過激派の部隊をどうにかする必要はあったが、別に全滅させなくて はならないというわけでもない。既に内部に侵入している可能性を考えれば、とにかく急いで始祖に接触し たいという神崎姉弟の意見もわからなくはなかった。 「というわけで、これから私たちは女三人のみであの銃弾の雨をかいくぐり洋館の内部に侵入します。何か 質問は?」 『断固反対。平和的解決を求む』 「だーいじょうぶだって。女三人とはいえ最強の護衛がいるわけだし」  護衛というのはもちろん一葉さんのことだ。話を聞いた限りでは近接戦闘で神崎一葉に敵う者はいないら しい。そして彼女の最大最悪の弱点である喘息は空気の良い山の上ではなりをひそめている。 「最強かどうかは置いておくとして……まだ外から攻めてるんだから内部への侵入はまだ許していないと思 うわけよ。紛れ込んでいても二、三人ってとこだろうし、それならあなたたちの面倒ぐらいなら見られるわ」 『完全ムキムキ肉体派のお前らと頭脳労働担当の私を一緒にスンナ』  平和を愛するヨミは非戦の訴えを続けたが、一葉さんが木の陰から館周辺の状況を伺いながら言った。 「とは言っても、あなた一人をここに置いていくのも相当危険よ? 乱戦になったら脱落する吸血鬼もだい ぶ出てくるだろうし、そんなのに見つかったら何されるかわかったもんじゃないし……まさか歩いて帰るわ けにもいかないでしょ」 「はい決定。判断を私に委ねたお前らが悪いんじゃあああ」  半ばヤケになっているのが自分でもわかったが実際ここでぐうたらしていても事態は好転しない。いざと なればヨミだけ連れて脱出すればいいのだ。少々後味は悪いかもしれないが、正直言って手段を選んでいる 余裕はないし、何より私の勘が告げていた。  私たちは少なくとも始祖に会うことはできる。けれどその先は知らない。 「そろそろね……ぐずぐずしてると混乱が収まる。組織的に抵抗されたら引き返すしかなくなる。行くよ」  セーラー服を着た黒髪の女子高生は監視をやめ、白木作りの鞘に収まった獲物を左手にしっかりと持ち、 こちらを促す。 『労働基本法違反ダすとらいきヲオコス』 「労基法は雇用された人間しか助けてくれないのよ諦めなさい。よしんば拡大解釈が認められたとしても」  そこまで言って、洋館までの突撃ルートを見定める。ルート周辺にいた吸血鬼たちが不意に狙撃され、そ のほとんどが地に伏せた。別ルートで洋館に接近していた二葉が狙撃を開始したのだろう。そしてこれは 「突入しろ」という合図でもあった。 「……四人外したか。でもま、ドラグノフ持ってきてなかったし、こんなものかな。先に行くよ。三つ数え たらついてきなさい」  オーケー、そう返すと一葉さんは長い髪をふわりと浮かせて低い姿勢で突撃していった。 「……もう私たちは法律や常識の外に踏み出しちゃってるのよ」  つい先日まで私を取り囲んでいたものたち。規範、法律、道徳、良識、論理、人道……社会。その全てが 既に意味をなしていなかった。戻りたかったはずのそれらから逸脱したこの血生臭い喧騒の中で、私はどう してか、まるで久々に故郷に帰ってきたかのような安堵感と懐かしさを感じていた。  少し遅れ気味に一葉さんの後を追うと、突撃ルート周辺にいた吸血鬼たちはことごとく血を流していた。 ほとんどは腕と脚を負傷していたが、中にはぴくりとも動かないものもある。急所を外すように狙撃したと はいえ、さすがに専用装備なしでのスナイピングには無理があったのだろう、完全に狙い通りとはいかなか ったようだ。残った者は近接戦闘における最強の吸血鬼・神崎一葉に戦闘能力の大半を奪われ、その場にう ずくまるしかなくなっていた。  途中まだ余力があったのかどこからか救援に来たのか、名も知らぬ吸血鬼に襲われそうになったが、私と ヨミまで数m先のところで二葉の援護射撃によって他の不幸な吸血鬼と同じ末路を辿った。石に蹴躓いたよ うに前のめりになってその場に倒れこみ、一切の動きを止めたその吸血鬼を目の当たりにして私は一片の動 揺もなくヨミの手を引いて走り続ける。  感覚が麻痺している? 先ほどから一切混乱もせず、ただ「今これからやること」に忠実に頭と身体を動 かせているこの現状は普段とちょっと違うとは認識していたが、それがどうしてなのかまでは心当たりもない。  そのまま走り続け、洋館の裏手を突っ切ると、そう遠くないところで一葉さんが白鞘を抱くようにして壁 に背を預けていた。私たちに気付くと壁から離れ、周囲に視線をめぐらす。 「大丈夫だった?」辺りを警戒しながら、彼女は大して疲れもなさそうな声で言った。  大丈夫ではなかった。しばらく声が出なかった。一葉さんはどこまで走っても見つからないし、かといっ て止まるわけにもいかないし、しかもヨミは走るのものっすごく遅いし、ジャケットは暑いし、クーラーボッ クスはくそ重いし、もう、ちょっと、吐きそう……。  地面に降ろしたクーラーボックスに腰掛けてぜえはあぜえはあを二十回ぐらい繰り返したところでようや く膝の笑いがいくらか治まった。 「……まあ、なん、とか。もう、走れません、が」 「安心なさい。ここから先は歩きだから」  そう言って、彼女は背後の勝手口らしき木製の扉を見る。取っ手のところがそこだけ器用にくり抜かれて いる。吸血鬼様にとっては一般の鍵など用をなさないらしい。 「先に侵入したやつがやっぱりいたみたいね。まだ戦闘が収まっていないところを見ると内部で何か行動を 起こしたわけではなさそうだけど、安心してもいられない。息は歩きながら整えてちょうだい」  愛情のない台詞を残して彼女は取っ手が壊れて半開きになっている扉の隙間にするりと入り込む。……追 いかけるしかない。  洋館の内部は中世風というかアンティーク調というか、廊下には絨毯が敷いてあってところどころとんが っていたりぎんぎらぎんだったりで、那須高原あたりの観光地にこんなのがあると言われても納得できてし まうような内装だった。蛍光灯などという無粋なものは使わない主義なのか、廊下に照明はまったくない上 に日もだいぶ沈んできていたので、油断すると先を行く一葉さんを見失いそうになる。彼女が白いセーラー 服を着ていて良かった。ブレザーだったらその黒くて長い髪と相まって迷彩効果抜群だっただろう。  ……逆に言えば、彼女は不意打ちや身を隠すといった選択肢を最初から放棄しているということだ。要す るにそんなことしなくても大丈夫という絶対的な自信があるのだろう。 「荒らされた形跡があまりない」  日の当たらない暗い廊下を一定の速度で歩きながら、彼女はぼそりと言った。 「……どう、いう、ことですか?」こっちはまだ息がいまいちである。いつもと逆だ。 「予想通り、侵入したのはごく少数。大人数でなだれ込めば少なくとも絨毯がこんなピンと張ってないでしょう。 隠密行動に特化したような輩か……? 一応気をつけてはいるけど、背中とか物影には注意を払ってね」  どうやって注意しろってんだ。と内心で思う反面、彼女の言葉はいまいち的を外しているという直感があった。 疑問の声を含みながら言ったところを見ると、彼女も確信を持っているわけではないのだろう。いずれにせ よ、先に侵入した吸血鬼がいるというのはほぼ間違いないのだ。  いや……?  吸血鬼とは限らない。現にここに、絨毯の上をゆっくりと歩いている吸血鬼でない一般市民が二人いるのだ。 そしてここに来る前に話にのぼった、まだゲームに関わろうとしている参加者の影。外の惨状を見れば消し てしまっても構わない可能性だが、ゼロではない。  やれやれ。吸血鬼同士の内部抗争ってだけでも十分頭が痛いのに、この上不確定要素が消し切れないとは。  考えても仕方ない。先に進めば疑問の大半は解決するんだ。そう思い、頭を上げる。先を進む一葉さんの 足が、止まった。  廊下の先は広いエントランスホールになっていた。その数歩手前で吸血鬼・神崎一葉は立ち止まり、白鞘を 持つ手に力を込めた。  明かりの灯っていないシャンデリア、大仰な曲線を描く階段、暗くて額縁しか見えない肖像画。  そんなものの下に、何者かが無防備に突っ立っていた。