K66 蒲生啓介  作戦はこうだ。  田代さんが生徒指導室で土井という女子生徒から事情を聞く。彼女が本当に『吸血鬼』側の人間なら強硬 手段に出る可能性はきわめて高い。しかし学校の中で事に及ぶとも考えづらい。となると田代さんが協力的 でなければ闇討ちその他が考えられるが、田代さん本人が奇襲されると田代さんが変身できない。よって誰 かを囮にする必要がある。  その変身というプロセスに何の必然性があるのか本気で問い詰めたかったが昼休みの限られた時間では明 らかに足りそうになかった。  よって、生徒指導室では田代さんは半ば協力的に振る舞い、携帯を預けてある妹、つまり私と土井さんを 引き合わせる。そしてその後適当なことを言って「今は渡せない」ように仕向ける。その後私が襲われると ころを変身した田代さんが仕留め、背後関係を聞く。  だからなんで変身せにゃならんのかと今更ながら思うのだが、ああもう、男ってやつはなんでこう意味の ないこだわりを持つのか。だいたい変身してる間に私がスタンガンでももらったらどうする気なのか。そも そも私だって体調は万全というわけではないのだ。先刻から血たちが睡眠と休養を要求してストライキに突 入する寸前だというのに……。  というわけで生徒指導室に呼び出された。  生徒指導室……私が通っていた中学校にもこういった用途の教室は存在したが、私は幸いにもご厄介にな ることはなかった。とはいえ全く関係のない身分になったとしても気分の良いものではない。ドアを開ける とそこにはくたびれた灰色のスーツの田代先生と、ベリーショートのいかにも陸上部に所属していそうな女 子生徒が、机をはさんで座っていた。 「ああ、ユズ。こちらウチの生徒の土井」  妹に応対するような親しげな声色で呼ばれたときに顔が引きつらなかったか本気で心配したがとりあえず はどうにかなったらしい。土井という女子生徒はぺこりと頭を下げる。初めて会う人に対するそれらしい態 度だ。 「ええと、どうも、ウチのアニから話は聞いてイマスガ」  ぬぐああ、横隔膜の拒絶反応が押さえきれん! アニという音はもっとこう信頼と安心感とともに発せら れるべき台詞なのに! 「はい。あなたが持ってる携帯電話、返してもらいたいんですよ」  おいおい直球かよ。  私は田代さんに目配せをする。彼女はそこに至る理屈をちゃんとでっち上げたのか? 一応、田代さんは ヨミが持ってきた携帯にかかってきた電話に出て、持ち主と思しき人物に返還する約束をしたわけだし、 はいそうですかと引き渡していいものでもないだろう。 「ええとな、ほら、この間かかってきた電話の主が土井の知り合いなんだって。で、土井がウチの生徒だっ てわかったんで、ついでだから土井が受け取りにきたそうだ」  ……一応理屈は通っている。 「ええっと、疑ってるわけじゃないんですけど」私は困ったような笑顔を演出する。「それを証明できます? 一応、赤の他人のものを引き渡すとなると問題ですし」 「電話番号を知ってます。ここでかけてみましょうか?」  土井さんは自前のゴテゴテした携帯を取り出した。 「ああ、ごめんなさい。外に出てるときに呼び出されたもので、持ってきてないんですよ」  彼女は一瞬固まり、すぐに携帯をぴこぴこ操作し、画面をこちらと田代さんに向けた。確かにヨミの持っ てきた携帯の番号と一致している。その上に記された女性の名前は思い当たる節のないものだった。 「うん、確かに合ってる。じゃあ明日にでも持ってくるよ」  お、ここだここだ。私の出番だ。 「ちょっとニイサン、それだけで信用しちゃダメでしょ。どうせ本人が受け取りにくるんだから本人に渡す のが筋でしょ」 「おいおいユズ、拾った携帯の番号を知ってるんだから信じてもいいだろう」 「女の人の携帯を、そんな簡単に引き渡していいわけないでしょこのダメ中年。そんなんだからモテないん だよ。気遣いを知れ気遣いを。というわけなんで、すみませんが渡せないです。どのみち本人に渡す予定な んで、ちょっと面倒かもしれませんが一応、個人情報ってやつですから」  土井さんが生徒指導室を辞してから、ダメだしを喰らって本気で落ち込んでいる田代先生をそのまま放置 して、私は廊下の様子をうかがった。土井さんに立ち聞きされると面倒だ。 「まさか盗聴器なんか仕掛けてないでしょう……そもそも田代さんに協力者がいたとは向こうも思ってなか っただろうから、仕掛ける意味がない」  田代さんはがっくりうなだれて何事かブツブツつぶやいている。 「いつまでも落ち込んでないでくださいよ。これからどうするんです」  事態は彼、田代さんが望むものとなった。さあ、後はあんたの仕事だ。 「いや、だってさ、そりゃあ僕は女の人と付き合ったことなんかないけどさ、気遣いがないとかひどすぎる だろ、トラウマだろ」 「いやそりゃあ全部事実ですし田代さんがこの先一切女性と接点がなくて一生結婚できなくてもそれはこの 際置いておきましょう。これからどうするかが喫緊の課題です」  田代さんはそこに置いてあったロープでわっかを作り出した。 「いいんだ、しんでやるんだもん、ぼくなんか生きててもしょうがないし〜」  ああ、これが「めんどうくさい」という言葉の使い方なんだな。この仕事やめようかな……。  私の精神力のほぼ全てを犠牲にして田代さんのやる気を取り戻させると、彼はようやくこれからの事を話 し出した。 「……まず、土井とこの携帯に電話をかけてきた人物とは接点がない。これははっきりしてる」 「根拠は?」 「放っておけば戻ってくる携帯をわざわざ人をやって受け取る意味がない。本来はヨミちゃんが持ってきた 携帯で、危ない代物だ。でも向こうとしてはそこらへんの事情を現在の所有者である僕らが知っているかど うかはわからないはずなんだ。善意の第三者が拾った可能性を捨てる根拠もない」  時間的制約……はこの際無視していいだろう。携帯を引き渡す日時と場所は向こうが指定してくるはずで 、こっちとしては連絡待ちなのだから。 「ここからは推測だけど、おそらく土井をダシにして受け取ろうとしている人物と、実際に携帯に電話をか けてきた人物とは対立しているんだろう。敵対勢力なのか同じ陣営内での対立抗争なのかはわからないけど ……」 「そういえばさっき思い出したんですけど、結局電話かかってきませんね」 「電話? ……ああ」  そう、ヨミの携帯にかかってきた電話は非通知で、ヨミの携帯の持ち主と思しき人物からはあれから一切 コンタクトがないのだ。  田代さんはなにやらうつむいて脚を組み、額に手をやって考え込んでいた。 「……『選ばれなかった位相(アナザー・ディメンション)』」  ……は?  何か発動したらしい。彼はうつむき加減のまま、机の端に乱雑においてあるプリントを引っ張り、そこに 何かしら書き込み、急に立ち上がった。そして迷いなく生徒指導室を出る。私はまためんどうくささを感じ ながらも放っておくわけにもいかず、慌てて後を追った。  彼はそのまま学校を出て、手近な電話ボックスに入り、あろうことか私の腕をとってそこに引っ張り込ん だ。反射的に懐のスタンガンに手をそえたが、彼は意に介さず公衆電話に10円を入れ、プリントに書き込ま れた番号を打ち込んだ。  それから数秒後、急に私に受話器を押し付ける。 「……もしもし?」受話器の向こうから女性の声がした。  受話器を押し付けてきた本人が小さな声で、ごまかして、と言った。 「あ、すみません、間違えましたー」  田代さんは今度は私から受話器をもぎとり、がちゃんと切った。そして慌しく電話ボックスから出る。道 路を横切り、ずかずかと歩いていく冴えない中年男性の背中を、私は悪態をつきながらも追うしかなかった。 「あなざー、でぃめんしょん?」 「……そう。『選ばれなかった位相(アナザー・ディメンション)』」  電話ボックスから相当離れた喫茶店の一角で、田代さんはついにイってしまわれた。 「僕は『選ばれなかったもうひとつの選択肢』を見ることができるんだ。もっとも、思うままにならない我 侭な能力だがね……」  私は注文したコーヒーの粉っぽさと不味さに全神経を集中して彼の「あなざー、でぃめんしょん」の説明 話を聞き流した。 「……で、非通知でかかってきた電話は、その能力が見た選択肢ではさっきかけた電話番号だったと」 「そう。声も同じだった。あれはゴンザレスの番号なんだが、ゴンザレスは男だし……」  誰だよゴンザレスって。しまいにゃスタンガンくらわすぞ。 「……ゴンザレスはヤのつく自営業の方、ある程度良心的な五所瓦組っていう自営業の方でね」 「五所瓦組?」  確か……私はバッグを漁り、この間先輩と一緒に赤線を引きまくった顧客リストを取り出す。  ……あった。五所瓦組。『吸血鬼』が私たち血液販売業者の客であるかもしれない、という可能性を消す ために引きまくった赤線は、五所瓦組という文字の上には引かれていない。  むう、あなざー、でぃめんしょんのくせにいい線いってるぞ。  この五所瓦組という暴力団……自営業の方々は先輩が担当している客で、このゲームに一枚かんでいるら しい、と先輩が言っていた。ただ、どちらかといえば挑戦者として。そして先輩は、というか私たちはかな り客を絞るので、五所瓦組は田代さんの言う通り、ある程度は良心的だと判断して良さそうだ。 「五所瓦組は、このゲームに参加しているはずですが」 「そうなの?」 「石神の情報です。まず間違いはないかと。どういう組織なんですか?」 「どういうって……商売柄、あまりお近づきになりたくないし、よく知らないよ」  私はテーブルを指でとんとんと叩いて……携帯を取り出して先輩に電話をかける。数回コールが鳴り、 結局また留守電になる。 「……ダメですね、出ません。土井さんが吸血鬼の手先だっていうんなら、五所瓦組は吸血鬼とは関係がな い、もしくは敵対勢力であると判断できますが……代わりにヨミが言う『悪いひと』が五所瓦組である可能 性が濃くなりますね」 「それは早計というものだよ、ユズくん」  あなざー、でぃめんしょん的ポーズをとって言う田代さんに私はスタンガンを叩きつけたくなったが、頻 繁にツッコんでいても話が進まないので我慢する。 「組織というものを一色で把握するのは危険だよ。組織というのは何人もの自由意思を持つ個人で形成され ていて、彼らは組織としては黒や白の一色として振る舞うけれど、構成員一人一人は黒だったり白だったり グレーだったりするものさ」  なんだこいつなんだこいつ、正義の味方の分際で! しかし言うことはもっともだ。まだ断言するには早 すぎる。 「まあ、ともかく……五所瓦組については置いておくとして、これからだ。いいね?」 「……いま貧血気味なんで、なるべく早く助けに来てくださいよ」    ***  随分とまあ今更といった話だが、私には一週間より前の記憶が全くない。  見も知らぬ固いベッドの上で目を覚まして以来、半裸で街中を徘徊したり変態社会人を絞殺しようとした り、生まれたて同然にしてはなかなか密度の濃い人生を今のところ送っている。  なかでも不本意ながら現在私の保護者となっている女、石神ユズとの出会いは目覚めたばかりの全神経が 悲鳴をあげるものだった。ペン太郎くん、悪魔の衣類、そして母性に目覚めたカンチガイ女の抱擁。いま思 い出してもあのとき悲鳴をあげなかったのは私の鉄の自制心と目的遂行能力の賜物であろう。もっとも声自 体でなかったわけだが。  しかし、コンビニに行って食料を調達するのもお手の物になり、唐突に訪ねてきた無礼きわまる死体男か ら金銭を強奪……もとい交渉の結果正当な手段で譲り受けた以外特に波乱のない毎日を送っているうち、パ タリロくんも既にカンストしてしまい、ゲーム内資産は既にサーバーに存在する最高額のアイテムを買おう と思えば買えてしまう程になってしまった。有体に言うと、飽きた。しかし由緒正しいプロレタリアートの 義務として、毎日1〜2時間程度の労働は決して欠かさない。  一応説明しておくがカンストというのは雇用者に対する被雇用者の正当な権利であるアレとは全く関係な く、カウンターストップの略である。簡単に言えばレベル99ということだ。カンスト。カン、スト。うむ、 良い響きだ。  かくあるように私は平穏な毎日を送っているわけであるが、平穏は平穏なりにいろいろと面倒なことも起 こりうるのだということを最近学んだ。  あまりにヒマだったので石神ユズのメールを勝手に閲覧していると、彼女が私を差し置いてよく口にして いた「ゲーム」というものの内容が書かれていた。それに関する情報をネットで仕入れ、自分なりに推理を 始めたりもしたが、それもすぐ飽きてしまう。そして平穏と退屈の末に脳裏をちらつき続けるひとひらの疑 問がフラッシュバックする。  私は何者なのか?  死体男は私を同胞だと言い「居場所を見つけたのなら尊重する」との言葉といくばくかの現金を残して去 っていった。居場所などというものを見つけた覚えもないのだが、それと同時に死体男はきわめて珍妙な会 話を一方的にまくし立てていった。  『ホムンクルス』  私には記憶がないはずなのに、その単語が意味するところを知っている。それだけではない。私は誰に教 わるでもなく隣家の無線LANにただ乗りすることも知っていたし、ネットゲームというものの存在も知っ ていた。そして訓練したわけでもないのに日本語入力でのブラインドタッチも出来てしまう。  もちろん、死体男の語った内容よりは、部分的な記憶喪失を起こしていると思う方がまだまともだ。だが 死体男の語る世迷言は今の状況のほぼ全てを説明するに足るものであり、記憶を失った私にとって他の何よ りも真実らしく見えてしまう。どうも死体男が言うには私はホムンクルスらしい。  正直な話それがどうしたという感想を持たざるをえないのだが、このホムンクルスというのは故パラケル スス大先生のものとは違い、あるオリジナルの人間をコピーして作るものらしい。コピーアンドペーストじ ゃあるまいし、そんな簡単にいくのか甚だ疑問ではあるが、そもそも人間自体、遺伝子というソースコード から作成される肉の塊であるわけだし、わからないことはとりあえず置いておくに限る。  しかし作成者本人もコピー人間を作っただけでは興醒めと思ったのか、そこに何らかの能力を付加する事 を試みたらしい。結果、常人離れした身体能力やら何やらを付与することに成功はするものの、代償として 様々な欠陥がホムンクルスに現れるらしい。死体男の場合は言語野の発育遅延として現れ(喋れるようにな るまで随分苦労したそうだが知ったことではない)私の場合は発声器官の不具合として表出したらしい。  そこで疑問が沸く。死体男は身体能力強化と知能強化という、なんとも面白みのない能力を付加されたら しいのだが、では私は? そもそも私という人間自体が卓越した知能と行動力と勇敢さを兼ね備えた人民を 指導するべきエリートである事は疑い得ないが、それはそれとして常人離れした何かがあるようには思われ ない。  まあ、自分の事というのは誰よりもよく知らないのが人間というものだ。ホムンクルスとて例外ではなか ろう。そう思い直し、私はネットで収集した携帯争奪ゲームの情報をざらっと眺める。今のところクジのア タリは吸血鬼の始祖直属の姉弟が押さえている。もっとも、最初に流した携帯がホンモノである確証がない 以上あまり意味はなく、結局はアタリを持った人間も携帯集めを続行しなくてはならない。それと同時に吸 血鬼陣営の中でかなり大規模の内乱が起きている。世間体を気にしてか外にもらす情報はちょっとしたイザ コザ程度に脚色してあるが、実態は粛清の嵐が吹き荒れ、既に内部分裂と言って差し支えない。IP丸出しの 情弱吸血鬼のPCにバックドアを仕込み、そこから入手した吸血鬼どものリストによると、昨日この部屋を訪 れて一夜にして消えていった血塗れ女も吸血鬼らしい。吸血鬼の本業である暗殺稼業よりは事前の情報収集 等が主な役目らしいが、彼女も粛清対象に入っている。ついでに、唯一能力とか専門職務とかそういった記 述が見当たらないカーミラ・ヘルンバインという項目が目に付き、これについても少々調べてみたところ、 どうも吸血鬼一派のパトロンの一人らしい。組織形態図を見ても上の方にぽつりと孤立して名前が載ってい るだけだし、名誉会員みたいなものなのだろうか。その割には粛清対象に入っているし……これはニセモノ を掴まされたか?  ざっとここまで調べたが、この調査資料をどうしたものか。いくら石神ユズが典型的情報弱者とはいえこ のくらいはちょっとネットをうろつけば手に入る程度のものであるし、これを提供することで家庭内権力の 強化を図りお小遣いのベースアップを要求しようと思って始めたはいいが徐々に面倒くさくなってもきたし 、石神ユズに見つかってあれこれ問い詰められるのも億劫だ。消すのもなんかもったいないし、とりあえず ハッシュ化してシステムディレクトリにでも紛れ込ませておけば見つかるまい。ささっと暗号化を終えて、 私は秘蔵のハーゲンダッツを取りに台所へ向かった。    ***  件の携帯は土井さんの手前持ってきていないと誤魔化したが、実際は昼休みに田代さんから預かり、電源 を切ってバッグに忍ばせてある。いったん家に戻って携帯を持ち出すフリをしないと、最悪家が襲撃されて ヨミが巻き込まれる可能性があった。  そんなわけで田代さんの視線を背中に感じながらも私は家に帰った。いろいろ終わってから食べようと思 っていた秘蔵のハーゲンダッツがヨミの手にあったときは泣きそうになったが彼女はあまりにおいしそうに 一口ずつ口元に運んでいたものだから私はなんとか年長者の体面を保つことができた。  ヨミに「ちょっと遅くなる」と言い残して、かなりわざとらしくZ404をちらつかせて家を出る。さあ、準 備はいいですか襲撃者さん。ちゃんと監視してますよね。これから人気のない路地裏に行きますからさっさ と襲撃してきてください。  夕暮れ時を通り越して徐々に薄闇が辺りを覆い始める。街灯が明滅し、足音の絶えた人気のない路地裏を 私は一定の速度で歩き続ける。  しかし……我ながら無茶をするものだ。自らスタンガンかまして気絶させた中年男性に背中を任せてのう のうと襲撃されようというのだから。それに無茶はできないと何度も自分に言い聞かせてきたはずだ。それ なのに私は不安も焦燥もなく淡々と歩き続けている。 『レディの事情はわからんが、自分に正直に生きることだ。自分で責任を取れ。見てみぬ振りをするな。後 悔は噛み締めて尚前を向け。どんなに胸クソ悪くてもな』  箱男さんにそう言われあれほど取り乱して、まだ半日も経っていない。いまその言葉を思い返しても気分 は小波ほどもざわめかない。私はヤケになっているのだろうか? それとも精神的不感症に陥っているのだ ろうか。  いや……どちらでもない。公園で6名が殺されたという事実をそのまま受け入れてしまったのだろう。で ないとたましいが腐る? 馬鹿馬鹿しい。私はただ惨めったらしい言い訳をしたくないだけだ。そして、ヨ ミを守るためにはいつまでもいろいろな事にかかずらっている余裕はない。無茶を自重していて事態が好転 する時期はとうに過ぎているのだ。  私はおそらく良心的でいられる範囲では良心的なのだろう。だがそれだけだ。  コンクリートを照らす高架上の街灯の並びに見覚えがあった。確か……昨日、未来型インフルエンザにで もかかったかのように咳き込みまくる女性とその弟さんに会った場所だ。顔を上げる。そこには咳き込んで いない女性と、背格好のよく似た細身の男性とが、明らかに私の来訪を待っていたように佇んでいる。  反射的に後ろを振り向く。背後には人っ子一人いなかった。  ちょっと田代さん何でいないの。  私は再び向き直り、長髪の女性を見据える。 「昨日はどうも。おかげで吐血しないで済んだわ……げふん」  横にいる弟さんが無言で吸入薬を手渡し、口に当ててシュコッと音を立ててから姉は先を続けた。 「……申し訳ないんだけど、あなたが持ってる携帯、ちょっと貸し……ぐっ」  そしてあさっての方向を向いて背を丸める。  間抜けだ……。 「……貴様がどこの管轄の者か、調べても出てこなかった」バトンタッチされた弟さんが先を続ける。 「だがそれはこの際いい。おとなしく携帯を渡せ。そうすれば少なくとも身辺は安全になる」  彼は淡々と語り、そして微動だにしなかった。あくまで話し合いで解決する腹づもりのようだった。その 点はさすが私が見込んだ弟さんである。 「……話がよく飲み込めないんだけど?」  実際、飲み込めていない。彼らは『吸血鬼』なのか? だとして、穏健派か過激派か? そもそも彼らが 土井さんを差し向けたのか? 「腹の探り合いは無用だ。俺たちへの協力は確実に始祖にお伝えする。だからおとなしく携帯を渡せ。今の 状況がわからんという事もあるまい、貴様も吸血鬼の端くれなら」 「はあ?」思わず素の声が出てしまった。「吸血鬼? 誰が?」 「無用だと言ったはずだ」弟さんは徐々にいらだち始めているようだった。「貴様のむき出しの血の匂い、 誤魔化しきれるものではない」  え、それだけ? 「えーとその、確かにちょっと匂うかもしれないですけど、これには色々事情もありましてね? 血液販売 業者なんですよ私」 「いい加減にしろ。そういう商売人がいるのは知っているが、パックされた血液を扱う人間が何故むき出し の血の匂いをまとわりつかせている」  ざりっ、と弟さんが一歩を踏み出す。お姉さんの方はしゃがみこんで肩を上下させている。だいじょぶか あのひと。 「あのー、血の匂いがするってのは、まその通りだと思うんですよ。最近血ぃダラダラ流した怪我人をかつ いだり自分が怪我したりいろいろとね? でもそれだけで人をこう化け物扱いするのもちょっと乱暴といい ますか、理性と良心に欠けると思いません?」 「だとしても」彼は手首をしならせて、バタフライナイフの刃を出した。「事は急を要する。そんな瑣末事 に構っている暇はない」  おいおいおい、ちょっと、田代さんまだ来ないの。期待してはいないけどせめてスケープゴートぐらいに はなってよ正義の味方。 「最後の通告だ。携帯を渡せ」  5mほど手前で立ち止まり、弟さんは言った。いかん、目が本気だ。 「……わかった、わかったわよ」私はわかりやすい降参のポーズをとった。「でもその前にいくつか質問に 答えて」 「なんだ」 「土井さんを仕向けたのは、あなた?」 「ドイ?」弟さんはかすかに顔をしかめる。 「女子高生に、この携帯を返して欲しい、って、ちょっかいかけられたんだけど」 「俺たちは一般人をダシに使うような回りくどい真似はしない」  ……おそらく本当の事を言っている。この状況でウソをつくのであれば、他の誰かもお前を狙ってるぞ、 だからさっさと渡せと脅してくるはずだ。そこまで頭が回っていなく、単に質問に答えただけなのだろう。 「もう一つ、この携帯を奪って、どうする気?」 「トトの仕掛けたくだらないゲームをご破算にする。それだけだ」 「そう言え、って始祖に言われたの?」 「……何が言いたい」 「私はあなたの意志が聞きたいの。あなたは始祖に言われたから携帯を集めているの?」 「そうだ。それが同胞同士の無駄な争いをなくす事になる」 「本当に?」 「携帯を渡せ!」  じゃきり、とナイフを鳴かせる弟さんの目は、残念ながら本気のままだった。 「……私はね、このゲームの本当の賞品が何なのか、実は知らないのよ。興味もない。この携帯がアタリだ ったとしても、私は血液10リットル分の現金を募金箱に突っ込んで、また代わり映えのない毎日に戻るだけ よ。それならあなたたちも不満はないんじゃない?」 「信用できん。そもそもお前が吸血鬼でないと信じたわけでもない」  ……時間稼ぎもここまでか。 「残念だけど、私もあなたを信用できないわ。先生だの上司だの始祖だの、そういう偉そうな肩書き持った 人を一切信じられないのよね、私。だからあなたが始祖の名前を出す限り、私はあなたに携帯を渡せない。 ほんと言うとね、お姉さん想いのあなたになら、私は携帯を預けてもいいと思っていた」  弟さんは全く表情を変えなかった。そのままゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。  ……仕方ない。そう、仕方ないことだ。これはもう私のせいじゃない。私は傷が塞がって間もない左手首 に神経を集中させ……。  そこで弟さんは初めて悔しそうな顔をした。  その理由は私にもわかった。彼の肩越しに、数人の男女がわらわらと徒党を組んでこちらに近づいてきて いるのが見えたからだ。  背後を振り向く。人気のない高架下の一本道、その両端を、正体不明の男女総勢20名程度に囲まれている。 「どこの管轄の者だ! 始祖直属の神崎姉弟と知ってのことか!」  弟さんは声を張り上げる。そうか、あんたら神崎っていうのか。弟さんの威嚇も空しく、包囲網は無言の まま着実に狭まってきていた。 「女、早く携帯を渡せ、そしてここから逃げろ。携帯さえなければ奴らは俺たちに標的を絞る。うまくすれ ば逃げ切れるかもしれん」 「お姉さんはどうするの?」私はいけしゃあしゃあと小首をかしげる。 「あれは放っておいても大丈夫だ。死にたくなかったら早く渡すんだ」  お生憎様。  私はそう呟いた。「問題ないわ。こちらもボディーガードが到着したみたいだから」 「なに?」  高架橋のかすかな明かりが細長いシルエットを暗い路地にかすかに浮き立たせていた。 「ヒーローは必ず遅れて来るものよ」  私はおぼろげな影の元を見定めるように顔を上げる。  視線の先、高架橋の壁の上に、一人の人物が腕を組んで凛然と立っていた。  ‘悪’に脅える弱者のため!  自由と希望を守るため!  弱きを救い‘悪’を断つ! 「絶対正義……ジャスティサイザー!!」