K64 蒲生啓介  別に私生児ってわけでもないのだが、父親の顔を覚えていない。  だが私は「血読み」を父親相手によくやっていたし、かつては学校というものにも通っていたのだから、 あの反吐が出る母親と顔の覚えていない父親とでそれ相応に家庭生活を営んではいたはずだ。  それなのに思い出の中の父親の顔はいつもうすぼんやりとしていて、頭を撫でられる感触も胸が切なく なる微笑みも何もかもが、どこかに置き忘れてきたかのようにまったく思い出せない。そしてその反対側 には常にあの忌々しい母親の影がある。世の中には嫌でも覚えている事とどうでもいい事の二種類しかな く、忘れるという事は当人にとって重要でないという事らしいが、私は自分の父親との思い出がどうでも いい事だなんてきっぱり言えるほど薄情でもない。  父は今どこで何をしているのだろう? 母親は……まあ殺しても死なないとは思うが。  煙草のにおいが染み付いたジャケットをわきにどけて、思い出した。そうだ、確か父は煙草喫みだった。 ニコチンが入ると赤血球が落ち着いて少し話しやすくなるんだった。 父は私に「血読み」を頼むとき、一口煙草を吸うのだった。ふわりと拡がる煙のにおいが去ると、その隙 間を縫うようにして甘酸っぱいような父の血のにおいが……。  そこで脳の裏側に違和感を感じた。  違う。こんなにおいじゃない。右手の下のジャケットは……先輩のもので、部屋は暗く、カーテンから わずかに月明かりが忍び込んでいる。静かな可愛らしい寝息が聞こえる。ヨミのものだ。そして私はいま さら引き返せない程度には大人になってしまっている。  違う。父はいない。いま私は天涯孤独の身で血を売り歩くいっぱしの商売人なのだ。  一度きつく目を閉じる。どうやら私はベッドのふちに寄りかかって寝ていたらしい。寝る前の記憶を整 理する。確か、そう、背中をざっくり切られた女の人を助けて、それでいろいろ処置して一命は取り留め たのはいいが、二人暮しの部屋にベッドが三つあるわけもなく、そしてヨミのベッドを奪い取るわけにも いかないなあとぼんやりと考えたところまでは覚えている。どうもそこらへんで力尽きて寝てしまったら しい。ジャケットは……見るに見かねて先輩がかけていってくれたのだろう。  そうして私は目覚めたわけだ。へんな姿勢で寝ていたから背中が痛い。そして頭が冴えてくると確かに、 部屋に濃密な血のにおいが漂っているのがわかる。でもそれはヘンなのだ。先輩は背中を切られたキリュウ インさんに輸血をしていったはずだが、輸血は輸血パックから行うものであって、血のにおいがもれるこ とはほとんどないはずなのだ。もちろん、彼女が着ていた背中がばっさり切り開かれてしまった服には べっとりと血がこびりついているが、もう固まりきっているはずだし、それにしたってにおいが濃すぎる。  背中のベッドには静かに寝息をたてているヨミの姿がある。別に彼女が怪我をしているわけではない。 反対側のベッドには……キリュウインさんの姿がない。病院を抜け出した後のように、輸血パックから 伸びる針がだらりと横たわっている。そして不思議なことににおいはそこからではなかった。台所…… 冷蔵庫のある方からだった。  売り物……?  私は体のだるさを無視して音をたてないように立ち上がり、半開きになったドアをそっと押した。  月明かりが生白い背中とそこに斜めに走った赤い錆を照らし……髪の長い女の青白い頬を浮かび上が らせた。  乱れた髪の隙間から真鍮の瞳がのぞく。口元に血を滴らせた女は、  にやあ、と、笑った。  次に目を覚ましたのはベッドの上で、私の目の前には首まで血に染まった真っ黒な長髪の女の顔が あった。  にやあ、と、笑った。  次に目を覚ましたのはベッドの上だった。  いやもう勘弁してよ。とりあえずよだれの代わりに血をたらした女の所在を確認する。  いた、右だ! ものっすごい反省してる!  まさかこんな短時間に二度も気絶するとは、これから先二度とない経験だろう。絶叫を上げる前に 気を失ったのは血が足りないためか、私の度胸が足りないためか、どっちみちヨミを起こさないで済 んだのは好都合ではあった。 「ええと、その、とりあえずゴメン」  口裂け女は今度はにやあ、と笑いはせず殊勝にも深々と頭を下げた。よく考えてみるとあれはにやあ、 と笑ったのではなくて何というかとりあえず笑ってごまかそうとしただけのようにも思える。  とりあえず敵意はなさそうである。私は物音をたてないようにそっとベッドから離れ、台所の方に 口裂け女を手招きした。  居間のドアを閉め、台所の明かりをつける。  まるで野犬に襲われたかのように売り物である輸血パックが見るも無残に噛み千切られている。そして、 そこは血の海になっておらず、中の血液だけはあたかもちゅーちゅー念入りに吸ったかのようにキレイに なくなっている。  振り返る。そこにいる口裂け女はいい加減学習したのか口元を手でぬぐっていた。 「……ヨミを起こすといけない。外で話せる?」  口裂け女、もとい、キリュウインさんは、かすかに頷いた。私は洗濯籠の中から適当なシャツとカー ディガンを引っ張り出した。  ……よく考えたら彼女、背中に怪我してるんだよな。傷が膿んだりしないだろうか。しないよな。だい たいそこまで汚くないもん失礼な。  夜気にあたっていくらか冷静さを取り戻した私は、そんなどうでもいい事を考えていた。  近所の平和な公園のベンチで、キリュウインさんはがっくりとうなだれていた。私は歩み寄り、缶コー ヒーを一本手渡す。彼女はだるそうに顔を上げ、そして差し出した缶を両手で受け取った。 「体、大丈夫? 連れ出しといてなんだけど」  言うとキリュウインさんは缶コーヒーのタブに目を落としながら、かすかに頷いた。 「……とりあえず、私はユズ。石神ユズ。あなたは?」 「生柳院と言います。生柳院藍」  お、やりー。読み当たってんじゃん。と心の中でガッツポーズ。 「で、キリュウインさん。一通り事情を説明願えるかしら?」 「キリュウでいいです」かしっ、とプルタブを指先で引っかきながら彼女は言った。「事情、と言われて も、正直ちょっと混乱してて……」 「じゃあどこまで覚えてる?」 「ええと……」彼女は缶を開けるのを諦め、額に手をやった。「とりあえず、男の人から逃げていたこと だけ……私、こわくて」  語尾を震わせ、彼女は顔を手で覆った。 「ほんとに、なにがなんだかわからなくなって、わたし、何も悪いことしてないのに……」  彼女は今にも泣き出しそうに俯いていた。 「あそう」  なーにが「悪いことしてないのに」だ。大の男6人と大立ち回りやらかしといてか弱い乙女演じてん じゃねーよこの女ソルジャーが。あたしゃ知ってるんですよあんたがその前にも男数名を立ち上がれな いぐらいには痛めつけてたこと。 「で? 一通り事情を説明願えるかしら?」  さわやかな笑顔で私は言った。 「チンピラ6人から助けてあげた上に輸血までして面倒見てあげてるんだから、何が起きたのかぐらいは 教えてもらってもいいと思うんだけどなあ。別に治療費請求するって言ってるわけでもないんだから、 好奇心を満たすぐらいの報酬を要求してもバチは当たらないと思うんだけど?」  彼女、キリュウさんはうってかわってぶすっとした面持ちになり、缶コーヒーを開けてぐびっと飲んだ。 女同士で嘘泣きが通用するかばーか。 「……話してもいいけど、面倒くさい事に巻き込まれますよ」  私は再びさわやかな笑顔で答える。 「話す気になった? じゃあ続きよろしく」 「吸血鬼、ってご存知ですか?」 「そりゃまあ、超有名な西洋の怪談ですからね。ブラム・ストーカー? 読んだことないけど」 「あれって、実在するんですよ」  キリュウさんはまあなかなかぶっ飛んだことを言い出した。 「といっても、処女の血を吸ったりするわけじゃありませんし、使い魔を使役できるわけでもありません。 それに定期的に血液を摂取しないと情緒不安定になったり、急激に体力を消耗したり、いろいろな禁断症状 が起きるんです。それでも普通の体じゃいられないわけなんですけど……ある人は思考能力の著しい欠如を 示し、ある人は呼吸器系の異常なほどの衰弱を示し……とにかくそういうハンデを背負っているんです」 「悪いことばっかりじゃない」 「……その代わり、常人を凌駕した身体能力を手に入れることができます。それは本当に規格違いの 代物で、例えば私がちょっとその気になればあなたの両目を痛みを与えないままに抜き取ることもで きます」 「で、キリュウさんはその吸血鬼であると」 「そうです」 「殺し屋の?」  ぼそりと呟くとキリュウさんはわかりやすく目を丸めた。 「……あなた、何者?」 「血液販売業者。知ってる? あなたみたいな人たちに血を売る商売の人」  どうやらこちらは知らなかったらしい。私が同じ脛に傷持つ身だと知ったからか、彼女はそれまでより いっそうおとなしくなった。 「あれだけの大立ち回りやらかしたのを見た手前、全部ウソだって決め付けるわけにもいかないね…… でもどうして襲われてたわけ? 『吸血鬼』ってのは殺し屋集団で、襲われる側じゃなくて襲う側なん じゃないの?」  彼女は視線をそらして、何をどう説明したものか考えているようだった。そして意を決したようにコ ーヒーを飲み干し、そして言った。 「あなたは……ユズさんは、『吸血鬼』のどこまでを知ってるの?」 「ほとんど何も知らないのと同じ。殺し屋さんで、けっこうたくさんいて、そんで最近は携帯争奪ゲー ムに熱をあげてるってことぐらい」 「……あなたも参加者の一人?」  私は肩をすくめて言う。 「参加者っつーか、さっさと終わって欲しいって立場ね。何事もなく無事終了して私と関係のない誰か が賞金ゲットして、私は再び血を売り歩く平凡な生活に戻れればそれで言うことなし。もう一人じゃな いしね。世の中平和が一番ですよ」 「賞金って……ユズさんはわかってるの? あのゲームの本当の賞品、とっておきの秘密の意味を」 「え? このゲームって血液10リットルの争奪戦じゃなかったっけ??」 「……とにかく!」キリュウさんは気合を入れ直して話を元に戻した。「いま『吸血鬼』はトトが主催 する携帯争奪ゲームに振り回されて、空中分解しているの。勝手気ままに携帯を奪ってはふらふら動く 者も出てきたし、こんな状況が続けばいずれ『吸血鬼』も解散せざるを得なくなる。もともと始祖…… 要するにリーダーだけど、始祖自身、象徴天皇制って感じであんまり表に出てこない人だから……始祖 を中心としたグループ、あえて言うなら良識派? が事態を収拾しようとしてるけど……」 「トトが携帯の場所を言わなくなった。そして事態は混迷の渦に」 「そんな感じ。『吸血鬼』としては事態はどんどん悪い方向に向かってる」  日陰者には日陰者の秩序がある。なるほど良い例だ。 「『吸血鬼』陣営の都合はわかったんだけど」  『吸血鬼』は先輩の目算通り、どちらかと言えば味方のようだ。だがそれは良識派の人たちであって、 中には暴走している輩もいる。無条件に信頼していいわけではない。  そしてトト、主催者はさらに信用できない。単なるゲームをやりたいのであれば当初から貫いていた 「携帯の在り処を公表する」というスタンスを今さら崩しているのは不自然だ。携帯の所在を公表しな いことで今の混乱した状況を意図的に作り出した、と考えることもできる。そうなれば今まで公表して いたホンモノの所在の情報自体ウソである可能性も高くなるし、自然、一番最初にファミレスで先輩が 見た携帯がホンモノであるかどうかすら疑わしくなってくる。  しかし……いくら混乱して収拾がつけられなくなったとしても、大前提として「次の満月」で全てが 終わってしまうのだ。そこでアタリを持った者になんらかの報酬が出ない限り、一連のゲームはイタズ ラと認識され事態は一気に収束に向かう。それはゲームを主催した人間の意図するところではないはずだ。  ではトトの目的は一体なんだ?  ……今まで考えて結局わからなかったことだ。今さら考え直したところで答えが見つかるはずもない。 それよりもまず目の前の疑問をひとつ解消させるべきだ。 「『吸血鬼』陣営が混乱しているのはわかったけど、それでキリュウさんが襲われるのは何で?」  キリュウさんは夜空を見上げて、他人の思い出話をするようにそっと言った。 「……私が『はぐれ吸血鬼』だからよ」  はぐれ? 説明を促すとキリュウさんはぼそぼそと先を続ける。 「……言うなれば、私も暴走してる側の吸血鬼なのよ。組織の目を盗んで携帯を……とっておきの秘密を 手に入れるために動いている。だから良識派からも反良識派からも狙われるわけ……」  おっと。いきなりキリュウさんを信用できなくなってしまった。 「私を襲うように指示したのはおそらく反良識派の一味だと思う。いくら吸血鬼っていっても、血液を 摂取できなくなれば普通の人間となんら変わるところはないの。だから吸血鬼を狩るにはとにかく追い 続けて血液を摂取する余裕を与えないこと。チンピラでも雇って数日間つけまわせばそれでおしまい。 この現代社会で血液を手に入れるなんて早々簡単にできることじゃないしね」 「なんで? 良識派ってのが事態を収拾しようとしてるんじゃないの?」 「そうなんだけど……良識派がはぐれ吸血鬼を討伐するつもりなら、私より強い吸血鬼を一人派遣すれば 済むだけの話だもの。それにあっちこっちの火消しで私なんかにかまってるヒマはないだろうし。良識派 の目標はあくまで事態の沈静化であって、彼らの敵は無差別に携帯を奪いまわってコトを大きくしている 吸血鬼たちなのよ。私みたいなのは言ってしまえば無害なネズミみたいなものでさ」  つまり……このゲームに参加している『吸血鬼』は良識派と反良識派に分かれていて、反良識派はゲー ムの賞品目当てに忠実にゲームに参加している。一方良識派の方々はそんな反良識派によって騒動が拡大 するのを防ぐために動いている。良識派の方々はその意味で私たちの味方と思っていいはずだ。だが……。 「キリュウさんは? 反良識派にあたるの?」  聞くと、彼女はしばらく考え込んで、それから自嘲気味に言った。 「いまさらおこがましいのかもしれないけど……一応良識派に入るんじゃない? 実力で携帯を奪ってる わけでもないし、いまのところただ情報収集してるだけだもん」 「そう……」  どうにも、考えがまとまらない。要するに、キリュウさんは他の吸血鬼から狙われる立場で、しかもか なり不利な立ち位置にいる。彼女から入手できる情報はあらかた手に入れたが、それでハイサヨウナラと 見捨てられるほど私も無慈悲にはなれない。 「そういえば一つこちらからも聞いていい?」  キリュウさんが唐突に言った。話題をそらそうとしてではなく、本当に今思い出したような口振りだ。 「どうやって私を助けたの? あそこには少なくとも5人はいたはずだけど」  え。  えーそれはだなー。 「……こう見えて私空手120段なんで」  にへら、と笑ってごまかすと、キリュウさんはあっさり引き下がった。 「まあ、言いたくないなら無理には聞かないよ。とにかくありがとね。さっき頂いた血の代金は……悪い けど満月が過ぎるまで待ってもらえる? お金はあるけどセーフハウスも監視されてると思うし」 「それは構いませんが……これからどうするんです?」 「これから、ね……」  彼女は苦い表情であたりを見渡す。 「こんなに早く反良識派に目をつけられると思ってなかったし……本音を言えば逃げ回るのが精一杯なん だけど、どうにかしてゲームに参加してみるよ」 「……殺されるかもしれないのに?」 「さあ……やってみなきゃわかんないじゃない? あと数日は私も無敵モードだから、それでどうにかし のいでみるよ」 「なんでしたら売りましょうか? 血」  え、とキリュウさんは固まった。 「いいの? 面倒ごとに巻き込まれるかもしれないよ?」 「ただし条件があります」私は得意の営業スマイルを浮かべる。「一つは情報の共有……キリュウさんが 手に入れたこのゲームに関する情報をこちらに流すこと。そしてもう一つ、キリュウさんが反良識派でな いのなら、あなたがそれほどまでにこのゲームに執着する理由……そこまでして血液を求める理由をお教 え願います」  彼女はしばらく目線を外して考え込んでいたが、やがて観念したように言った。 「……人間に戻りたいのよ、私は」     ***  翌日。  ヨミが「コンビニいってくる」と出ていったのでこれ幸いと箱男さんの情報料になるゴスロリのコスプ レ写真を撮影したらお金を忘れて戻ってきたヨミに発見される等非常に気まずい事件もあったがとりあえ ずお昼になって私は田代さんの勤める学校に向かい、学校から少し離れた喫茶店で彼と落ち合った。 「……つまり、そのケータイについて聞いてきた女子生徒が『吸血鬼』かもしれないと?」 「そうなんだ」目の前のさえないスーツの中年男性はそうつぶやく。  田代正志。高校教諭を勤める一方でなんか正義の味方をやってるらしいが私としてはその前提情報だけ でお近づきになりたくない人種である。とはいえ彼なしでは調査が進まない……少なくともイケニエか撒 き餌ぐらいにはなりそうなので先輩の指示通り組んでいる次第である。 「石神さん以外にも情報屋がいてね、そいつによるとその土井って女子生徒は吸血鬼の使いっぱしりのア ルバイトをしているらしい。もっとも、そいつ自身『ギミーシェルターならもっと正確な情報を持ってる のに』とぼやいていたけど」 「ギミーシェルター?」おうむ返しに問う。 「情報の早さも正確さもピカ一の、情報の卸問屋らしい。あまりに手が早いから他の情報屋もそのギミー シェルターって人から情報を仕入れるぐらいなんだってさ。ただ本人がヘンクツで、直販は基本的に自分 が気に入った人間にしかしないんだって」 「ふーん」気のない返事を返す。 「ともかく、あまり信憑性のない情報ではあるんだけど、用心するに越したことはなし。悪いんだけど ケータイ預かってもらえる? 妹に預けてあるってことにしておくから」  妹? だれが?  内心つぶやいたが聞き返すのも面倒くさい……彼より年齢が下で女性である人間はこの場に一人しか いない。私はため息をついて首肯し、田代さんが差し出したケータイを手に取った。 「よくわからないのは……土井が何で僕の真の姿を知ってるのかってことと、僕がZ404型のケータイを 最近手に入れたのを何で知ってるのか、ってことだよね」  確かにその情報はゲームの参加者の誰もが知らない情報のはずだし、よしんば知っていたとしても、 現状とにかく多くのZ404を集めるのが先決の彼らにとって、たったひとつのZ404を追う理由は特にない はずだ。  となれば考えられるのはただ一つ……。 「ゲーム云々ではなく、このケータイの本来の持ち主、すなわちヨミを監禁していた組織が動いている、 ということでしょうか」 「それしか考えられないね。いずれにせよ向こうから来てくれるんだ。丁重におもてなししないとね」  田代さんはメガネを光らせてにやっと笑った。  キリュウさんは電話番号を交換した後、必要になったら血を買いにくるとだけ告げ、どこかに立ち去った。 いくら広いとはいえウチは3人はさすがに狭いし、すでに追われる身である彼女を匿うのはヨミの安全を 考えれば不可能ではあった。  ……とはいえ、人間に戻りたい、とこぼした彼女のぎらついた目を思い返すと、私が見捨てたような気が してやはり少々心苦しい。  そうだ、先輩に連絡しないと……。輸血した人間がどこかに消えればさすがに先輩も慌てる……だろうか ? 勝手にいなくなったと言えばそれまでのような気もする。けどまあ……無断でいろいろやるわけにもい かないし、一応連絡だけはしておこう。幸い田代さんが勤める高校はまだ午後の授業の真っ最中だし、時間 は空いている。  ぴっぴっぱ。しばらく呼び出し音がなったが、やがて留守番電話に切り替わる。  もう一度かけてみたがやはり同じだった。まあ、先輩は時々理不尽な理由で電話に出なかったりするので 別段珍しいことでもない。少なくとも連絡しようとした形跡は残ったわけだし、うん、私は悪くない。 「さて」私は大きな松の木の下で立ち止まる。「いるかしら?」 「……ずいぶん早いな。また会えて嬉しいよ、レディ。今日は一人か」  前回来たときはヨミがいた。今日はもしかしたら慌しい事態に発展するかもしれないのだから、連れ歩く わけにはいかない。今ヨミは家でネットゲームというものをやっている。 「そうね。とりあえず、売れる情報はある?」 「いろいろと仕入れてあるよ。こちらから売りに行きたかったぐらいだが、なにせ、このなりではね」  私はそれには取り合わず、郵便受けのような細いのぞき窓からゴスロリのコスプレ写真を投稿する。 「……姫ロリは?」 「最近忙しくて新しい衣装なんか買ってる余裕ないの。それで我慢して」  なにやらのぞき窓の奥からぶつぶつ言う声が聞こえるが本当に聞き取れないので無視する。 「で、どんな情報が欲しい」 「例のゲームについて、今あなたが握っている情報すべて」 「長くなるぞ」 「このあと用事があるから要点をふまえて簡潔に手短にお願い」 「……相変わらず手厳しい。レディのご要望だ、能力の許す限りは応えてやりたいが、しかしそりゃ無茶な 注文だ。情報ってのは指向性がある。こちらの持っている情報をすべて過不足なくレディに説明しようとし たら軽く三日はかかる」  私は嘆息した。まあ、こいつの言う通りだ。 「じゃあ……別口から『吸血鬼はいまゲームのせいで内部分裂してる』って話を聞いたんだけど、これにつ いて詳細が知りたい」 「ずいぶん込み入った情報を持ってるもんだな。その通りだ。リーダー、こいつは始祖と呼ばれているが、 始祖を中心とする穏健派とそれに反発する過激派とが分裂している。といっても真っ向対決してるわけじゃ ない。過激派がゲームに熱をあげているのを穏健派が押さえ込もうとしているだけだ」  穏健派、過激派……それぞれキリュウさんの言う良識派、反良識派のことだろう。これで裏がとれた。 キリュウさんの言っていたことはやはり本当らしい。 「ただ……過激派もやりすぎれば穏健派のターゲットになる。ちょうど昨日、やりすぎた吸血鬼がいてな」  昨日? 黙っていると箱男さんは先を続けた。 「ここから少し離れた公園でな、6名の惨殺死体が見つかった。確かな情報だ。殺されたのはそこらによく いるチンピラだが、全員が吸血鬼の息がかかった奴らだった。どうも過激派同士の抗争らしい」 「……6名?」  私は不安を覚えながら尋ねる。 「そうだ。6名。全員なます切りにされていたんだが、あまりに切り口が綺麗すぎてな。『吸血鬼』にしか できない芸当だそうだ。……そうだ、話が前後するが、『吸血鬼』そのものについて」  箱男さんの声が遠い。何を言っているのかよく聞き取れなかった。それでも彼の説明は無慈悲にも頭に 入ってきた。彼が話した内容はキリュウさんが私に説明したものと寸分違わぬものだった。 「……わからんのはバックの組織だ。身体改造か薬物投与か知らんが、そういった施術が可能な組織が バックにあるはずなんだが……これについてはまったく情報がない」  惨殺。6名。公園で。  何か不吉な予感が頭の右上の方にあった。ともすれば脳みそを一瞬で覆い尽くしてしまいそうな粉状の どす黒い不安。私はそれを必死で見ないようにしていた。 「……レディ。以前来たときから気になっていたんだが、何故この件に干渉している? こう言っては なんだが、レディにとってこのゲームの賞品はさして魅力的とも思えないのだが」 「……らないわよ」  奥歯の奥からひとりでに声が漏れる。 「わからないわよ……そんな事!」  私はずっと歯をかみしめていた。  やがて箱の奥から震える声が響いた。 「……レディの事情はわからんが、自分に正直に生きることだ。自分で責任を取れ。見てみぬ振りをするな。 後悔は噛み締めて尚前を向け。どんなに胸クソ悪くてもな」 「知ったような口を!」  反射的に声を荒げる。箱は微動だにせず、葉と葉のこすれる音だけがあたりに響く。 「……でないと、たましいが腐る」 「……っ!」  私は逃げるようにしてその場を後にした。  何が、何が『たましいが腐る』だ! ただでさえ忙しいのにこれ以上付き合ってられるか!  もう何もかも放り捨てて誰も知らないどこかに消えてしまいたいとさえ思った。血を売る、ケータイ争奪 ゲーム、血読み、もうたくさんだ。これ以上私に何を要求するってんだ。  そうして一歩を踏み出して、そして脳裏に浮かぶのはヨミの無表情だった。 「……くそっ」  自分の眷属を守る事。それだけはどこまでも私の意志を縛るらしい。  先ほどからまとわりつく嫌な不安を振り払うように、私は田代さんの勤める高校へ機械的に歩を進める。 今やるべきことをやる。愚痴を言うのはとりあえず後回しだ。