K56 蒲生啓介  ヨミの髪を切ろう!  と考えた次の瞬間、あ、やっぱどうしようかな……と思いなおした。  田代さんの部屋には鏡がなかった。男やもめに鏡がないのは別段不思議なものでもない。それは 私にとってまずまず好都合なことだった。  私はバッグの中に入っている手鏡以外、鏡を持っていない。服を買うときも試着なんて絶対しな いし、鏡のある公衆トイレなんかも避けて通る。ガラス張りのショーウィンドウぐらいは許すが、 とにかく鏡というものを徹底的に避けている。  別に鏡に映った醜い自分を見たくないというわけではない。別に美少女ってわけでもないが割か し気に入ってはいる。つーか部屋にいるときは手鏡なら普通に使う。まゆ毛の手入れできないし。  子どもの頃、確か小学校に入ったあたりだったか、人前で鏡の前に立つなと言われ、そしてこの 手鏡を母から与えられた。そのときは嬉しかったが、いま見れば確実に安物だ。それでも使い続け ているのは、手鏡ごときに貴重なお金を使いたくもないし、鏡ばかりが並んだ鏡売り場にはあまり 立ち寄りたくないからだ。  別にあのくそ忌々しい母親の言いつけを守っているわけではない。だが事実として不都合が起き る以上そうしないと面倒が起きるというだけだ。  どういうわけか、私はたまーに鏡に映らないときがあるのだ。かといって私が幽霊である可能性 は皆無だ。つねったら痛いし、何より車に轢かれそうになった回数では負けたことがない。  そんなわけで面倒ごとを避けるため、私は鏡に映ることを極力避けている。だから私の部屋の洗 面台には鏡を取り外した後の枠だけがぽつんと残っている。髪なんて自分で切ってるんだぜーロン グヘアを自分で切れる人間なんてそうそういないだろう。とまあそんなわけでヨミの髪を切るとい うことは鏡が必要になるわけであり、血とお話できる上に鏡に映ったり映らなかったりするという 特殊体質な私は戸惑っているわけである。  とここで、よくよく考えればヨミを一人で美容室に行かせればいいだけの話であることに気がついた。 私と違って鏡に映らんなんて妙な事態はヨミには起こり得ないんだから、私がそこにいなければい いだけじゃないか。いかんいかん、髪ってのは自分で切るもんだったから美容室とか床屋の存在を すっかり忘れていた。  ……しかし!!  あのヨミの髪を、流行の髪型にしか興味ないようなちゃらちゃらした茶髪の、資格も持っていな い美容師気取りのアホンダラにいじらせるのか? いやだ。きっと奴らはヨミの髪を見て「うわ ぼっさぼさ」とか思うに違いない、わかってない!! 世の中に媚売ってるような愛されヘアー(笑) と一緒にすんじゃねえ。あのしなやかで腰の強い、芯の強い瑞々しさ! あの魅力を殺さずに扱え るのは私しかいない! うん、やっぱり私が切ろう。まあ、基本的にはちゃんと映るわけだし、ヨミ にばれたとしても不思議がるだろうがヘンな噂が立ったり披検体として某国の研究施設に拉致られ たりはしないだろう。  ゆとり教育がテーブルひっくり返していった駅前のファミレスで、私は先輩と落ち合い、ここま での経緯を報告していた。ヨミが快復してある程度放っておいてもよくなり、いろいろなことに一 区切りついたためだ。やはり電話だけだと事の仔細が伝わらないことがある。 「なるほどね」  先輩は7杯目の粉っぽいコーヒーを飲み干してそう言った。 「あいつの考えそうなことだ」  先輩の言うあいつ……田代さんは、ヨミが持ってきた携帯にかかってきた電話を結局取り、自ら それを届けるという、一見暴挙にしか見えない選択をした。もっとも、より安全で有効な手段があ るかと言われれば、私には思いつかないのだが。 「その、先輩、ひとつ聞いていいですか?」 「なんだ」  なんだと促しておいて先輩はコーヒーのおかわりを取りにボックス席を離れる。こういう人だ、 しょうがない。  私は手持ち無沙汰になり、メニューをぱらぱらと眺める。イチゴパフェ。クリームがふんだんに 盛られた山に大粒のイチゴが4つどんどんどんどんとあしらわれてはいるが、こういうのはどうせ 裏返すと半分に切ってあるものだ。アイスもクリームもここまで贅沢に使われるか怪しいものだ。 480円。もろもろ考えると明らかにぼったくりである。でもヨミにこれをせがまれたとしたらさ らっと笑顔で払ってしまいそうで怖い。そういえばお昼ご飯代にお金置いてきたけど、ヨミはコン ビニの場所覚えてるだろうか。そもそも買い物できるだろうか。まあそのために小型ノートパソコン 買ったんだし大丈夫だとは思うが。  先輩がコーヒーを一人分持って戻ってきた。そのまま向かいにどっかりと座り、コーヒーに口を つけてから胸ポケットの煙草の箱を取り出し、それがカラなのに気づいてくしゃりと握りつぶして からテーブルに置いておいた新しい煙草にのっそりと手を伸ばし、封を切りとんとんと叩いて フィルターを飛び出させ、指で二、三度つまもうとしたが足りず、舌打ちして再び煙草の箱を叩く 頃になっていい加減私は再び口を開いた。 「で先輩ひとつ聞いていいですか」 「ん?」今気付いたと言わんばかりに顔を上げる。「ああ、悪い。なんだ」  私は嘆息まじりに言葉を続けた。 「田代さんのことです。変態だの正義の味方だの聞いてましたが、いったいどういう人なんです? 変態なのはわかりましたけど」 「変態じゃねえ」  先輩は煙草の箱から歯で直に煙草を噛んで取り出した。火をつけてあさっての方向に煙を吐く。 首の筋がくっきりと見て取れる。少し痩せたんじゃないか。 「変態紳士だ」 「なにがちがうんですか」 「変態と変態紳士との間には埋められないし越えられない深い溝がある」 「いやだからなにが」 「有り体に言うと前者は悪で後者は善だ」  はい? 「まあいいです変態紳士ですね」なんかもうそこらへんはどうでもいいので話を強引に戻す。 「で一体何が正義の味方なんですか」 「だから」火のついた煙草で私を指す。やめろあぶなっかしい。「正義の、味方だよ」 「あのもうちょっと真面目に」 「しょうがないだろう、そうとしか説明できん。俺も奴の正体は知らないんだ。自分でやってん のか誰かに頼んでんのかはわからんが、あいつが正義を実行する、と言うと確かにその通り悪の 組織がひとつ潰れるんだ。まー不安になる気持ちもわからいでもないが、お前みたいなのも世の 中にはいるわけだ。あんまり気にすんな、そして納得しろ」  そう言われてしまえばもう返す言葉もない。だが私は一応一般人のつもりだぞ。 「それに、仮に物騒な事態に発展したとして、お前やそのなんつったっけ」 「ヨミ。海城ヨミ」 「ああ、そのヨミって子が危険に晒されることはない。これは断言できる。少なくとも田代の目 の届くところに居れば安全だ。俺の実体験からして間違いない」 「……実は空手の有段者とか?」 「あほか。んなもんじゃねえ」先輩は煙草をくわえたまま、にかっと笑った。「正義の味方だ」  ふと『アルバイト募集!』の看板に目がいって、私はため息をついた。 「んで、そのヨミって子はどうだ。なんか変わったところは」 「あー、ないですよ。声が出ないことを除けば」 「なんで声がでねーんだ」  そういえば先輩にはヨミが喋れないことを言っていなかった。 「知りませんよそんなの」 「おまえね、少しは不思議がるとか疑うことを覚えろよ」先輩はカップをテーブルに戻しつつ言う。 「何で声が出ないのか。精神的なショックが原因か? それとも物理的に声帯が潰れてるのか? もしくは声の出し方をそもそも知らないのか? さらには声が出ないという素振りをしているだけか? 人間には聞こえない音域で喋っているとかは?」 「わかりません、っていうか最後のはもう人間じゃないですよ」 「まあそうだが、疑ってかかれということだ。そういうのは信用するしないとは別問題だよ。一番 あり得そうなのは精神的ショックによる失語症だろうが……あれ、失語症ってのは字を忘れるやつ だったっけ」 「本人は『長い間閉じ込められていた』と言ってましたけど。でも虐待とかそういうのを受けた形 跡はありませんでしたよ。ただ喋れないだけで普通の子に見えます」 「ふーん。他に変わった点は?」 「あーそーいえば、タイピングで会話ができるぐらいキーボード打つの早いです。あれですよキー ボード見ないで日本語打つやつ」  言うと、先輩は息をするように吸っていた煙草を指に挟んでじっと見つめた。 「なんだそりゃ。なんで長い間閉じ込められていた子どもがブラインドタッチなんかできる」 「はい? あれって才能かなにかじゃないんですか」  先輩は力なく天を仰いだ。なんかへんなこと言ったか私。 「ブラインドタッチは訓練しないとできないだろう……それも1週間とかでできるようになるもん じゃねえぞ。日常的にキーボード打ってないとできない芸当だ。って、そう、それさ、ローマ字で 打ってたか?」  うん? えーっと…… 「ヨミが使った後、お前が使うと文字がヘンに打ち込まれるとか」 「あーそうそう、エーエルティー押しながらカタカナひらがなキー押すと直るんですよね」 「……筋金入りだ」  先輩は煙草をぐりぐりもみ消した。 「まあ、ここでいくら考えてもわからんしな。ヨミのことは置いとくとして……田代からは連絡 ないのか」 「はい」 「まーないならないでいいけどな。わりーけど付き合ってやってくれ」 「おまたせしましたー」  場の空気を華麗に切り裂いて登場するウェイトレスとテーブルに置かれるイチゴパフェ480円。 先輩はスプーンをとってクリームに突き刺しながら言った。 「……おまえも頼むのか?」  イチゴはやはり半分に割られていた。 「いりません」  イチゴパフェを食べるため。ただそれだけのためにファミレスに入っていたので、底にたまった クリームまでキレイに片付けた先輩はさっさと会計を済ませ、私を家に連れ込んだ。もちろん えっちい目論見は微塵もない。単にそろそろ部屋を片付けたいだけに違いない。そうに決まってる。 私服で来てよかった。スーツだったらこぼれた醤油とかがついたりするかもしれんし。ジーンズ なら汚れてもまだ心が救われる。  そういうわけでゴミ袋片手に部屋を片付け回りつつ、今後の方針を相談する。 「で、これからはどう動けばいいんです?」 「どうっていうか」  ほんとにこの人は水のようにコーヒーを飲むなあ。もちろん掃除の手は休めない。 「田代から連絡があったらそれに付き合う。これまでと同じ。ヨミの世話もあるだろうしな」 「こちらから何かしら調査は?」 「できる範囲でいいよ。焦って解決するようなもんでもない。事態はどんどんややこしくなって きてるしな」  ややこしく? おうむ返しに問うと先輩はどこか遠くを見るような目つきで私を見た。 「ああ、いろいろめんどくさくなってきてる。とりあえずわかったのは『吸血鬼』について。一連の 『吸血鬼』ってのは暗殺者集団を指すらしい。その筋じゃ有名どころだそうだ。構成員は老若男女様々、 ではなく、老けてても20代だそうだ。つっても目撃情報もない、噂といっていいぐらいのものだが」  ふむ。コーラのペットボトルを膝で潰しながら言う。 「確かに、吸血鬼ってからには不老不死でないと」 「関係あるのかしらんがな。で次に、トトが携帯の場所を言わなくなった」 「……は?」  それってゲーム進行的にまずくないか。 「っていうか、前よりさらに曖昧になったんだよ。『油くさい空気と焼け爛れる匂いの斜め右下』 とか言われてわかるか? んでさらに、吸血鬼どもは怪しいZ404を片っ端から集めてまわってるよ うだ。吸血鬼以外にも街の不良グループやら暴力団やらがそれぞれ携帯集めに奔走しはじめたよ。 そりゃ、本物がどこにあるかわからなくなったら同じ形のモノを全部集めるしか手はないわな」  ペットボトルのキャップをゆるめる。こうしないと中の空気のせいで潰れないのだ。 「となると」かしゅっ、という間抜けな音がしてペットボトルがまた一つ平べったくなる。「あら かた集め終わった後に予想されるのは……組織同士の抗争だ」 「どこが勝ちますか?」 「間違いなく『吸血鬼』だ」先輩はぼうっとした目で煙草をふかす。「そういう稼業なら、物量で どうにかできる相手じゃない」 「物騒ですね」話が絵空事じみていて実感がわかない。 「『吸血鬼』が当たりクジを引いててくれりゃあ穏便に済むがな。身を隠すのはお手の物だろう。 だが……参ったことにだな」  ぐん。む、キャップの緩め方が足りなかったか。 「この『吸血鬼』ってな、俺らの客らしいんだわ」  私はぼけっとした顔のまま潰れない1.5Lペットボトルに膝をのっけていた。  『吸血鬼』は、もしかしたらお客さんかもしれない。私たちの客かどうかはわからないが、血液 販売業者の誰かの客である、というのは間違いないそうだ。  それは、想定し得る可能性の中で2番目ぐらいに都合の悪い事実だった。つまり、『吸血鬼』が しくじり、私たちの販売ルートが一斉に公にされ、ぶっ潰される、そういう危険をはらんでいた。 殺し屋なんて今の世の中仕事があるのか疑わしいものの、殺し屋さんがのん気に病院に行くわけも ない。確かに非合法の血液が必要な職業の方々である。まさか名前のごとく経口摂取したりはしな いだろうが、確かに彼ら吸血鬼は私たち血液販売業者のお客さんになり得る人種だった。 『まあ、殺し屋なんてのをやってる以上、そうそうしくじりはしないだろう。それに血液の入手経 路が途絶えたら向こうもおいそれと怪我できなくなるし、ある程度は味方と思っていいんじゃねーの』  ……だ、そうだが、疑ってかかれとは先輩の談。私と先輩はまず自分たちの顧客リストをイチから 洗い、『吸血鬼』の可能性があるお客さんのリストアップを急いだ。が、ここが私たち販売業者の 辛いところで、お客さんのプライバシーには極力ノータッチなもんだから怪しいのばっかりで顧客 リストの半分も消せなかった。  そんなわけで大した結果も出せず、私はもう薄暗くなった夜道をつかつか歩いていた。作業から 解放された後唐突にヨミのことを思い出して家路を急いでいた。もしコンビニで買い物できなかったら お腹すかせて家で待ってるんだろうし早く帰らないと。  最寄駅まで車で送ってもらう、なんて常識的な真似は先輩にはあり得ない。もとより期待していない。 ので、駅までの道は完全に覚えていた。街灯のぼんやりとした明かりの下を歩いていると、先方から げほげほ咳き込む音が聞こえる。  いやげほげほなんてもんじゃない。ぅがぁえっガフっァえエっ……とでもいうぐらい根性入った 咳き込みだ。田代さんがトイレのお友達になったときの光景が頭をよぎったぐらいである。  顔を上げると細身の女性……私と同じか、少し年上ぐらいに見える……が、涙目になりながら口を 手でおおって背中をびくつかせていた。ヘンな話だがその口をおおっている手が陶磁のように滑らかで、 すらりと伸びた指もその先の爪もとてもきれいだった。  うーん、こないだのうさんくさいキャッチのお姉さんはキャラかぶってんじゃねえかと難癖つけたが、 このお姉さんは良いな。咳き込むたびに揺れる髪も細くて私好みだし、ここまで容姿端麗だともはや 尊敬の念さえ覚える。げふんげふんうるさいのが玉に瑕だが。  ……と一通り人物評価を終えてもまだ台風のような咳き込みが続いていて収まる気配がまったく なかったので、さすがにやばいんじゃないかと思い声をかけた。 「あの、だいじょうぶですか?」 「あガグぇえはぅえホっgg」  やっべこのひと呼吸してなくね?  仕方がない。私は後ろにまわり、背中をさすりつつ、気付かれないようにそっと首筋に手をやる――  途端、ものすごい勢いで腕を弾かれた。 「あ、すみません」  ちょっとびっくりした。いや会話は終わったけど。 「ッガぁぇっほげほ……? げふっ」  目の前の女性はまだ息を乱しているが、発作は収まりつつあるようだった。しかしすごい喘息 だったな。喉に集まった血たちも熱い熱い言ってたぐらいだし。一時的にちょっと離れてと言った だけなので根本的な解決にはならないのだが、呼吸困難で死ぬよりはだいぶましだろう。窒息死と 笑い死には最も辛い死に方だっていうし。 「……ゲフン! ごめんなさい、助かったわ」 「いえ、とんでもない」私は背中さすっただけ。「病院、行かれた方がいいですよ?」 「ええ、ゲフン! ちょっと空気の悪いところに居すぎたみたい」  まあ、高架下なんて煤が空から降りしきる場所だしな。 「姉、そいつはどこの管轄の者だ」  急に後ろから声がかかる。振り向くと女性と同じぐらいの年齢の男性、察するにこの人の弟なん だろうが、その男性が私を指差して姉に問いかけていた。  お前ひとを指さすなよ。っていうか管轄ってなんだよ。 「いえ、通りすがりに背中さすってもらってただけよ」 「また発作か。サルタノール・インヘラーは姉が持っていた方がいいんじゃないのか」  なんだその隠し必殺技みたいな名前。 「姉の荷物は弟が持つのが当たり前なのよ」 「まあいい。そいつとか言ってすまなかった。姉が世話になったようで」 「いえ、大したことは」  営業抜きのスマイルで返す。なんだ礼儀正しい若者じゃないか。それに姉を心配する感心な弟さんだ。 美しき姉弟愛かな。 「それよりお姉さんを病院へ連れて行ってあげてください。咳がひどくて喉が切れちゃったみたい ですし」 「そうなのか? 姉」 「ぐッ!」お姉さんは手で口を押さえながら頷く。  ほらぶり返した。「血読み」は炎症抑えるのには効果的なんだけど根本的解決には全くならない。 「ひどくならないうちに。それじゃ私はこれで」 「ああ、礼を言う。夜道には気をつけて」  頭は下げないにこりともしない弟さんだが私は悪い印象は持たなかった。お姉さんの方も咳をこらえ ながら片手を挙げる。私は軽く頭を下げて家路に戻った。  駅への近道である公園をざっくり突っ切って歩く。夜の公園というのは非常に薄気味悪い。顔見知り のホームレスたち(彼らもまたお客さんたり得るのだ)の縄張りならまだしも、全く知らない公園を 女が一人で歩くのにはもしかしたら勇気が必要なのかもしれないが、ヨミの心配が勝った。  とはいえ、見通しの良い公園で特に隠れる場所もない。つけあわせの沢庵みたいにぽつぽつと遊具 があり、こんなところでたむろする不良さんもホームレスもいないだろう。が薄気味悪いのも事実な ので急ぎ足でど真ん中を歩いていた。  公衆トイレわきのベンチに誰かが寝ていた。仰向けになり、目の上に右腕をのせて、左手を額に 押し当てている。どこをどう見ても酔い潰れて寝てるようにしか見えない。が、よく見ると胸のふ くらみが見えた。  おいおい、いい歳した女が夜の公園のベンチで寝てるぞ。世も末だ。襲われるとか考えないのか。 一人酒か、酔い潰れるほど一人酒か。哀れにもほどがあるぞ。自重しろ自重。  とは思いながらも放っておけるものでもない……急性アル中だったら救急車よばんと。しかし病人 というか手のかかる人間によくぶち当たる日だな。 「あのー、だいじょぶですか」  少し大きめの声で問いかける。額にはハンカチ、耳が隠れるぐらいのショートヘアは、心なしか 湿っているように見える。顔でも洗ったか。てことは意識はあるのかな。  腕が持ち上がり、その下から細い鋭い目がこちらを見た。ちょっと焦点が合っていない、ように 見えたが、何か違う、頬は紅潮しているが酔い潰れた人間の目ではない。 「ああ……」女性は背もたれに腕をかけてのっそりと体を起こす。「ごめん、大丈夫。なんでもないよ」  その大学生ぐらいに見える女性は額にハンカチを押し当てたまま、肩で息をしていた。酒に酔った わけではなかったらしい。アルコール臭がまったくしなかった。  うん……?  アルコール臭はしない、代わりにあるのは水に薄められた血の匂い……しかも、なんかこれさっき 嗅がなかったか? いや利き酒ならぬ利き血なんてできないけどさ。 「どこか怪我でも?」  言うなり女性の肩がびくっと固まった。 「ああ、うん、転んでざっくりやっちゃって」 「大丈夫ですか?」 「うん、平気平気。ありがとね」  とは言うものの……会話の間にも血の匂いは濃くなっていた。それも新鮮な血の匂いだ。たぶん まだ出血が収まっていないのだろう。トイレからの明かりだけでは薄暗くて気付かなかったが、 よく見るとジャケットにもインナーにも広く血がはりついていた。それ以外に衣服に乱れはない、 それでこの量……となると。 「おでこですか? 頭の出血はひどいですよ。無理せず病院に行った方が」 「うん……落ち着いたら、いくよ」  んー……これまずいな。もしかしたらもうかなり失血しているかもしれない。  女性が額を押さえて俯いている隙に、私はバッグをごそごそやり、お守りの黒い木目模様のナイフで 指先に小さく傷をつけた。ついでに新しいハンカチを取り出す。 「ハンカチ、どうぞ。使ってください」  女性の左手を取る。それまで押さえていたハンカチは夜の闇と見分けがつかなかった。  おいおい……これは、何ていうかむしろラッキーだな。  夜気に露出した傷口は斜めにざっくりと走っていた。刃物で切られたようなきれいな傷だ。よほど 鋭利なものに頭突きかましたらしいが、ぐっさり刺さっていたら命に関わっていただろう。そうっと 傷口に新しいハンカチを当てる際に、傷つけた指先をそこに触れさせる。  会話は1秒かからなかった。女性の左手を額に戻す。  まー……採血可能量ちょっとオーバーするぐらい抜いたと思えばいいんじゃねーの、ぐらいである。 貧血でふらふらふらふらするだろうが死にゃーしないだろ。一応『ちょっとおめーらこのままだと 宿主死ぬぞとっととかさぶたれやオラ(全意訳)』と若干脅し混じりに言っておいたので、大急ぎ でかさぶたを作ってくれるだろう。 「もう血が止まりかけてますから、収まったら一旦帰って、それから病院に行かれた方がいいですね。 タクシー呼びましょうか?」 「ん……いや、いいよ。大丈夫。自分で呼べる」 「そうですか、じゃあ、お大事に」  なーんか奇妙なひっかかりを覚えつつ、無理強いするものでもないので私はその場を後にした。  見当がついたのは人の絶えた駅に着いたあたりだった。どうもあれは、お客さんによく似ている。 つまり、親切はありがたいんだがちょっと事情があるから口を挟むなという感じである。病院に 行きたくなかったのか、ワケアリの人だったのか、よくわからないがまあいいや。止血の手伝いを した時点で私は私の義務を果たした。そしてよくないことに連絡先を残してくるのを忘れた。ハン カチ返してもらえないじゃんか。あれ高いんだぞ。  そんな狭量な考えを一瞬でかき消す、錆の匂い。  勘違い? いや、さすがにない。なんだこれ……複数の匂いが混じっている。  キオスクも閉まっており、無機質な券売機が並ぶ駅舎。一見清潔そのものに見えるそこには、 どこから漂ってきたのか、脳の裏側を刺激する酸味の強い血の匂いが広がっていた。  ピリリリリリリ!  思わず振り返る。もちろんそこに電子音を出す何かがあるわけではなく、単に自分の携帯が鳴って いるだけだった。 「はい」 「あ、もしもしー。田代ですぅ。今日どうしたの?」  っ田代かよ……周囲に注意を向けつつ受け答える。 「今日って? 何かありましたか」 「メール見てないの?」  そういえば有事の連絡手段として、電話の他にパソコンのメールアドレスを使うようにしてあった んだった。ヨミがこちこち何かの設定をして新しくメールアドレスを取ってくれたのだが、最近の パソコンは線をつながなくてもタダでネットできるらしい。すげーな。 「ええ、今日は一日外に出て、まだ帰っていないので」 「ああ、仕方ないか」重要な用件はメールで済ますなよ。「ちょっと相談したいことがあってね、 今からウチに来られる?」 「今からですか?」……貞操の心配をする余裕はなさそうだ。「わかりましたが、ちょっと用事を 片付けてから行きます。なるべく早く終わらせますんで」 「わかったー待ってるねー、がちゃ」  もはや突っ込む気も起きない。血の匂いは駅の傍の細い路地から匂ってくる。それも薄暗く、 人が通らないような路地だ。見てみぬ振りをしてもいいが……。  ちょっと様子だけ見てみよう。匂いのする方向へ一歩踏み出そうとした瞬間、黒い影がそこから 飛び出した。 「……っ!」  女? 白い頬がおびただしい量の血に彩られている。 「待てやごらぁ!」その背後から響く理性のない怒声。 「っええい!」  その女はいったんこちらに向けた足を反対方向に急回転させ、コンクリートを打つ重い音を響かせて 走り去った。それを追おうとするのを遮るように数人の若い男たちが我先にと息を切らせて路地から 走り出る。私に気付いたものはいなかったが、全員何らかの手傷を負っているようだった。  そして彼らが出てきた場所からは低く小さい呻き声。そして、濃い血の匂い。  ったく、今日は仕事が多いな!  足を前に出すたびにパンプスがぐらぐらする。別にスーツでもないんだからスニーカーとかにして おけばよかった。 「どこいった……」  くそ、時間がない。終電はすでに皆を乗せて遠くへ旅立っただろう。 「タクシー代がかかるなあ畜生!」  私はつい先ほど、額をざっくり切った女の人がいたところまで戻ってきていた。彼女はもうここを 去ったようだった。血の匂いをたどってここまで来たが、彼女の血の匂いも混じってしまい、公園内 を走り回るハメになっていた。  いた……、女1人に大の男が6人?  女は完全に囲まれていた。私は足を止めない。近づくにつれ、血のにおいが濃くなる。女は左肩を 押さえていた。そこから強い錆の匂いが滲んでいる。  男の一人が私に気付いて声を荒げる。 「おお、姉ちゃん、ボコられてマワされたくなかったら消えろや」  その声に他の男どもがこちらを振り向く。若い。10代後半から20代前半、簡単に言うとチンピラ と不良だ。何人かはナイフやらメリケンサックやら物騒なもの持ってるなあ。  私は走るのをやめ、歩き始めた。さて、どうするか……  考えようとした瞬間に新しい呻き声がした。あ、ばか、 「うぐあああっ」  男どもが私に気を取られた隙に、女は手近な一人に飛びかかる。狙われた金髪の男の肩にはわずかな 月光を煌かせるナイフが深々と突き刺さっていた。 「てめえクソがあ!」  女の細腕でナイフを抜くヒマはなかった。反対側にいた男が獲物を振りかぶる。音もなにもない 非現実的な光景で、私にはドラマの撮影の一コマに見えた。  すがるようにナイフを掴んでいた手はするりとほどかれ、女はそのまま倒れた。黒い背中にそれ より黒い血が塗り重ねられる。彼女の背中を斬ったナタと言っていいような分厚いナイフから、 ぼたりと血が滴る。  まずい。あの刃渡りだと致命傷だ。  どうする。こいつら手加減なしだ。レイプどころか最初から殺す気だ。どうやって彼女を助ける?  肩にナイフを突き立てられた男が女の服に手をかける。2人がそれに参加し、残りの3人が無言で こちらに近寄ってくる。そりゃ見られた以上は口封じにどうにかするしかないだろう。 『ずいぶん落ち着いてるじゃない?』  どうやって彼女を助ける? どうやって? 『どうやって? あんたがそれを言うの?』  母親の声がした。私を嘲笑する、耳にたかるハエのような忌々しい声色。 『最初からその気だったくせに。血の匂いを嗅いだときから』 「……うるせえ」 『認めなさいよ。子どものケンカを見てるような気分でしょう?』 「だまれよ」 『そしてどうやって後悔と絶望を与えるか思案して愉しんでるんでしょう? だって』  私はとっくにバッグからナイフを取り出していた。 『あんたは私の娘だもんねえ?』 「っざっけんなクソババア!!!」  私は躊躇いなく自分の手首を切り裂いた。  気付いたら私は車内にいた。いつも助手席に座っているから後部座席からの眺めは見慣れない ものだった。  一定間隔に置かれた街灯の明かりが車内をかすめていく。血の気を失った女の顔を照らし、自分の 生白い腕を照らす。私は自分の血たちに話しかけてみた。しかし反応が薄い。みな一様に疲れた、と 言っている。  腕を持ち上げる。手首に走った赤い線は焼きごてを当てたかのようにびっしりとかさぶたで覆われて いる。  ……そうか、久々にやっちゃったな。 「気付いたか」  カーステレオの上にある緑のデジタル時計には「01:14」とある。 「……状況は」 「だるいなら寝てろ。お前んちに向かってる」 「大丈夫です。説明お願いします」  シートにこびりついた煙草の匂いはするものの、車内に煙はなかった。 「お前に電話で呼び出されたのが1時間前。駅の近くの公園って公園を探しまわってお前を見つけた のが20分前。見つけたときにはそこの子もお前も止血がしてあった。少し弱いが脈はある。命に別 状はない。これでいいか?」 「……チンピラは」 「あ? んなもんいなかったぞ。いたのはお前とそのゴスロリ女だけだ」  ……逃げ出してくれた? ならありがたいけど……くそ、気が緩んでるんじゃないのか、昔みたいな 無茶はもうできないんじゃないのかよ…… 「……すみません」 「説教は後だ。いいから寝てろ。回収できなかった血もけっこうあんだろ」 「……すみません」  私は再び目を閉じる。まぶたの裏には平淡な闇が広がっていた。  とめどなく溢れる粘着質の液体を、垂れるがままにしてバッグを漁り、四角い箱を取り出した。 指先がガタガタ震えて封を切るのに手こずった。動かなくなった肉塊の近くに落ちている、細長い 透明な板をがしがしこすり、酸味と甘みと塩辛さのどれもが混じった吐き気を催す匂い、それとは 明らかに異質な匂いを肺に思い切り吸い込んだ。そうすれば求めている何かが手に入ると信じて。  物音が聞こえて再び意識が戻りかけたときにおぼろげに見えたのはそんな不確定な景色だった。  再び目を開けると先輩が背中が露わになった女の子にジャケットをかぶせてお姫様だっこしよう としているところだった。 「降りろ。着いたぞ」  なんか無性にイラっときたが、血が足りないせいだろう。貧血で倒れる寸前だ、あの額に怪我 した人を笑えない。 「ま、近隣住民に見られないことを祈るだけだな」  うんまあ、言い訳できない。先輩のジャケットも、私の格好も、そこかしこに赤いものがこびり ついている。  エレベーターの扉が閉まると単調な機械音だけが辺りを支配した。私は先ほど目を覚ます寸前に 見た光景を思い出そうとしたが、わずかに残った余韻すら既に掻き消えていた。  先輩の前に立って部屋の前に行き、ドアを開ける。幸い誰にも見られず部屋にたどり着くことが できた。 「ああ、お前がヨミか。しゃべれないんだってな」  私も後を追って部屋に入り、後ろ手に鍵を閉めた。と同時に深いため息がひとりでに出た。 これで、とりあえず朝までは何も起きない。疲れた。 「で、これお前の趣味か?」  お前って、どれのことだ。顔をあげるのも鬱陶しかった。靴を脱いで鏡のない洗面所に行き、 左手首に気をつけて顔を洗う。それから傷口以外の血を落とした。でも染み付いたにおいはしばらく とれないだろう。それを思うとさらに気が滅入った。 「夕飯まだだろう。台所借りるぞ」  なんかいま声色と内容が一致しない台詞が聞こえた気がしたがどうでもいい。とりあえずベッドに ぶっ倒れたい。私は顔と腕を水に濡らしたまま洗面所のドアを開けた。  部屋の中央にどこから沸いたのか新たなゴスロリ少女がいた。 「……分裂したのか?」  アメーバかよ。わけわかんねえなゴスロリは。  が、よく見れば小さい方は明らかに私の小さな同居人であり、そしてその服は、他の服を収納する ため新しくカラーボックスを買ってまでしてクローゼットに厳重に封印した例の箱野郎のための商売 道具であり、決して別に私がそういうのを着たいわけではなくて、まあカワイイとは思うけど、でも そうじゃないの、なにこのゴシック天国。 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」  ああああああああああああああああああああああああああ……  一気に意識がクリアになり先輩が作ったまともな(!)夕飯を食べるぐらいの行動力を回復したが 頭の中には「あ」×nの断末魔がいまだに響いている。 「なんだこれ、なんて読むんだ……ショウリュウイン? ウリュウイン?」 「あああああああああああああああ?」 「お前さっきからあーあーうるせーぞ」 「すいません」  あ、止まった。ああああああああああああでも私の黒歴史がああああああ。 「だーらうるせっつの」  脳天にチョップが炸裂。すいません。  あーあー言っていた私が気付くわけもないが、先輩は襲われていた女の子の所有物を漁っていた らしい。女の子の持ち物を改めるなんて恐悦至極に存知奉る、じゃなくて士道不覚悟でもなくて、 ええとなんだ、あああああああああ、い、慇懃無礼? 違うちがう、ああ、無礼千万。この不届者が!!  ましかし状況が状況だ。今回だけは大目に見てやることにしよう。先輩の肩越しにちょいっと生徒 手帳らしきものを覗き込むと、そこにはなんかあんまりそこの人には見えない、どっちかっていうと こっちの方がかわいくね?と思うようなきれいな顔写真とその横の生年月日やら血液型やらの上の 欄にある「生柳院 藍」という文字。 「キリュウインじゃないですか? キリュウイン、アイ」 「んーまー読みなんざどうでもいいか。いいとこの子なのかね?」 「だと思いますよ。もしかしたら皇族につながってるかも」 「ほんとかよ」 「てきとーですよ」 「風祭高等学校……こっちは知ってるか?」  私だってこれでも高校受験を考えたことがある身だ。県内でも有名な私立高校だから一応どんな ところかは知っている。 「県内屈指の進学校ですよ。私立で、確か私服OKなところだったと思います。お嬢様かどうかは ともかく、それなりに裕福なとこの子でしょうね」  先輩は生徒手帳を閉じ、胸ポケットに手をやってから、そのキリュウイン?さんにかけてある ジャケットを引っ張って煙草を取り出して言った。 「煙草吸っていい?」  ふと、自分がいつもの調子を取り戻していることに気付いた。 「禁煙です」  ようやく、少し笑うことができた。 「しゃーねーな」  先輩はジャケットを掴んだまま立ち上がり、袖を通した。 「一服ついでに輸血セット持ってくる。抗血清は……いらねえかな。生徒手帳に嘘が書いてあるとも 思えんし。ああ、ユズ、お前抗血清持ってたっけ?」 「なんですそれ」 「……血液型判定に使う抗A血清と抗B血清だよ。血液型わからんと輸血できんだろうが」  血液型ぐらいわかりますよ、話せば  そう言いそうになって私は息をのんだ。 「初めて聞きましたよそんな専門用語」  言うと先輩はおおげさにため息をついた。 「まあいい、取ってくる。輸血は俺が見ててやるが、まだ寝るなよ」  そう言って先輩は出て行った。それと同時に机をコンコンと叩く音がする。ヨミがパソコンデスクに 座ってこちらにノートパソコンのディスプレイを向けている。 『なにがあったんですか?』 「うん、いろいろね……とりあえずもう大丈夫。ああ、ちがう大丈夫じゃない……」  あのくそ田代に連絡しないと……ああちくしょう、仕事が多いぞ石神ユズ。  田代さんは律儀に起きて私を待っていたらしく(後ろからキュートで可愛い声が聞こえていたのは 気のせいだろうきっと)、私は平謝りしてから事情を説明した。そういうことなら仕方ない、そっち も調査してみる、って田代さんそこまで頼んでないんですけど。  電話でざっくり聞いたところによると、例の携帯について「仕掛けて」きた生徒がいるらしい。 昼休みにどうにか時間をとって作戦会議をする、ということで落ち着いた。先生って昼休み外出られたっ け? まあ貴重な昼休みを削ってまで正義に尽くすその姿勢には若干の評価を与えなくもない。その後 ヨミに操作してもらって昨日私に送ったメールというのを見た瞬間に評価は一気に元に戻ったわけだが。  すぐにもベッドに落ちそうな脳みそを左右に振って維持しつつ、私は濡れタオルでキリュウイン さんの身体を拭いてやった。顔も拭こうとしたがタオルでは役割不足で結局メイク落としシートが 4枚犠牲になった。拭いている最中、ヨミを看病したときを思い出した。このキリュウインさんも たぶん数日ほどお風呂に入っていないようだ。まあ、別にクサイってほどでもないのだが、この姿 格好とはあまり似つかわしくない。ゴスロリじゃなくて確かゴシックパンクとか言うんだっけ…… ここまでファッションにこだわりを持つ人がお風呂に入らないってのはちょっと考えづらい。まあ、 大の男6人+αと流血沙汰を起こしている時点でワケアリなのは疑い得ないが。  とりあえず……  私はメイク落としシートをゴミ箱に落とし、タオルを洗濯機に放り込んだ。  とりあえず今日の仕事はこれでおしまい。  先輩がまた来るけど鍵は開けっぱなしだし問題ないだろう。  いろいろ考えないといけないことはあるよ、でもとりあえず今日の仕事はもう終わり。  フローリングにへたりこみ、ベッドの縁に背中を預けて少しだけ目を閉じる。再び開けると、 ヨミがじっとこちらを見ていた。 「……そうだ、ヨミ、髪きろうか? そのままがいいならそれでもいいけど」  ヨミは背中に垂れる自分の髪をつまんでから、ぱたぱたとキーボードを叩く。 『しばらく鏡を見てないから、見てから決めたいです』 「うん」私は緩慢に頷いた。「今度鏡買ってくるよ。切るのにも要るし」  意識が眠りに落ち込む寸前、かすかに煙草の匂いがして、何故かとても安心した。  おそらく気のせいだ。