K38 蒲生啓介 「ぅぉおおえあええあええええええええ」  田代さん……いい加減変態呼ばわりはやめようと思った……が救いを求めてイエスにすがるように洋式便器に取り付くのを片目で見やり、私は苦々しくため息をついた。  やはりスタンガンはやりすぎだっただろうか。いやしかし女の子の貞操を守るためであれば大抵のことは許されるような気がする。田代さんは気の毒なことに無実の罪でスタンガンの刑に処されたわけであるが、女の子の貞操のために反撃を躊躇うわけにはいかないのだ。何か、とさかとか飛び出しそうなぐらい痙攣している彼の背中を片手でさする。我ながら愛情とか慈しみとかがこもっていない手つきだ。しかしひとつドアの向こうで壁を叩く音がすると私は野暮ったい中年男性のことを一瞬で忘れた。  ちょいっとドアを開けて部屋の中をのぞきこむ。  まず目に入ってきたのは、あらわになったくるぶし。ほっそりした足首から上はレギンスできゅっとしぼられており、見慣れたデニム地のスカートの上にはふっくらとしたシフォンブラウス、手入れのされていないべらぼうに長い髪はくしゃくしゃで腰の下まで伸びているがそれもまた異国情緒というか、こう巷のかわいさの物差しとはまたひとつ違う趣があってそのギャップに胸の奥がきゅんっとなって一瞬胸の前で手を合わせそうになった。特にスカートが! スカートがいい! 私が履くよりずっとかわいい!! もしかしてスカート嫌いだったりしないだろうかとか考えて一個しか入れなかったのがバカみたいに似合ってる!  しかし。ここできゃあきゃあ友達感覚で接していいものか。まずは彼女を落ち着かせ安心させることこそが求められるのではないか、という理性が働いて私は辛くもいつも通りの営業スマイルを浮かべることに成功した。 「田代さんはちょっと具合が悪いようなので、今はトイレにこもってます。もう少しだけトイレは我慢してください」  言いつつ、いそいそと彼女の向かい側に座る。彼女は部屋の壁やら私の顔やらにちらちらと視線をふらつかせていた。視線に力があるように見える。まだ油断はできないが、とりあえずは大丈夫だろう。 「少しお話するくらいは出来そうですね。じゃあまずお互いの自己紹介を。私からね。まず名前は―――」  名前。その単語を口に出して脳が凍りつく。そうだ、名前を考えていなかった。いや下の名前はユズでいいんだけど、苗字! 苗字は?と聞かれて「ない」なんて言ったらこの子はどう思う? 社会的信用のない人間に対して警戒感を抱くこと必定である。ええと、苗字苗字、田代?? いや私は変態の妹になりたくはない、ええと、あれだ、この部屋の中にあるものから適当に……いやダメだ、サンセツコンなどという苗字は明らかにアフリカあたりを連想する。  にこやかな笑みを浮かべたまま、裏では顔に出ていないか相当に心配したが、よく考えればお昼に田代さんの同僚である水上さんに答えたものをそのまま使えばいいではないか。でも何か石神ユズっていやだなあ。石神ってなんか鈍くさそうな感じしない? こう、行動ゲージたまるの遅いっていうか、掃除当番でモップ持ってそうな印象。  という逡巡はあったものの、答えに詰まればこの子の不安感をつのらせるばかりであるし、偽名は統一した方が後々ヘンなところでボロを出さずに済む。というわけで私の名前決定。 「ユズ。石神ユズっていうの。仕事は一応、こう見えて医療関係やってるから、少しは信用してもらって構いませんよ」  目の前の素性不明の美少女は困ったような顔で私を見つめている。猫がどうやったら主人に構ってもらえるか健気に思案しているような顔だ。思わずむしゃぶりついて頬ずりしていい子いい子してあげたくなったが私は信頼に足る大人でなくてはいけない。我慢。 「彼……田代さんとは実は私も初対面なんですが、ちょっと仕事の先輩から頼まれごとがあって、それで訪ねてきたんです。あなたの体調が芳しくないから彼が医者を呼びに行こうとして、そこにちょうど私が来たんですよ」  もちろん刑務所直行の台詞があったことは伏せる。彼の面子といくばくかの罪悪感が真実を闇に葬った。 「とりあえず、軽く点滴みたいな栄養補給したんで、前よりは楽でしょう? でもまだまだ本調子じゃないから、しばらくは養生しないといけないけど」  女の子は初めて聞く御伽噺に聞き入るように心ここにあらずといった感じで時折うなずく。うう、ちくしょう、ちいさい。かわいい。我慢。我慢。事務的にことを進めてこのけしからん誘惑を振りほどかなくては。 「まず名前から書いてみて」  促すと、彼女はびっくりするほど緩慢な動作でペン太郎くんをつまみ、それからその下にあたる軸を持ち直した。  もう疲れが来たか? 確かにあの低血糖じゃいつ体にガタがきてもおかしくない。休ませた方がいいかもしれない。そう思ったが彼女は一度ペンを走らせ始めるとわりとしっかりした手つきで名前を書き、苗字が抜けていることに気付いて左端に書き加えた。  「海城ヨミ」メモにはまるっこい字でそう書いてある。ウミシロ? カイジョウ? それともミシロか? 聞こうかとも思ったがあくまで彼女、ヨミは病人だ。筆談でかかる負担はバカにならない。あまりたくさんのことを聞いてこれ以上体力を使わせるわけにもいかないので、勝手にミシロと解釈した。カイジョウだと自衛隊っぽくて強そうだし。  ともかく……聞かなければいけないこともある。ヨミを休ませるのはいいとして、その間に先輩に一度連絡をとらないといけない。私は簡単に、彼女がどういう事件に巻き込まれたのか、そしておそらく監禁されていたところから持ち出したであろう携帯電話について聞いた。  そう。Z404。悪い人から逃げてきた女の子と、その子が持って逃げ出した、件のゲームのフラッグと同じ機種の携帯電話。偶然で片付けるには少々怪しすぎる。  彼女は「話したくない」とでも言うようにちらりと私を見たが、意を決したようにペンを握りなおした。  うう、けなげだ。かわいい……  しばらく後に彼女が見せたメモ帳には、これまでの経緯が短く書いてあった。 「長い間とじこめられていたのでよく覚えていない。  目覚めたときに、いつも食事を運んでくる人がうたれて死んでいて、カギが開いてたからにげだした。ケータイはその人の持ち物からぬすんだ。110番のために」  長い間監禁されていたのはその髪を見ればわかる。しかしよく携帯に目をつけたものだと思う。普通何はともあれ逃げ出すだろうに、頭の回転のはやい子だ。  彼女を監禁していた組織で何らかのごたごたがあったのだろうか。これだけではよくわからないが、裸同然の格好であてもなく逃げ出したり怪しい中年男性の部屋に連れ込まれたり嘔吐したりぶっ倒れたり見ず知らずの女に質問攻めにされたりすれば混乱するのが当然でもある。やはりいきなり事の詳細を聞くのは酷だったか。 「うん。だいたいわかった。ごめんね、急に質問攻めにしちゃって」  私はメモ帳をテーブルの上に置いて、彼女の隣に膝をつき、肩に手をやった。びくっと体を震わせたのがわかる。私では想像もできないぐらいひどい目にあってきたのだろう。少しきつめに抱きしめた。 「もう大丈夫だからね。怖い人はもういないからね。大丈夫だからね」  腕の中でヨミはがたがた震えていた。先輩が私の前に現われたときのことを思い出す。先輩がしてくれたことを私も誰かにしなくてはならない。そして、自分の眷属を見捨てるわけもない。腕にいっそう力をこめた。  この子は私が守る。 「なんだか妙な話になってきたな」  田代さんを訪ねてからのことの顛末を電話越しに説明すると、先輩はそう呟いた。 「ええ……それで、あれ、やっちゃいました。すみません」 「ああ、その女の子にか。事態が事態だ、しょうがねえ」  先輩は長いため息をついた。受話器から煙草のにおいがしたように感じる。 「田代に事情は説明したか?」 「はい、ただその……電流のせいで」 「電流?」 「あまり気にしないで下さい。因果応報というやつです」 「あそう」先輩はあまり興味もなさそうに受け流す。「何があったか知らんが、生きてはいるんだな。なら昨日話した通りやつが動き出したらそれにくっついてまわって、情報だけ集めてくれ。それで、その子はどうするんだ?」  そう、ヨミをどうするか。選択肢は3つ。1つ、このまま田代家に預ける。これは猛獣のオリに生肉を放り投げる行為に等しい。2つ、放り投げる。何も見なかったことにして警察に突き出す。社会人として真っ当な行為ではあるが、私は血の通わない人間にはなりたくない。  3つ。 「私が引き取ろうと考えています」  ヨミを見捨てる気はさらさらない。 「できるのか? 犬猫と同列にゃ扱えんぞ」 「できるできないじゃありません。やるんです」 「ああそう……ま、好きにしろ。少々怪しいし、目の届くところにいてもらった方が都合もいい。食費はお前が持てな」 「……必要経費で落ちませんか」 「女一人の食費でガタガタ言うな」  電話を切って寝ているヨミを見やる。さっきはどうも寝たフリだったらしいが、今は本当に寝ているらしい。この短時間で寝たフリの技術を革新的に向上させているなら話は別だが。 「とりあえず寝たフリはやめてもらえませんか」  無反応。声の先で横になっている人影はこんこんと眠っている。  ‘血読み’をしたのはかれこれ3年ぶりだろうか。  先輩に会う前、つまり私がまだ自分の名前を持ち、家族というカテゴリに収まっていた頃。真っ当に学校に通い、それなりに友人もつくり、社会の中に溶け込んでいた頃。当時の私は、擦り傷に絆創膏を貼ってあげるぐらいの気持ちで‘血読み’を行っていた。父親にも行っていたし、怪我した友人にも行っていた。もちろん、それが奇妙でうさんくさくて、言ってしまえば新興宗教のように白眼視されるようなものであることも自覚していたので、中学に上がった頃からは施術対象を選ぶようにはなっていた。  先輩に連れられ、ファミレスで何ヶ月かぶりのまともな食事を摂っているときに「何か特技はあるか」と聞かれたときも、私はだいたいそんな内容を、ぼうっとした頭で話した記憶がある。 「それは使うな」  先輩はかなり強い口調で、ほとんど初対面の私に言い放った。 「使えば使うほど、お前は人でなしになっていく。いいか、人であるためには突出しちゃいけないんだよ。平々凡々でないといろいろと面倒に巻き込まれる。能ある鷹が爪を隠すのはそういう面倒に辟易してるからなんだ」  それ以来、私は‘血読み’をしていない。先輩の言うことはもっともだったし、悪く言えば金づるである先輩に見捨てられたら、私は再びあてもなく誰もいない街を彷徨うことになる。  ‘血読み’ができなくなったのだろうか?  そうでもないと思う。私の血は私の言うことを忠実に聞いてくれた。相手の血液の助けを借りずに全身に糖分をまわすなんて器用なことは今までやっていなかった。それができたのだから、私の‘血読み’の能力がなくなった、というわけではなさそうだった。  ではヨミが特別なのか? それはわからない。だが少なくともヨミは誰かに監禁されるいわれのある人間ではある。その理由がなんなのかは、まだ体が本調子でない彼女に聞くのは時期尚早だった。そもそも、彼女がそれを知っているかどうかもわからないのだ。  とにかく……ヨミのことは置いておくとして、仕事だ。「吸血鬼」の調査。これは私がどうこうできる話ではない。田代さんが動いてくれないと話が進まないわけだ。しかし……なんだって先輩は彼のような人をアテにするのだろうか。正直、あまり信用できる人ではない。というのは別に裏切られるとかてごめにされるとかそういう話ではなく、単に彼には荷が重いように見える。見かけによらず意外と腕っぷしは強いのか? でもこんな小娘にスタンガンかまされるようでは、果たして調査が進むのかどうかも怪しい。  出口の見えない考え事をしていると、田代さんが外から戻ってきた。コンビニ弁当が入った袋を手に提げている。電流のダメージはそれなりに回復したらしい。 「田代さん、この子……ヨミのことですが、どうなさるおつもりですか?」 「どうって……」コンビニ弁当をテーブルの上に置いて、彼は無精ひげに手をやった。「確かに、女の子を家に置いておくっていうのもちょっと、正義に反するというか」 「私が引き取りましょうか? 女同士ですし、幸い、二人ぐらいならなんとか住めるぐらいの部屋を借りていますから」 「それは助かる! お願いしていいかな」  田代さんはぱっと声をあげた。まあ、そりゃあ、彼女もいないであろう独身中年男性がこんな一番扱いづらい時期の女の子と一緒に住みたがるわけもない。 「その代わりというわけでもないのですが、先ほど話した『吸血鬼』の件について、調査していただけませんか。石神は、田代さんに話せば調べてくれると言っていました」  田代さんは急に神妙な顔つきになって、重々しく頷いた。 「それが正義の為であれば、もちろん喜んで協力するよ。でも手がかりらしきものが何もないとなると……やっぱりその子に聞かないと」  確かにそれはそうだ。結局ヨミの快復を待つしかないのか。 「それでね、これ買ってきた」  田代さんがコンビニの袋の中から取り出したものは、ハンバーグ弁当ではなく、携帯の充電器だった。 「何か手がかりがあるかもしれない。無駄かもしれないけどやるだけやってみよう。それに携帯の電話番号がわかればそこから持ち主がたどれるかもしれない」  田代さんがコンビニ弁当に向かっている間、私はヨミが持って逃げてきたZ404に充電器をぶっ挿して中を調べた。  しかし残念なことにそこから出てきたのはごく普通のアドレス帳のみで、メールに至っては受信・送信ともに一件もなかった。登録されている番号が会社だったり明らかにおっさんの名前のものだったりで、それが個人の携帯電話ではなくおそらく会社か何かの組織から支給されたものであるらしいということしかわからなかった。 「……だめですね、どうも会社から支給された携帯ってことぐらいしか」  言うと、田代さんは箸を止めて、手を差し出した。充電中の携帯を渡すと、彼は行儀よろしくなく箸を使いつつ左手で携帯をいじくりまわした。なんだこのヤンキー中年。 「……ちょっと、この」くちにものを入れたまましゃべるな。「会社の名前、ネットで調べてみて。そこのクローゼットのどこかにサブのノーパソあるから」  言われるままにクローゼットを開ける。見事にスーツしかない寂しいクローゼットだったが、確かにそこには分厚いノートパソコンが埃をかぶっていた。引っ張り出して電話の線がつながっている箱……確かモデムっていうんだっけ……からさらに伸びている線をゲロ爆撃で沈黙したノートパソコンから抜いて、旧型ノートに繋ぐ。起動にしばらくかかった後、インターネットで携帯電話に登録されている会社名をひとつずつ調べる。 「どれか一個でもヒットした?」  割り箸をプラスチック容器の上に放って、田代さんは言った。 「……いえ、ひとつも」 「やはりね。その携帯、‘悪’のにおいがする」  悪ってなんだ、悪って。 「たぶんその会社名は全部ニセモノで、何らかの悪の組織の連絡先なんだろうね。とはいってもそこから直にたどれるわけでもないけど……」  ……私は目を丸くしていたと思う。なるほど、よっぽどの零細企業でない限り、HPのひとつぐらい持つはずだし、その取引先全てがHPを持たなかったりインターネットに名前が出ないなんてことはまずありえない。この男……できる。変態だけど。 「さて……ならその番号のどれかに電話かけてみるかな。でもこのへん公衆電話ないからなあ。後回しにしようか。そういえば石神さんは元気?」  え、私? 元気ですよ。  ではなく……先輩のことだ。ううむ、慣れない。 「あ、はい」答えてから、ひとつ気になっていたことを聞く。「そういえば、詳しい話を聞いていないのですが、先輩とは、どういったご関係で?」 「うん?」田代さんはペットボトルのお茶を一口飲んでから答えた。「前に、悪の組織と戦ったときにちょっと協力してもらったんだよ。それからちょくちょくこういう‘悪’に関する情報を流してもらっている、ってところかな」  だから悪の組織ってなんだ。もちろん口には出さない。めんどくさくなることが見え見えだった。  しかし……彼、田代さんは知っているのか? 私や先輩の仕事はあくまで法律違反の後ろ暗い稼業で、正義か悪かと問われれば真に遺憾ながら‘悪’に分類されてしまうはずだが、彼は知った上で先輩に協力しているのだろうか? しかし田代さんに聞くわけにもいかない。怪しまれるのがオチだ。  後で先輩に聞いておかないと……そう思っていると携帯の呼び出し音が鳴った。田代さんがポケットから携帯を取り出し、開いてからすぐ閉じた。  私か? バッグから取り出す。LEDは沈黙したままで、誰からも着信がないことを告げている。  つまり。 「……どうします?」  田代さんは、充電器が挿してあるZ404を腕を組んでにらみつけていた。