K20 蒲生 啓介 「お断りします」  切り捨てるように言い放った相手がいる場所に後から向かうのは気のいいものではない。 見られたらどうしよう、実はやっぱり興味あったんじゃないかとか思われたらもう腹立たし くて仕方ない。なによりそういう心配で頭をいっぱいにさせられるのが一番困る。  がしかし、先輩には会わなくてはならない。「時間厳守」最初に言われたのがこれだ。遅 刻したら何を言われるかわかったもんじゃない。  少し薄暗くなってきた。元気いっぱいの高校生や背中をまるめたサラリーマンがどかどか と駅に集まる時間だ。そこに向かって私は歩かなくてはならない。  嗚呼。めんどうくさい。肩のバッグをかけ直し、三歩歩いたら携帯が鳴った。誰だこのや ろうと思ったら先輩だった。 「中止ですか? 煙草ですか?」 「……」  電話の向こうで先輩がへの字に口を結んでいるのがありありと浮かんだ。後ろからはがや がやいう声が聞こえている。駅前か、ともかく人が多いところのようだ。 「よくわかったな」 「今の時間に先輩が言うことなんてその二つだけですし」 「つーか中止じゃねえ。場所変えるぞ。ゆとり教育がテーブルひっくり返していきやがった。 こんなとこじゃ仕事の話なんかできねえからな」 「できませんか?」先輩がそんな繊細な人とは思えない。 「……できねえよ。向かってるんだろ? いつものとこまで来い、のっけてやる」  わかりました、と言うなり電話は切れた。  めんどうくさい。しかし不安の種がひとつ消えたためか、足取りはさっきよりは軽かった。  先輩……私に血液販売業のノウハウと一部のシェアを譲ってくれた人。行くあてもなく、 ネットカフェのナイトパックで少ない所持金も削られていき、そろそろ野宿デビューかとい うところで私を拾ってくれた恩人。  今でもよく覚えている。コンビニから洩れる明かりの下、駐車場の車止めに座って空腹を 耐えていた。胃の中はからっぽのはずなのに、油断したら何かを吐き出しそうだった。こん なに苦しんでいる自分がいるのにカウンターの奥で雑誌を読んでる店員のおっさんがあくび 一つするたび胃が燃えるように熱くなり、そういう自分が情けなくもあった。  手には護身用のナイフがあった。真っ黒な刀身の折り畳み式ナイフで、蛍光灯の明かりに かざすと木目のようなきれいな縞模様がわずかに見て取れた。ナイフを触っている間はいく らか気が紛れた。吐き気もおさまり、何も考えていなさそうなまるまると太った大人が前を 歩いていても気にならなくなった。  いま思えば、コンビニに入って「すみません、お金がなくて1週間ほど何も食べていない んです。賞味期限切れの食べ物でよいので、捨てたと思って何か恵んでくださいませんか」 と言えば、店員のおっさんは何かしら恵んでくれたとは思う。憐憫の情か、義務感か、面倒 を避けるためか、どれかは知らないが菓子パンのひとつくらい放ってよこしただろう。私で もそうする。だがそのときの私は――あまりの空腹で頭が逆回転していたのかもしれないが、 そういう打算を働かせておきながら実行に移す気は微塵もなかったのだ。ポケットのナイフ でコンビニ強盗する方がよっぽど現実的だった。本気でそう考えていたのだ。何故か。当時 の私にも今の私にもそれはわからない。おっさんに恵んでもらうという選択肢は、いるかど うかもわからない親類が自分を迎えに来るというのと同じぐらい現実味のない話だと、私は そう考えていた。  とはいえコンビニ強盗するよりはミスドの裏のゴミ捨て場でドーナツ略奪するほうが現実 的だったので、私は手でもてあそんでいたナイフの刃をしまい、ジーンズのポケットに戻した。 「そのナイフいいな」  煙草のにおいがした。声のほうを振り向こうとする前に、鼻先におにぎりが差し出された。 「お前、いい趣味してるよ」  思えば、まともに人の声を聞いたのは実に1ヶ月ぶりだったのだ。堰を切ったように嗚咽 があふれ出して、私は目をつぶらずに、拳を力いっぱい握り締めて、目から水が落ち切るの をただ待っていた。  と、一通り昔のことを思い出したところでいつものとこである駅についた。駅のロータリー には誰かを迎えにきた誰かの車がずらりと並んでいる。見慣れた藍色の軽自動車はなかった。 渋滞に巻きこまれている、とも思えないが。  しばらく人ごみの中で棒立ちになって、いい加減電話しようかと思った頃に、私の目の前 でせわしないブレーキ音とともに車が止まった。窓ガラスを二度たたく。カギの開く音がし なかったので勝手にあけて助手席に乗り込んだ。 「たばこくさいです」  無精髭に短く刈り込まれた髪、細くてガラの悪い目つき。煙草をくわえていない時の方が めずらしい。 「当たり前だ、俺の車だからな」  煙草をくわえたまま先輩はそう言って、口の端から煙がもれた。 「時間厳守じゃなかったんですか? 10分遅刻ですよ」 「急迫不正の侵害ってやつだ。こういう場合は許される」 「……どこ行くんです?」シートベルトを締めながらつぶやく。 「俺んち」 「……こんな若い子つれこんで何する気ですか」 「仕事の話にきまってんだろ」 「ていうか先輩の家いきたくないんですよ。足の踏み場ないし」 「作れば問題ない」 「作るのは誰ですか」 「お前」  ため息をつこうと息をすいこんだら、むせた。  車中にいたのは10分ほどだったが、服にはすっかり煙草のにおいが染み付いて、肺の壁 にもべったりとタールがへばりついた、と思う。おかげで気持ち悪くて仕方ない。  適当にどっかよけて座れ、と言われたものの、明らかに半年以上干していない布団の上に はハンガーにつるしたままのYシャツが折り重なっているし(この人どこで寝てるんだ?)、 床にはコンビニ弁当のプラスチック容器が詰め込まれたビニール袋が所狭しと並び、お茶と コーラの1.5Lペットボトルが猫避けかよと言いたくなるぐらい大量に放ってある。どっか 避けるのはわかったから、避けたものを置く先をくれ。  とりあえずゴミ満載のコンビニ袋を持ち上げて、別の袋の上に置いてみた。  ころころ転がって元の位置に戻った。  落ち着いて別の袋を持ち上げて、ゴミ満載のコンビニ袋の上に置いてみた。  別の袋の重さでゴミ満載のコンビニ袋が床を滑り、空いたスペースは塞がった。  私は「普通のゴミ袋」を探しに行った。  良心の呵責を伴う奥義「分別しないでゴミ袋直行」のおかげでなんとか人間のいる部屋の 様相を取り戻した先輩の部屋で、私は30分前に先輩が淹れてくれたコーヒーをずずずとす すった。ぬるい。  先輩はパソコンデスクに肘をついて、私の勤務報告書を読んでいる。 「はい、ごくろうさん」  そう言って報告書を机の上に放り投げた。明らかに使われた形跡のない雑巾で私が必死こ いて磨いたスペースだ。 「なんかないんですか。感想とか注意点とかアドバイスとか」 「いつも通りすぎて読むのも退屈だった」  そうなのだ。基本的にこの人は私の勤務報告書をじっくり読んだりはしない。まともに見 ていないのか読むのが早いのか、たいていこんな感じで、車の中で読めば済むだけの話なの だ。先輩はパソコンに向かってかちかち何かをいじり、キャスターつきの椅子ごと机から離れた。 「これ見てみ」  私はコーヒーを飲み干し、立ち上がってディスプレイを覗き込んだ。メモ帳が開いていて、 そこにはこう書かれていた。 『次の満月の夜、その携帯に掛かってくる電話を取ったものに、私の知りえたとっておきの 秘密と、少しばかりの賞金を与える』 『携帯を手に入れた人物は、その時点で必ず一度、携帯からウェブサイトで名乗りを挙げな ければいけない。ただし本名でなくてもいい』 『携帯の収受には超法規的手段が許される』 「……なんですこれ」 「俺の情報屋からのタレコミ……つってもそいつはハナから笑い話にしてて、与太話のひと つとして聞いたもんだが。奴はここら一帯の裏情報についちゃあ一番詳しいし、歴も長い。 事のうさんくささはともかく、そういう話があるってことだけはまず事実だろうと思ってな、 調べてみた」 「だからなんなんですこれ。何かのゲームのルールみたいに見えますけど」 「要約するとだ」先輩はため息のように煙を長く吐き出した。 「あるウェブサイトでトトと名乗る人物がこう言った。この町に携帯をひとつ流す。次の満 月の夜にその携帯に電話をかけて、それをとった者に、ある秘密と少しばかりの賞金を与え る。そして困ったことに、その携帯争奪ゲームには超法規的手段を推奨しているわけだ」 「よくあるイタズラじゃないですか」 「よくあるか? まあイタズラだろうってのは真っ当な意見だが……」  先輩はドクターペッパーをむりやり飲まされたような顔で煙草の火を消して、新しく一本 取り出して火をつけた。 「この少しばかりの賞金の額だが……424万8千円」 「やけに細かい額ですねー……っていうか多い!!」せいぜい温泉ペアチケットが関の山だろう!?  先輩は煙草を口から離して大きくため息をついた。 「お前……1セット1リットルいくらで売ってる?」 「え? そりゃお客さんによって値下げしたりしますけど……基本は先輩に言われた通り」  先輩がこちらをうんざりしたような目で見る。私は目を丸くしていたと思う。 「42万4千800円」 「その額はここらの販売業者のカルテルで決まってる定価なんだ。10倍なのは今ひとつイン パクトに欠けるからだろうな。100倍だったら受け取りにも困るだろうし。もちろん、ただの 偶然ってことも考えられるが……絡んでるやつの中に『吸血鬼』ってのがいたとしたら、どうする?」 「……ちょ、ちょっと待ってください?」  額に手をやった。なんか、それってすごくまずいような気がするが情報が断片的すぎてわ からない。先輩は「ふむ」とあごに手をやった。「もう少し詳しく説明したほうがいいか?」  私は無言で頷いた。 「さっきの待ち合わせのファミレスで、参加者同士で早速ひと悶着あってな、そこでのやり 取りで『あんたらも吸血鬼どものイヌなのか』って言葉があった。『吸血鬼』を代表とする グループを指すのか、『吸血鬼』どもを指すのか、ここからじゃ判断できん。が、いずれに しても『吸血鬼』と名乗るもしくは形容される輩がこの424万8千円の争奪戦に一枚かんでる」  先輩は灰皿に煙草をとんとん叩きつけながら、天井を見上げていた。 「で、少なくともトトってやつは俺ら血液販売業者のことを知っているとみえる。そしてそ いつのゲームに参加する『吸血鬼』。とくると、一番クサいのは客観的に考えれば……」 「血液販売業者……に、なっちゃいますね」 「どうする?」 「……とりあえず、天を仰ぎます」 「残念だがお天道様は何もしてくれやしないぞ、特に俺らみたいな日陰者にはな」  ネットで広まった携帯電話争奪ゲーム。優勝者には賞金として血液10リットル? じゃな くて、私たち血液販売業者のことを知っている人間が、刃傷沙汰を奨励しながらそんなアホ くさいゲームを開催している。どこの誰が刃傷沙汰の被害者になろうが加害者になろうが 知ったことではないが……。 「他の業者たちはなんて? もし警察沙汰になったら私らも危ない」 「言ってねえ。『吸血鬼』が誰かもわかってねーんだ。一人なのかも複数なのかもな。仮に 『吸血鬼』が血液販売業者だったとしたら、下手すれば消されかねん。その上、たかだか 500万足らずの金でこんなうさんくさいゲームに参加するような奴らじゃねえ。となるとだ、 『吸血鬼』が動く理由はなんだ?」 「とっておきの秘密……それを知ること。いえ、どちらかと言えばそれを知らせないこと」 「そうだ。そうなんだが……最初は業者の誰かが顧客情報を漏らしでもしたかと思ったが、 そんなんお客さん方に侘び入れてすぐ対策すりゃあ、信用なくすがなんとかならんでもない からな。とりあえず今のところ、その『吸血鬼』は血液販売業者ではない、と踏んでる」 「根拠は?」 「俺らみたいなのは肩寄せ合って日陰にこもってないと日向の日差しに焼かれちまうからだ。 みんなそれをわかってる。日向者にも日陰者にも一定の秩序は存在するのさ。それを壊すの はいつだって」先輩は自分を落ち着かせるように煙を吸う。「空気の読めない馬鹿だ」 「……静観を決め込むというのは? イタズラの可能性だって捨て切れませんよ」 「トトとやらがどれだけ本気なのか様子見てみるつもりでな、ファミレスにノーパソ持ちこ んでたんだが……野郎、ファミレスでの騒動をリアルタイムでネットに流しやがった。奴さんの 手は相当長いぞ。俺の顔も割れたと見ていい」  駅に来るのが遅かったのはそういうわけか。 「で、だ……この件を調査してもらう。放っとくのも物騒だ。情報だけでも集めておきたい」  調査? 私は探偵か? 「無理言わないでくださいよ。けっこうヤバめなのはわかりましたが、戸籍もない身寄りも ない女の子が何できるってんですか」 「だからこそだよ。戸籍もない身寄りもないなら奴さんの手がどれだけ長くても調べるのに 時間がかかる。顔も割れていない。加えて握れる弱みもない。お前以上の適任はいないし、 他の販売業者が信用できない以上、お前以外頼れるのがいないんだよ。お前の割り当ては俺 が代わりにやっといてやるから心配すんな。もともと俺の客だしな」 「いや適任ってのはわかりますがですからどうしろと」 「やってもらうことはひとつだ」  先輩は引き出しからテレビのリモコンぐらいの細長い煙草の箱を取り出した。普段見かけ ない銘柄だ。「俺の知り合いに変態紳士がいる。そいつに会って事の顛末を伝えれば、後は 勝手に調べ始めるだろう。奴は変態だが正義の味方でもあるからな」  そう、変態紳士……。 「あのすみませんもう一回言ってもらえますか妖精が耳元で五月蝿くて」 「気持ちはわかるが冗談でもネタでもない」さえぎるように言う先輩の口調はどこか投げや りだった。「行きゃわかる。奴は変態だが紳士だし、変態であるが故にお前の貞操だけは間 違いなく安全だ。安心していい」 「……精神的貞操は?」 「すまんが間違いなく喪うだろうな」  私はまだ純潔でいたいのだが。 「こいつを持っていけ。ジョーカー20年分買い溜めした煙草喫みなんてさすがに俺ぐらいだ ろうし、信じてもらえなかったら『石神の使いだ』って言えば通じる」  先輩が差し出した妙に長い煙草の箱を受け取る。ああ、バッグの中が煙草くさくなる。 「……先輩、いつから石神になったんですか」 「ハンドルネームだよ。直接会ったこともあるんだけどな……お前、名乗らなくて済む状況 で変態紳士に率先して名乗りたいか?」 「名乗らなくて済むなら私はA子でいいです」 「よろしい。そいつ昼間は高校の先生やってるから。場所はメールで送っとく。あとはそい つにくっついて回って、何が起きてどうなっているか情報だけ集めて俺に教えてくれりゃいい」 「はいはい……明日か明後日にでも、さっそく尋ねてみます」  部屋の片付けと妙な話のせいでやたら気疲れしていた。のっそりと立ち上がり、お暇しようと バッグを肩にかける。 「ユズ」  首だけ振り向くと、先輩はじっとこちらを見ていた。いつもの厭味な目ではなく、まるで 私の向こうの壁を見ているような淡い目をしていた。 「軽率なことはするなよ。お前一人で何とかなりそうでも、一旦俺んとこに戻ってこい」 「……はい。私だってなるべく疲れたくはないですから」