K10 蒲生 啓介  血液販売業者。血液を仕入れ、売却することで利益を得る者たちのことである。  当然、今の日本には愛の献血制度があるため、市場に流れる血液は基本的に法の加護を受けていない。消費者だって大抵はワケアリである。  しかしながら需要は確かにある。売血制度が廃止され、消費者は手軽に血液を入手できなくなった。自らが動いて「血液が必要な何事か」を表沙汰にするわけにもいかない。そこで消費者のかわりに仕入・販売を行う信頼できる仲介者が必要とされるのである。  以前、自分のシェア(販売網、要するにお客さん)を一部私に譲ってくれた販売業者に聞いたことがある。背が高く、話すときに私を見下すような目をする、どこか厭味のある人だった。 「いいか。この仕事で大切なのは客を見極める目だ。そいつが本当に、心の底から血を欲しがっていて、俺やお前しか頼る先がないような客だけを相手にしろ。何に使うかまで聞く必要はないが、できればそれが自分以外の誰かのためだったら最高だ」  15歳だった私には何のことかさっぱりわからなかったが、要するに新規開拓はするなってことかと聞くと先輩は呆れた顔でそっぽを向いて、まあそうだな、と付け加えた。  今月分の仕入を済ませた後、特に急ぎの注文もなかったから久方ぶりに献血に行った。  愛の献血。商売敵というわけではない。これのおかげで私たち業者の商品にプレミアがつくわけなので、むしろ大切な仲間である。献血は日頃お世話になっているお礼。「自分の血は売るな。売るぐらいなら献血してこい」これも先輩からの言いつけである。  年齢の関係上まだ200mlしか抜けないので、すぐに終わった。終了ですよ、と言って針の後始末をする看護婦さんの向こうで、ベッド備え付けのテレビを見つつのんびり無料の飲み物をすすっているおじさんが羨ましい。ちくしょう、私もいつか成分献血してやる。  血を抜き終わると少しの間待合室で待たされることになる。終了後の諸手続きもあるし、水分を取らせて安静にするためだ。献血者交流ノートのいかにも高校生っぽい書き込みをだらだら読んでいると、後ろから耳をつんざく嬌声が飛んできた。女子高生4人組がきゃあきゃあ言いながら後ろの席に陣取る。第一女子の制服だった。受付のきれいなお姉さんが献血手帳を持ってきてくれた。  無料の飲み物をがぶがぶ飲み、無料のお菓子をむさぼるだけむさぼって、献血ルームを出た。そこでばったり見知った人に出くわす。切り揃えられた肩までの髪が印象的な、背の高い痩身の女性。山岸さん……お客様だ。 「あ……どうも、いつもお世話になっております」 「こちらこそ、いつもありがとうございます」  完璧な営業スマイルでもって応対する。「客の前では偉そうにしておけ」これも先輩の言いつけだ。そしてもうひとつ、二番目に大切なこと「客と親しくなるな」。私はさっさとその場を切り上げようとしたが、山岸さんは口を開いた。 「献血……なさるんですね。意外でした」  まあそりゃそうだ。 「まあ、後ろめたさもあり、でしょうか。趣味みたいなものです」  私はさっさと話を終わらせたかったが、あいにく山岸さんは私の最初の客で、そして私の客の中ではかなりの「いいお客さん」なのだ。いつもニコニコ現金払い。ついつい相槌を打っていると、決まり文句が飛んできた。 「立ち話もなんですから、どこか入りませんか?」  脳裏に先輩の厭味な顔がよぎる。先輩、まだまだあしらいが下手なようです。  山岸さんはわりとおっきいお宅に住んでいらして、短く刈り込まれた緑の庭では首輪のついていないシェパードがごろごろ転がりまわって遊んでいる。月の終わりに山岸さんを訪ねるとき、そのシェパードと一緒になって転がりたい欲望を抑えるのが最大の困難だった。ご主人のお顔は拝見したことがない。いるだろうが、それっぽさが感じられない。靴置きに革靴と靴ベラがなかったり、応接間に灰皿がなかったりと、そういうことだ。  もちろんご主人のことを聞いたりはしない。先輩の言いつけの意味がほとんどわからない私でも、トラブルの元になるのはさすがに理解できた。 「でも、安心しました」  スタバやドトールとは違う、コーヒー一杯が4桁になるようないけ好かない喫茶店で、山岸さんは言った。 「ご自分のものは売り物にされないんですね」  そう言って、薄く紅の入った唇で笑みを浮かべた。それが一瞬舌なめずりに見えた。あれ、何でびびってるんだ私。 「ええ、もちろんです」  言ってから気がついた。先輩の「自分の血売るな、献血行け」の意味がようやくわかった。それは、確かにそうだ。 「自分の食事もままならないシェフなんて、料理に何を混ぜるかわかったものではありませんからね」  昔、今のように献血制度がしっかりしていなかった時期、売血制度でもって血液を集めていたらしい。そのとき、短期間に何度も血を抜いたために赤血球が極端に少ない「黄血」が出回ったそうだ。衛生面での問題は私は知らないが、商品としては確かに三流以下だろう。そして、そんな切羽詰った人間と秘密を共有したがる人がいるわけがない。たぶん先輩はそういうことを言っていたのだ。 「こういった仕事はお客様の信頼が第一ですから」  私は何を当たり前のことを……と自分に暗示をかけて言い放った。親から見放された17のガキが生きていくためには、自分が強くなるしかないし、なれないなら、強く見せるしかない。  付き合ってやろうじゃないか。ぼろ出すのがこわくて逃げ出したなんて思われたらなめられる。これもお仕事……!  私は腹を決めて、4桁のコーヒーを飲んだ。うまいかどうかはわからない。 「疲れた……」  気合を入れてはみたものの、後に続いたのはごく普通の! ごく普通の例えばスーパーで近所のあんまり親しくもない若奥様方とばったり会ったときの井戸端会議でちょっとネタに困ったときに出される会話と大差ないものばっかりだった。すごく疲れた。思い過ごしだったかもしれない。  でもああやって何でもない風を装ってこちらの出方を伺っていたのかもしれないと思うと、2時間に渡る私の辛抱も無駄ではなかったかもしれない。でも疲れたからさっさと先輩に会って帰るべ。  こういう仕事を生業としている以上、付き合いのある同業者がしくじるとそこからのネットワークが一網打尽にされるおそれがある。まして私はまだまだ新米、事業報告を月イチで先輩に報告し、先輩は簡単な指示を出して面倒を見る。それが、私が血液販売業者になるための、お客さん方から出された条件だった。 「ねえ、ちょっといいかな?」  不意に後ろから声をかけられた。「知らない奴はまず疑え」先輩の言いつけが脳裏をよぎる。 「はい?」  警戒心を見せないように最大の警戒を払って振り向くと、背の高い、長い黒髪の女性がこちらを見ていた。……なんか、キャラかぶってないか? しかも私より頭ひとつ分背が高い。170はあるよな。うわ、なんかむかつく。 「いいバイトがあるんだけど……どうかな? 話だけでも」  そう言って、名前も知らないお姉さんはこちらの警戒を解くようににっこりと笑った。少し息が切れている。急いでいるのだろう。 「今日さんざ声かけまくって、とりあえずあなたで最後なんだけども……どうかな、説明してる暇はないし、興味があったら駅前のファミレスに来てほしいんだけど……場所わかる?」  喉まで出かかった声を飲み込む。戸惑っているフリをすると、彼女は先を続けた。 「時間はあまりとらせないよ。話だけ聞いて断ってもらってもかまわないし……実際、仕事の方もそんな何日も拘束するようなもんでもないし……」 「それは」私はきっぱりと言った。「戸籍がない17歳でも雇ってくれるような仕事ですか?」  彼女は一瞬言葉を失ったが、しばらく考えた後で「うん。問題ないよ」と答えた。  返答はそれで決まった。 「お断りします」  彼女の姿勢は、一見怪しく見えるがとても誠実で、信頼に足るものだった。怪しいということを自分でわかっていて、それでも信じて欲しいというメッセージが表情や目線や身振り手振りから伝わっていた。でも私は、それこそが人を自分の思い通りに動かす秘訣であることをよくよく知っていた。自分の母親がそうだったし、先輩もまたそうであったからだ。そこに、同業者のにおいを嗅ぎ取った。  仕事内容には興味があったが、その気になっても困るし、私は「失礼します」と言い残して彼女に背を向けた。追ってくる気配はなかった。本当に急いでいるのだろう。  数歩歩いて気づいた。  やっべ。今日の先輩との定例会って駅前のファミレスじゃん。