J9 サリー  帰宅を促すチャイムが鳴り、心ある生徒はすでに帰り支度を始めているだろう時間。  太陽は面倒臭そうに半分だけ地上に顔を出し、店じまいを告げている。  そろそろ暗くなると告げられたからではないだろうが、窓から見える家々の間で、安 心するには物足りない明るさの電燈が、途切れ途切れに灯り始めた。  田代正志は職員室の窓からそれを眺めながら、苛立たしげに舌打ちした。早朝やって いるセーラー服の戦士が戦うアニメを録画したものの、二日連続で見過ごしているので 続きが気になって仕方がない。 「勇気ある乙女に、桜もかなうまい……」  実に季節にあったセリフだと、改めて確信する。あれこそ紳士の鏡だと。  何が変態だ。陰ながらに乙女を守る素晴らしい男に向かって。自分もああでなくては。 「田代先生」 「はい!?」  アニメに気をとられていたせいで、後ろから近づいてくる誰かに気づかず、田代は少 少間の抜けた返事をし、慌てて振り向いた。  地味な服を着た、年齢の割に幼さを残す女性――教諭の水川ひなた――が疑問符を浮 かべている。おそらく、田代の態度に対してだろう。  彼は気まずさをごまかすために小さく咳払いをして、尋ねる。 「……水川先生。どうなさいました」 「お先に失礼しようと思いまして……」 「あー、はい。わかりました」  何やってるのと聞かれないことに内心ほっとしながら、返事をする。しかし、彼女が 帰ってしまうということは、最後の見回りを彼が引き受けるということとなる。少々面 倒ではあるが、あんな事がなければ、彼女は遅くまで残るはずではなかったのだ。そし て自分も。ケガをした生徒はまだ病院にいるのだろうか。  全く面倒なことをしてくれたものだ。いじめに対する行動は素晴らしいかもしれない が、その後で責任を負うのはこちらだというのに、後先くらいは考えてほしい。 「田代先生?」 「…すいません、少し考え事をしていたもので」  悪い癖だ、と自嘲する。どうにも一つのことを考えると他のことに気が回らない。  対して水川はそうですかと、どこか暖かい笑顔を浮かべた。憐みの笑みだ。 「それでは、お先に失礼しますね」  足もとに置いた鞄を拾い上げて、水川。彼女が出ていくのをなんとなく見つめながら、 帰ってから何をするか考える。だが、その前に始末書を書かなければ。だが、ケガをさ せた生徒の名前が分からない。誰だ、犯人は。 「田代先生」 「はい!?」  また、同じやりとり。いい加減しつこいと思いながら、またしても慌ててしまう。 「な、なんでしょう」 「いえ、これは単純な質問なのですけど……」  そこで言葉を濁す。単純だけれども聞きづらい質問ということだろうか。 「どうしました?」 「いえ。あの……生徒たちが先生のことをマーシーと呼んでるのですけど、そういった ご趣味があるのですか?」  予想はしていなかったが、いつかは誰かに聞かれるだろうと思っていた質問だった。  生徒たちが堂々と自分のことを「マーシー」やら「神」と呼んでいるのは確かだ。そ れどころか最近は、教師陣ですらそう呼ぶこともある。死ねばいいのに。 「……無いですよ」 「そうですか。じゃあ、ただ名前が一緒だからそう呼ばれてしまっているんですね。  その……頑張ってください」  言い残して、水川は出て行った。靴が廊下を叩く澄んだ音が響き、やがてその音が消 えた頃、田代は小さく――本当に小さな声でつぶやいた。 「僕の名前は『ただし』なんだけど……水川先生、知らないのかな……」