H7 わわわ 「ねぇ、あけてよ…」 コンコンと軽いノックの後に、か細いが可愛らしい女の子の声がする。 「ねぇってば…」 他にトイレがあるような建物が見つからず、つい小学校に勝手に入ってしまった事を私は後悔した。 こんな時間に子供が残っているはずがないと、酔いがどんどん醒めていく頭でも分かる。 「ねぇ?あそぼうよ」 こんなことなら草むらでしとけば良かったと、自分が男なら良かったと思うが後の祭りだ。 「ねぇってば…」 まるで私の心臓の鼓動と重なるかのように、コンコンと軽いノックが断続的に繰り返される。 「なんでおへんじしないの?」 私はショーツを履くのも忘れて、どんどん早くなるのに同じ音を刻み続けるノックを聞きながら頭を抱えてひたすら祈った。 早くどっか行って、お願い これは夢、コレは夢、早く覚めて、もうっ早く 「…ん」 ノックが止んだ。 息を殺してじっと待ってみたが、何も聞こえない。 恐る恐る壁に背を付けて、トイレの個室を見渡してみるが何も居ない。 「よかったぁ」 あれはきっと酔った自分が小学生のころ聞いた花子さんやブキミちゃんの話を思い出して怖くなっただけ。 そう自分に言い聞かせると、私はそそくさと身なりを整え、妹に携帯をかけた。 「あっ、寝てた?ごめん、あのね、あのね」 さっきの声が携帯から聞こえてくるなんて事はなく、聞こえてきたのはちゃんと妹の声で私はやっと胸をなで下ろした。 とは言え、こんなところはとっとと離れたい。 「ひゃっ!?」 私は携帯を片手に個室を飛び出して走り出した途端に、ヒールが排水溝の蓋に引っかかって躓いてしまった。 「あー、もう。ああ、うん、靴が脱げちゃって…」 「あーあ、つまんないなぁ」 脱げた靴を履きなおそうと屈むと、私の足元にしゃがみ込んだ小さな女の子が人差し指を引っ掛けて私の靴をズリズリと 自分の方へ引き寄せる。 「やっぱりあそんでくれないんだ」 動けない私のつま先に触れた指は温かくも冷たくもない。 スルスルと這い上がって来た指が私の指に絡められると、俯いて見えなかった小さな女の子がこちらをじっと見つめてきた。 にこりと可愛い笑顔の色白の女の子。声と一緒で本当に可愛らしい。 「ひどい…」 女の子のそっと伏せられた睫毛が悲しげに震えるのを見た途端に、私はなんて酷い仕打ちをしたのだろうと 心臓が締め上げられ苦しくなる。 私は再び俯いてしまった女の子の頭を撫でながら、何て謝れば許してもらえるのだろうかと考えた。 何で私はこんなに可愛い女の子を、そう、最初から何で遊んであげなかったんだろうか。 「ごめんね、今からでも遊んでくれる?」 「今から?じゃあ何で…」 「どうしよっか」 じっと肩を震わせて俯いていた女の子がうれしそうにぴょんと私の腰に抱きついてくる。 「ナンデムシシタノ?」 「ひ―――――」 「いぎゃぁあああああああああああっ!」 いきなりテレビ画面にアップで映し出されたグロテスクな顔に驚いたアカリの声が、テレビから聞こえてきた女の悲鳴をかき消す。 「うわぁ、びっくりって、ジュンびっくりしすぎっ!?」 楽しい夕食の団欒のはずが一転、その様は阿鼻叫喚絵図というしかない。 アカリは耳をつんざく金切り声をあげて泣き叫んでいるし、淳一はその声に驚いて味噌汁を自分の顔にぶちまけたせいで咽て咳き込んでいた。 「…鼻に入った」 「動くなよ、タオル取ってくるから」 「お願い」 淳一が頷いた拍子に顔に張り付いていたワカメが落ちる。その調子で洗面所までの道のりに味噌汁の具を撒かれてはたまらない。 乾いて床に張り付いたワカメやネギは中々取れないのだ。 「いやあああ、行っちゃダメッ!」 アカリはタオルを取りに行こうと立ち上がった豊の右足にしがみ付いて、そのまま引きずられてゆく。 「重いってアカリ、離してよ」 「ダメってゆってるでしょっ!」 「ブキミちゃんじゃないんだからさ」 「やだぁあああっ!もぉー、何でっ!?ゆーたーのバーカーバカッバカッ、もー、やだぁっー!」 豊の一言でさらにパニックに陥ったアカリはまた一際声を大きくして泣き叫ぶ。 こうなってしまっては、もう本人も何を怒っているのかよく分からない。 「ドナドナ〜」 豊は歌いながら意地でも離れないアカリをくっ付けたまま洗面所に向かった。 「で、お化けが怖くて佐藤君、死んでるの?」 「ただの寝不足です」 窓の外に上半身を乗り出して涼んでいた立花は、ちらりと座っている佐藤を見遣るが心底だるそうだ。 「昨日はそれで布団並べて寝たからアカリの寝相のおかげでよく眠れなかったんだって」 「前置き長いよー、あっつー」 立花もだるそうに窓から体を引っ込めて崩れるようにパイプ椅子に座る。 三人は物置のような文芸部の部室で上級生を待っているが、なかなか来ないので一年生だけしか居ない今はすることがない。 一年しかおらず、することもなく、腕まくりをして下敷きで扇いだところでマシにならない暑さに皆だらけきっている。 「怪談ってそんなに怖いものですか?」 「佐藤君は分かってない、小学生だから怖いのよ」 「はぁ…」 腕を組んで語り始めた立花に、佐藤はあいまいに頷くしかない。 「だって、怪談の舞台って大抵小学校でしょ?だから小学生の妹さんが怖がるのは当然のことなの」 「そうゆうものですか」 「だって、うちの学校の怪談なんかバラバラ死体が学校持ちの施設の前の森で見つかったってくらいだし、現実的すぎ」 「まあ、普通に昔の殺人事件だしね」 「木造のおんぼろ校舎なのに怪談の7つや8つないとか、高校だからだよ」 「怪談で涼しくなんて嘘だな、何か飲む?」 「そだねー」 竹下が自分の横の棚に置いてある籠を座ったまま漁る。 いつ誰が用意したのか分からないが備品として部室には電気ポットやら急須があった。 お茶っ葉は修学旅行のお土産だったり、余り物などで賄われているので賞味期限には気を付けなければならない。 だがなんだかんだ言っても、自動販売機で買うよりは安上がりなので集まりがあるときは誰かが人数分飲み物を用意していた。 「わー、紅茶しかねぇ」 「えー、熱いのなんか私飲みたくない。何かないの?」 それを聞いて立花も一緒になって籠を漁りだす。 残念ながらお湯は用意できても氷は用意できないので、冷たいものが飲みたければ冷水で作れるものでないといけない。 「やった!レモネードの素〜」 「1個だけ?」 「んーとね…さん、し…4つある。まとめて溶かせば足りるでしょ」 「じゃあ、よろしく」 「言いだしっぺが水汲んできてよぉ」 そうは言いつつも立花はグラスポットとコップをプラスチックの籠に入れて運ぶ用意を始める。 「ありがとう」 「お代は100円になります。帰りにアイス買うんだ」 「金とんなよ」 「今の世の中、タダほど怖いものはないよ。行って来まーす、っと先輩」 開けっ放しにしておいたドアから出て行こうとして立花がくるりと回ると入り口に土井が立っていた。 籠がぶつかりそうになって立花は変な格好で固まる。 「あのね悪いけど、三年生が学年集会で来られないから今日は解散だそうです」 「えー嘘、待ってたのに」 「無駄な集会のせいで貴重な時間が奪われた」 「私に言われてもね。先生に鍵を持ってくるように言われたから閉めるわよ」 文句を言いながらも、皆帰る用意を始める。とは言っても何もしていないので窓を閉めて椅子を畳むだけだがさっさと済ませた。