D4 hanger 起床と言うべきか、覚醒と言うべきか。 とにかく私が目を覚ましたのは廃ビルの一角だった。 ほとんど光が差し込まない空虚な大部屋の埃にまみれた床が私のベッドなら、 どこかの工事現場から聞こえてくる作業音が目覚ましアラームの代わりだ。 ついでに言うと寝巻きは入院患者が着るような前合わせのパジャマ、いわゆる病衣とか患者衣とか言うヤツであり しかも私は上下共に下着を付けておらず、素肌の上に膝ほどの長さのこれを一枚、直に羽織っているという奇妙な有様だった。 なお、本来は下半身に履くスラックスもあるはずなのだが、 そんなものはこの世界のどこにも存在していないと言わんばかりに太ももその他が剥き出しになっている。 これはこれで気持ちがいいのだけれど、少なくとも散歩には適さない格好だと思う。胸とか。アレとか。 恐らくここまでの状況を聞いても、目が覚める前の私の身にどういうことが起きていたのか誰にも推測出来まい。 現に私は出来なかった。恥ずかしいことに、当人もこれ以外の情報は全く持ち合わせていないのである。 このような状態に至った経緯どころか、自分に関する一切の記憶が無い。 つまるところ起床でも覚醒でも無く、誕生と言うのが一番正しいのだろう。 パパは不明、ママは廃ビル。母父バブル経済といったところか。 資本主義の良血サラブレッドにして都市社会の私生児、とんだドーター・オブ・ア・ビッチである。 いつまでも見知らぬ天井を見上げているのも癪なので上体を起こし、 まず最初に目に入った部屋の隅にあるモノに対する反応を先送りしてから かつて窓であったと思しき四角い壁の穴を見る。空が見えた。というか空しか見えない。 単に見上げるようにしている角度のせいかもしれないが、何となく高い階層にいるように思えた。 どうでもいいが、日光を中に入れず、埃を外に出さず、 なぜか砂は外から取り入れるこの窓モドキは一体親からどういう教育を受けてきたのだろうか。 私は金さえ貰えれば不特定多数のテナントを受け入れるようなろくでなしのママに向かって 砂と埃の混じった汚い唾を吐き棄て、ついでに悪態をついた。 「────」 これはあまりに品の悪い言葉だったので編集の手が入ったわけでは決してなく 単に全く声が出なかっただけである。 何度も言葉を紡ぐことを試してみるが、やはり蚊の断末魔ほどの声も出なかった。 「────」 この世の全てが錯覚では無いという前提ならば、音は問題無く聞こえるし目も見えている。 さっきから不快な砂の味を口の中いっぱいに堪能しているし、四肢の感覚もある。指もきちんと動かせた。 面倒だが、きっと立ち上がることも出来るはずだ。恐らく歩行も可能だろう。 「────」 喋ることだけ出来ない。発声動作自体は体が覚えているような感じがするので、 推測ではあるが、先天的に喋れなかったわけでは無いと思われる。 私はいつから、どんな理由で声を出せなくなったのだろうか……。 もしかしたら単に一時的なものかもしれないと考え、私はそれ以上の思考と試行をやめた。 「────」 さて、これからどうしよう。とりあえずそろそろ乳離れでもしたほうがいいか。 何か思い出すまで、あるいは日中の間だけでもここに潜んでいた方がいいかもしれないとも思ったが、 こんな辛気臭い場所で空を眺めつつ夜まで素数を数えているというのも、考えただけで気が滅入る。 懸念は自分の格好のことだが、まあ国家権力の狗にさえ見つからなければ実害は無いだろう、多分。 何となく自分の体を見下ろすと、衣の左側を留める内紐と右側の外紐があっさり解けているうえ 豪快に前がはだけており、それなりに豊かな胸が半ば以上露になっていた。 誰かに見られたところで減るものでも無いのだけれど、留め紐だけじゃなくせめてボタンくらいはあってもいいのにと思う。 あと、“下”に関しては風でも吹けばそれでお終いな感じがするが 自然現象にまで私が責任を持たねばならない道理は無いので、特に考えないことにした。 ぱんつを履いてないというのもきっと私のせいじゃない、新自由主義経済が悪いのだ。 唐突だが、そこでふと自分の顔を見てみたいという欲求に駆られた。 恐らく、体を見る限りでは自分は女性なのだろうが、ただそれしかわからないとなると なまじ自分のことだけに興味が湧いてくる。どんなものか想像すら出来なかった。 ──────とりあえず外に出たら、鏡でも探してみよう。 私は申し訳程度に衣服を正し、自分の足で立ち上がると、すぐには階段を探さず、 まずは部屋の片隅に転がっている人間の死体に向けて歩き出した。