D33 hanger 濃密な潮の香りに浸かったテトラポッドの上で、ぼんやりと海面を眺めながらしゃがみこんでいる少女が一人。 傍らにはもう一つの人影が立ち、曖昧な輪郭のそれは、やはり曖昧な印象の声で少女に何かを問いかけていた。 「──────」 「……別に好きなわけじゃないんだけどね。クサいし波とかうるさいし。目に見えない色んなものですっごい汚れてるだろうし」 そちらへ顔も向けずに迷惑そうな声で答える少女に、人影は再び問おうとする。 実のところ立っているそいつは曖昧を通り越して姿も声もほとんど認識出来ないほど希薄なイメージで表れていたのだが、 ソレが発した「ならばどうしていつもここに来ているのか」という質問の内容だけはなぜか分かった。その言葉を受けて少女が抑揚の無い声でつぶやく。 「海より陸の方が嫌いだから」 返答に納得がいかないのかなおも食い下がる相手に少女は沈黙で応じていたが、 わざわざこんなところまで来なくても空を見ていればいいのでは、などと言われるとまた不機嫌な調子で語りだした。 「空なんて見てたら、ああ私って今、一番底にいるのかぁ、って感じになるじゃない。こっちだとまだ沈んでいく余地があるもの。下に。 っていうか空に吸い込まれる想像をするよりは海に沈んでいく想像の方が現実感があるでしょ。冷たいし、濡れるし、きっと苦しいし、たぶん汚いから実際にやるのは嫌だけれど」 そして、あとあっちには太陽とか調子に乗ってるやつがいるのもダメ、などと少女は付け加える。 それきり最初にしつこく質問していた方が黙り込んだのは、得心したのか呆れたのか。 風と弱弱しい波の音以外は聞こえなくなった。少女は手に持った石ころでブロックにこびりついた苔をゴリゴリ削っていたが、 しばらく続いた居心地の悪い沈黙が耐え切れなかったらしく、今度は応答ではなく自分から話を始めた。 「理想は雲海ね。沈み感───んー、沈む感の方が語呂いいかな───とにかくそれがすっごいあって、 周囲に陸地が無くて、人も生き物もいない。清潔そうでニオイもしなさそうでしょ。すごくいいと思わない」 そこまで一息に喋ってから、一拍置く間に手の中の石をひどく緩慢な動作で海面に放る。 生じた小さな水柱や波紋に彼女は視線すら向けず、たった今空いた手で足元のテトラポッドに素手で触れると、話題を続けた。 「空の上に人が一人乗れるくらいの石が浮いていて、そこに座って見渡す限りの雲を眺めながらずっと過ごすの。仙人みたいに」 つまるところ、なんだかんだと否定しても彼女のお気に入りの場所であるはずの消波用ブロックはその夢想の代替なのだろう。 相槌も打たずに黙って聞いていたそいつは、すぐに飽きそうじゃないかとだけ言った。 相変わらず表情すらも認識できないけれど何となく苦笑しているのではという気がする。 「飽きたらそのまま雲に向かってダイブすればいいもの。エキサイティングでしょ」 返ってきたのは、どうかな、という肯定とも否定ともつかぬ“曖昧”な言葉で いつになく高揚しているように見えた少女はそれをネガティブな感想と受け取ったらしく、我に返ったのか陰気な調子に戻るとぶつぶつ言い出した。 「別に理解されるとは思ってなかったし、して欲しかったわけでもないけどね。ただの無意味な……うん、会話ですらないんだわ。 ことば、ただのことば。っていうよりも、首を回してゴキゴキ音を立てるのと同じように私が気まぐれで声帯をぷるぷる動かして、 そのせいでたまたま周りの空気が振動したのをたまたまあなたが聞いただけ。ひょっとして私とおしゃべりとかしてると思ってたりする?自惚れよそれ、きっと」 先ほど、明らかに同意を求めるような物言いをしていたことには気付いているのかいないか。無茶苦茶にひねくれた拗ね方だった。 そのまま会話を打ち切ると自分の負け惜しみで終わったように思えて悔しかったのだろう。彼女はほとんど休まずに口を開いた。 「前から言いたかったんだけど、何でいつもわざわざこんなところまで来て話しかけてくるのよ。私ね、自分一人の時間ってのを大切にしたいの」 今度は逆に質問を投げかけ、だが立っているそいつは答えを言わずに質問で返す。 「──────」 「嫌いに決まってるでしょ会話なんて。海の比じゃないくらい。というか声を出すのも面倒なレベル。疲れるもの」 そのうちに、むしろ他人が面倒、しがらみが面倒、資本主義が面倒、全部面倒。透明人間になりたい、などと吐露する内容がどんどんネガティブになっていく。 そうして投げやりな人生観を示し続ける彼女を前に、ソレは考え込む様子を見せた。 ───もっとも既にそいつは何物も形取っていなかったので、『考える』という動作そのものがあったと言うべきか。 この場のディティールのどれもが象徴化や置換など一切されていないのにコレだけが中途半端に抽象的な形で出てきているあたり、妙な夢だった。 ……いや、まて。なぜ行動や会話、周囲の全てがそのままの形で現れていると分かるのか。 そもそも今見ているこれは何だ?妙な夢、無意識の生み出した幻想なのか?違う。これは記憶だ。 そうだ記憶だ。誰の。いつの記憶だろうか。分かりきったことだった。会話嫌いと言いつつさっきからやたらと喋っているこの少女はきっと─── しばらくしてその『考える』は『独り言』に変わって何ごとかを呟いた。少女が振り返って怪訝な目を向ける。 「なにそれ。またゲームの話なら、聞かないからね。つまんないし」 突き放した言い方をされたからではないだろうが、  は上の空のまま何も言わずふらふらと立ち去っていった。 残された少女はしばらく  が呟いた言葉の意味について考えていたが、 やがてそれを打ち切ると、先ほど海に放った石の代わりを探すべく風にそよぐ髪を押さえながら億劫そうに立ち上がった。 ここ最近寝ては起きてをやたら繰り返しているように思えるのだが、最近と言っても物心ついた頃からまだ一日分未満の記憶しかないのだった。その間にしたことを思い出す。 起床。死体漁り。決死行。お昼寝。窃盗未遂。殺人未遂。売春未遂。アニメ鑑賞。マインスイーパー。殺人未遂。食事。嘔吐。殺人未遂。失神。 いや、中々濃い人生だった。覚醒してすぐに視界に入りこんできた蛍光灯は、きっと天寿を全うするまで 吊られっぱなしの哀れな点灯奴隷を続けていくのだろうが、それでも悔いの無いように、たとえ黒ずんでも矜持を持って精一杯生き抜いて欲しい。私の分まで。 というわけで皆さんごきげんよう、電灯と電灯のヒモに見取られながら今私は静かに旅立ちます。草葉の陰から革命の成就を願い続けて─── 「とりあえず寝たフリはやめてもらえませんか」 が、突然寝たフリと死んだフリの区別も付かない程度の愚民に突っ込みを入れられてネミミズにネズミミミをかけられたかのごとくビクッと体を震わせてしまう。 たとえ今のは死後硬直でしたと言い訳してもすぐさま脈を取られておしまいだろう。ちくしょう、どこの策士だ。ハッタリにまんまと引っかかってしまったではないか。 私は逃避を諦め、現状を把握すべく目を開いて上体を起こした。 わずかに視界がぐにゃりと歪んだ後一瞬ブラックアウトしたりするものの、意識自体は明瞭だ。 心なしか体調は少し回復しているような気がした。いや、昨日───まさか一日以上寝ていたわけではあるまい───もそんなことを考えて結局ブッ倒れたんだけど。 首を左右に動かして視覚から情報を得ると、この場には自分以外の人間が二人いることが確認できた。 部屋の片隅にぐったりとした様子でしゃがみこんでいる家主の男。 そしてそこから私の布団を挟んで反対側のドア際には立ったまま私を見下ろす見知らぬ女。 多少なりとも見知った方に視線を送って状況の説明を促そうとしたが、その変態は弱弱しい笑顔を浮かべただけで何も言わなかった。 恐らくは「気が付いてよかった」というような意味合いの表情だろう。どことなく吐き気と頭痛を堪えているような様子なのは気になったが。 「具合はどう?あー、寝るなと言っておいてなんですけど、辛ければ無理に体を起こしてなくてもいいですよ」 正体不明の女の方に言葉を掛けられて、そちらに顔を向ける。 どうでもいいがその落ち着き払った声はどこか手術後の患者に接する医療関係者のそれを私に想起させた。 看護師じゃなくて女医か、麻酔科あたりの。なんとなくだが。 ついでに外見を観察する。室内を見回して視界に捉えたときはわりと年かさの人間に見えたような気がしたのだけれど 顔立ちそのものをよく見れば思っていたよりも遥かに幼く、着慣れているとは言いがたい印象のスーツ姿と相まって医師というよりは見習い秘書かなと評してみる。 唐突だが、ぼんやり顔を見ていると原因不明の奇妙な感覚に襲われた。羞恥というかむしろ征服されたような感じというか、とにかくよくわからない。 何か……何かとてつもない辱めを受けたような……。いや、さすがに錯覚なのだろうけれど。 あと確認するまでもないことだけれども、私に取って見れば間違いなく初対面の相手である。 向こうは何だか私のことを知っているような風もあるが、それが旧知の者に対する態度かというと違うように見えた。 きっと私の過去を知っているような人間ではないだろう。だってもしそうなら─── そうなら?そうなら何だというんだろう?わからない。わからないから考えなかった。 そう、考えないことだ。ついさっきまでその中にいて、体を起こした時には完全に忘れてしまった夢と一緒である。どうせ意味なんか無いのだから考えないのが一番いい。 さておき、相手が誰だろうと萎縮するわけにはいかないのだ。 舐められないためにも、ここで先手を打ってガツンとかましてやらねば。 私は相手にぐうの音も言わせないほどの強烈なインパクトを与えるような発言をするために口を開くと、 次いで発声が不可能な状態にあることを思い出し、そのまま間抜け面で固まった。 「あ、確か声が出ないんですよね。それ使ってください」 ちくしょう、ちくしょう、と心の中でつぶやきながら麻酔科の女の指す方を見て、そこにあるものを確認する。 示された枕元にはペンギンのキャラクターがあしらわれたファンシーなメモ帳と 同じくペンギンのキャラクターの人形がノックする部分にくっついたファンシーなボールペンが置いてあった。 ……ペンギンである。ペンギンなのだ。容赦なく。デフォルメされてるけど、間違いなくペンギンだと断言できた。 目の前の女の趣味ならば薄ら寒いものを感じるし、家主の趣味ならば一刻も早くこの場を空爆すべきだと感じたが、 いかな形状をしていても筆記用具であることに変わりはないのだという合理的思考がそれらを封殺する。今はそんな瑣末なことに構ってはいられない。 私はペン先を(念の為断っておくとペンギンの先という意味ではなくペンの先っぽという意味でのペン先を)メモ帳の1ページ目に手早く走らせ、モルヒネ女に向けて掲げた。 紙片一杯に書いたのは、ひらがな三文字で『うんこ』。いきなりこんなものを見せられたところで普通は絶対に困惑するだろうが、 素直に笑われたら嫌だなぁとちょっとだけ思ったり。もっともその場合は小2レベルの御しやすい相手と見なすけれど。 なぜそんなことをしたのか、わけがわからないだろう。 つまりそれが私の作戦なのだった。意表を付いた言動で動揺を誘い隙を作り、その後に一気に畳み掛けて主導権を得る。同時に相手の力量の分析が出来て一石二鳥。 何かもういろいろと間違っている気もしないでもないが、咄嗟の判断であるからして多少の瑕疵は目を瞑って欲しい。元より完璧な策略など存在しないのだから。 さあ困れ。言葉を詰まらせろ。どうせコミュニケーションするときは誰も彼もが伝達を前提にしているとでも思っているのだろう。 脈絡無く意味不明なことばを突きつけられたところで対処できまい。それで、何も言えずに作り笑いでも浮かべればいいのだ。そのときは私の勝ちである。 「トイレならこっちだけど、とりあえず我慢できない?先にその格好を何とかしたほうがいいと思うんですけど」 秘書女は背にしたドアを手で示しながら真顔で即答した。 いや、そうじゃないの。そうじゃないんです。 「えーと、病み上がりというか絶賛衰弱中というか、そんな状態だと楽な格好で寝ていた方が本当はいいのかもしれませんが、 私だけならともかくこの場には異性の危険な人物もいることですし、いつまでもそんな卑猥な格好をしてるのも嫌でしょう。 これ適当に持ってきたんだけど多分サイズなんかは……あ、もしかして本当に我慢出来ないんですか?一人でも大丈夫?また倒れたら困るし、付き添いがいた方が」 やめて。軽く流しつつ自分の主張に話題を摩り替えながらもある程度真剣に受け止めて、しかも気遣う様子を見せないで。 「お腹を冷やしたせい?田代さん、まさかとは思いますけどずっと裸のまま放置してたわけじゃ───」 私はメモ帳の2ページ目に『平気です』と書いて彼女に見せた。屈辱感と敗北感と羞恥心と内省とその他諸々が渦巻く。 これらの感情をひっくるめて二字で表すことの出来る「後悔」という便利な単語があるが、きっと最初にこの言葉を使った人は私と同じような経験をしたんだろうなと思った。 目の前に立ちはだかる強敵は私の伝えた『平気』を『着替えてもいい』と飛躍して解釈したらしく、大きな紙袋を二つとビニールの袋を差し出すと、 部屋にいた男───なぜかは知らないが先ほどからえづいているだけで一切会話に参加しなかった。忘れそうになるが一応家主だ───を追い出した後、 着替えが終わったら合図しろと告げて自分もまた部屋を出ていってしまった。有無を言わさぬ勢いである。 そして布団の上に一人取り残されしばし呆気に取られる私。いかんな、あの女のペースにハマっているぞ。 そう思うと、昨日はあれほど服を求めていたのに今ここで着替えろと言われても素直に従いたくなくなったりする。 もっとも、なぜその格好のままでいるのだと問われたときにするうまい言い訳や屁理屈が思い浮かばなかったし また下手に反抗すると何か酷い目に逢わされるかもしれないとも考えられた。 そう、さきほど変態男がやたらと吐きそうになっているのをあの女はわずかに罪悪感の混じった苦々しい表情で見ていたのを私は見逃さなかった。 きっと私が寝ている間に何かあったのだろう。たぶん暴力だ。あの男が逆らったか何かしたので脳か内臓あたりに酷いダメージを与えたに違いない。 そして、同じことを私にしないという道理はなかった。というわけで、ここは反骨心をグッと堪えて大人しく服を着ようと思う。ビビってないよビビってないもん。 ……服といえば、咎められて結局洗濯機に戻した衣類は今頃きちんと持ち主の元に返っているのだろうか。 まさか一晩経過した今もあのままというわけではないだろう。所有者がよほどのズボラかマヌケか、あるいは死んでたりしていない限りは。 不吉な妄想を振り払いつつ、濃紺色のビニール袋の方を開くとパステルカラーの縫製品が目に飛び込んでくる。 さっき衣服の入った袋を受け取ったときあの女は「私のお下がりで悪いんですけど」と言っていた。 ということは、この下着群も元は彼女の所有物であり、可愛らしい色をしたこれらは持ち主の趣味を表しているということか。 つまり、あの暴力秘書は、白とか、黒でない、淡い色調で、暖色系の、よくわからないがほんのり小悪魔系チックな、アンダーウェアを、好むと、いうことなのか。 深遠を覗き込んだような気がした。どこぞのドラッグストアあたりの袋が、口を開いたおぞましい何かに見える。 私は怪物の喉奥から淡いオレンジ色のショーツとブラジャーを引っ張り出し、邪悪な瘴気を漂わせる口をきつく縛ってから視界の外に放り出した。 これで呑み込まれることは無いと思うが確証は持てない。とりあえずしばらくは触れないほうがいいだろう。 まあ当然と言えば当然なのだけれど、下着そのものは暗黒魔力を帯びているわけでもないごく普通の既製品であり、 無臭ゆえに衛生的にも問題無さそうだったので、とっとと着用してしまうことにした。 両足を通したショーツを腰まで引き上げると何となく窮屈な感じがしたのはサイズが合わなかったのではなく、単にずっと履いてなかったからゆえの違和感であろう。 文明人は下着を履くものだすぐに慣れると自分に言い聞かせて、次にブラジャーを当てにかかったが、 こちらは本当に物理的な意味で窮屈で、はっきり言えば明らかにサイズが合っていなかった。キツいが無理をすれば着けられなくもないレベルではあったけど。 どうせ見えない部分であるのに果たしてそうする必要があるのかとわずかに思案するが、一応このまま着けていよう。文明人だから。 下着姿のままで大きな紙袋の片割れを漁っているとき、ドアの向こうが何やら騒がしくなった。二人が揉めているようだ。 よく聞くと「こんなところで」「我慢出来ない」「まだダメ」「電流のせいで」などの不穏なフレーズが断片的に聞こえてきたが 正直どうでもよかったのではっきりと無視する。目下私の関心は、労働者の作業着が発祥という由緒正しきプロレタリアファッションであるジーンズと 社会的性差意識の象徴とでもいうべき忌まわしい存在たるスカートというものを組み合わせたような「デニムのミニスカート」などという罰当たりなものを身に着けたら 革命神様の祟りに合わないだろうかという一点に注がれていたのだ。スカートはこれ一着しかない。 他のパンツなどはおおよその丈は合っていて、だったらそのどれかを履けばいいだけなのだが、いや、でも、しかし、スカートが……ううむ……。 しばらく悩んだ末、一緒に入っていたレギンスも着用すれば肌も見せないし神もお許しになるであろうという結論に達した。 そのレギンスも7分丈だったりするが、まあ脛とかくるぶしなら露出しても罰はあたるまい。いつまでも裸でいると寒いし本当にお腹を壊しそうなのでさっさと履いてしまおう。 これ以上下手に悩んで風邪になっても馬鹿馬鹿しいので、トップスは適当に最後の袋に手を入れたとき一番最初に掴んだ奴を選ぶことにする。 地味な色合いのシフォンブラウスが出てきたが、まあいいかと思い肌着無しで着込んだ。下着の線が浮くことはなさそうかなと楽観視して。 とりあえず一通りの着替えが終わってから自分の体を見下ろしてみたが、 家でごろごろしてる分にはちょっと大げさな格好の気もする。もっと部屋着っぽい楽に過ごせそうな服もあったのだけど、 ひょっとしたらここから逃げ出すようなことになるかもしれないと考えると、上下スウェットでいるのも間が抜けていると思えたのだ。多少居心地が悪いのは我慢しよう。 先ほど言われたように壁を叩いて外に合図を送るとわずかに遅れてドアが開き、女が顔を見せる。 一瞬、毒薬庫のビンを眺める科学者の目でこちらを観察してから笑顔を作って部屋に入ると、 布団の上に座りこんだ私に向かい合うようにして彼女は腰を下ろした。 姿を見せたのはその女だけだった。ここの家主はどうしたのだろうか。 「田代さんはちょっと具合が悪いようなので、今はトイレにこもってます」 疲れた表情で話す彼女の様子で、さっきの騒ぎが何だったのか大体は理解する。まぁ戻すだけ戻したら少しは楽になるだろうし、ゆっくり吐き出してくればいい。 もう少しだけトイレは我慢してくださいなどと言われるのを適当に受け流しながら、私は先ほどのリベンジを考えていた。 失敗を教訓に。大事なのは、会話の脈絡を読みつつもそれにそぐわないメッセージをぶつけることだ。 というよりむしろただ一語だったのが悪かった。手抜きをしないできちんと文章で表せばよかったのだ。意味は分かるけど意図が分からない文章を。 私はすぐさまメモ帳の三枚目に「やったー氏とやったぞ氏がいます。セント・アイヴスに行きたいのは何人?」と書き込もうとしたが、 その前にスーツの女が口を開いたことでそれは阻まれた。手ごわい、手ごわいよう。 「少しお話するくらいは出来そうですね。じゃあまずお互いの自己紹介を」 いや、そんなことはどうでもいい。我々に必要なのは闘争だ。 私の心の叫びをきっぱり無視して女は続けた。 「私からね。まず名前は───」 名前。その単語を聞いて脳が凍りつく。そうだ、偽名を考えていなかった。いや真も偽も無いんだろうけど とりあえず暫定社会的固有人格名称というかなんというかそんなものを決めようと昨日の夜ブッ倒れる前あたりに考えて、それっきり忘れていたのだ。 私の中で私は「私」でしかなくとも、社会はそれを認めず記号を要求するのは分かりきっていたことなのに つい気を緩ませてしまっていた。ううう、ちくしょう。きっと全部スカートのせいだ。男根支配的な社会構造を維持するだけに飽き足らず、私の精神を掻き乱しおって。 苗字、苗字はどうする。あと名前。この部屋にあるものから取ろうか、いやダメだ。サンセツコンなどという名も苗字も地球上には多分存在しない。 思考が恐慌状態にあったうちに目の前の笑気ガス女は大体の自己紹介を終えたらしく、視線で何かを促してくる。 正直さっぱり何も聞いていなかったので適当にうなずくが、そうすると女は、まず名前から書いてみてなどと言葉にして露骨に要求してきた。 名前、名前。苗字と名前。メモをゆっくり取り上げてペンを握る。名前は……名前を……。 いや、ここはいっそ意表を突いて先ほどのリベンジに移るのはどうだろう。「続々ドすけべ未亡人 〜銀河帝国崩壊編〜」とか書いて見せて。 ダメだ。冷静に考えると、これじゃ単なるおかしい子だ。意味も無く飛び掛って太ももあたりに噛み付いてみたら?これもダメだ。多分反撃にあって殺される。 ふと思い当たる節があった。私が最初に目を覚ましたビルは確か……えーと、天城ビルだ。 これをちょっと変えればいいんじゃないのかしら。そうだ、そうしよう。アマギだから一文字変えて……いや、テンジョウか? アマシロ?ありそうな気もしないでもない。テンシロは無いかな。テンギ、これもさすがに……。 そこまで考えて、読み方について類推している場合じゃないことを思い出す。 いかんいかん、今大事なことは適当な名前をでっちあげることで、漢字の読みなんかじゃなかった。 あ、「読み」ね。そうだな、名前は「ヨミ」でいいや。いつまでも固まっていると怪しまれるのでメモ帳に「ヨミ」と書き込む。 つい焦ってカタカナで書いてしまったが、まあ深く突っ込まれたらそのときにまた当てる字を決めればいいのだ。後付って素敵。 苗字の方は「天」を「海」にして「海城」にする。ありそうな気もするし、実際見かけない気もするファミリーネームだ。 「海」の字には特に深い意味があるわけでも強烈な思い入れがあるわけでも無くて 単に天と対称なものをと思っただけに過ぎなかった。どちらかというと「天」に呼応するのは「地」とか「人」なのだろうけれど、 私のイメージが導き出したのが「海」だったので、それでいいのだ。大体「人城」とか何かイヤだし。 私は名前の左に今考えた苗字を書き足すと、メモ帳を女に見せた。漢字の読み方については聞かれなかったのでとりあえず考えるのを後回しにする。 次いで問われたのは来歴とか家族構成とか休日の過ごし方とかそのようなものではなく、私の身に何があったのかということと持っていた携帯電話についてだった。 正直、何を聞かれてもほとんどが同じ回答「覚えてない」で事足りるのだが、あの男についた嘘によってその答えは許されなくなっている。 そして例外であるところの携帯電話の件は素直に話すと自分の立場を危うくするのは想像するまでも無かった。 嘘をつこう。そもそも何もかも覚えていないということの方がよほど嘘くさいのだ。迷うことは無い。 嘘をつくときは本当のことも混ぜるとより信憑性が増すという。 突っ込んだことを聞かれて困ったときは奴らに何かされたせいで部分的に記憶が無いとでも言って誤魔化せばいい。 『奴ら』か。存在しないものをでっち上げて責任をかぶせるあたりまるで子供の言い訳だったが、居ないことを証明するのは難しいはずだ。 どうしようもなくなったとしても、それこそ気絶したフリでもすれば強引に打ち切ることが出来るし それでたとえ不信を持たれようと要はこの場さえ切り抜けられればいいのだった。そうすれば逃げる機会などいくらでもある。 こちらを落ち着かせる為だろうか、柔和な笑顔を浮かべる女からは今のところ敵意を感じない。 ずっと見ないように意識していた唇の傷に一度だけ注意を向けると、私はペンを握りなおした。