D24 hanger いつの間にか私が立っていたのは広大な野原だった。 見渡す限り周囲には枯れた色の草以外に何も存在せず、空もそれらと同じように枯れた色をした雲に覆われていて昼夜の判別すらつかない。 時折吹く風が付近一面に群生している枯れススキのような植物を揺らして耳障りな音を立てていたが、それ以外に動くものは虫の一匹すら見つからなかった。 私は海に行きたかったはずなのに、一体なぜこんなところにいるのだろうか。 無論どのようにしてここへ来たかなどということは、考えたところで答えなど出なかったのだが、 そもそも「どこから来てどこへ向かうのか」というのは多くの人にとっては永遠の命題である。 ならば向かうべき場所が分かっている私はむしろ幸福なのだろうと思い直し ここから海までどうやって行けばいいのかということだけを考えることにした。 もっとも今置かれている境遇においてはそれすら困難であることは言うまでもない。 しばらく途方に暮れて地平線を眺めていたが、恐らくどこまで歩いてもこのセピア色の世界を抜けることは出来ないだろうと直感し、 ならば下からなら行けるかもしれないと考えて穴を掘ることにした。案の定、下に行くとすぐに海岸に出た。 残念なことに海もまた枯れた色をしており、そのうえ浮き輪から流れ出た醤油と思われるものに汚染されていたが、幸い砂浜近くは普通のブルーであった。 空に太陽はなかったが、代わりに煬帝(569-618)がおり人民を温かく見守っている為にさほど不便は無かったと地元住民は言う。 ただ、渦巻き状の船着場には大量の●●が転がっていて(●●は未確定)それらが明日にもメルトダウンしかねないとのことで、 私じゃない人は秘書になったことを後悔した。私じゃない人の気持ちなどどうでもいいけど。 どうでもいいのでネズミたちに混じって一緒に海に飛び込むことにする。 さようなら黒衣の人、さようなら20世紀。ねこのあし。てつのつめ。 たとえばまだ明るいうちにコインランドリーを訪れてそのまま日暮れ近くまで洗濯物を放置していたずぼらで間抜けな者が 遅い時間になってからようやく洗った後の衣類を取りに来たとき、そこで裸体の上に入院患者が着るような寝巻きもどきを羽織っただけの女が ベンチに寝転んで死んだように眠っているのを見たとして、どういう反応を示しただろうか。 さまざまなパターンが考えられるが、少なくともそのまま放置して眠らせておくようなことはしないはずだ。 ならば私が今こうして悪夢だかなんだかよくわからない夢からごく自然に目覚めたところを見ると 眠っている間に洗濯機の中の衣類の持ち主がここに来たようなことは無かったということだろう。 そんなわけだから、こんな状況なのに他人の洗濯物の存在を確認したうえで備え付けられたイスに身を任せて居眠りを始めた 私の判断は一見気が狂っているようで実は正しかったと言える。たぶん、言える。 ……だって疲れてたんだもの。すごく気分悪かったんだもの。少しだけ座って休んだらリラックスできたのだもの。 でも背もたれがないし少しだけ横になろうと思ったらとても気持ちよかったのだもの。少しだけ目を閉じてみたら思ったより目蓋の接着力が強かったのだもの。 きっと屋根のあるところに入って安心したのだと専門家は言うだろう。つーかもう動きたくない。外こわい。ここで暮らしたい。ずっと寝ていたい。 言い訳と泣き言が思考を埋め尽くすが、とは言ってもすっかり日が落ちてしまっている今、さすがにこれ以上留まっていると洗濯機利用者Aと鉢合わせする危険性が格段に増す。 あと防犯を考えたのか店舗正面は思いっきりガラス張りになっている為、もしここで暮らす場合はプライバシーを放棄せねばならない。 最初からこの店は私にとっての安寧の地にはなりえなかったということであるわけだ。結論、放棄。さっさと引越しすべきである。 そのとき今更ながら、ひょっとして寝ている間に通行人に見つかったかもしれないとも思ったのだが、 もしそうだとしても今の私は見ての通りフリーダムだから問題無い。人生は結果が全てなので、居眠りを選択した私の判断は結果的には間違ってないのだ。 そういうわけなのだが、ホントもうさすがにそろそろ行動せねばなるまい。 私はまず左手の甲で口元の涎をぬぐい、そのまま流れるような動作でそのにおいを嗅いだ。 まぁ無理に感想を述べることも無いのでその辺の心情は割愛しよう。 それから安っぽいベンチに預けていた背中と後頭部を超人的な意思を以ってそこから引き離し、勢いそのままに床を素足で踏みしめて立ち上がる。 軽い立ち眩みを覚えたがさきほどまでと比べると体調は幾分マシになっていて このことからもリスクを冒してまで休憩した甲斐があったと言えよう。やはり私の判断は正しかった。 次、撤退前に物資の調達。 幸運なことに洗濯機は乾燥機一体型であり、先ほど調べた時点で残留衣服の乾燥は既に終了していたからこの場で着用して離脱することが可能だった。 ……なら寝る前に着とけよと君たちは言いたいようだが、着用状態で本人に見つかったら言い訳とかできないだろう。 しつこいようだが、この点においても私の判断は間違ってないのだ。 あーもう閑話休題。さっさと仕事に取り掛からねば。 小奇麗な店舗には真新しい機械が十台も設置されていたが、こんな辺鄙な場所の無人洗濯屋において、 これらの稼働率が20%を上回ることが果たしてどれくらいあるのだろうかとふと思った。 いや、資本家階級の事情など私の知ったことではないのだけど。 あーところでさっきの夢の中の●●って何だったのか。ナマコ?確かに海ならそういうのあっても不自然じゃない。メルトダウンするかは分からないけど。 そもそも後半の脈絡の無さは本当に意味が分からない。まぁ夢に意味を求めるのも馬鹿馬鹿しい話であって、 単に覚醒が近くなっていくにつれて脳が活性化してたとか、きっとそういうことだろうけれど。 そんなとりとめのないことを考えながら、事前にチェックしていた1台のドラムを開き手を突っ込んで漁り始める。 服の様子を観察するに持ち主はどう考えても男性であったが、現代のカジュアルな装いにおいては性差による違いなどさほど問題無いはずである。 (見るからに女の服を男が着用、というのなら多少は社会的な違和感があるかもしれないが。) 適当なジーンズとシャツとパーカーを見繕って足元に落とす。ここまではいい。さて、問題は下着であった。 これは性差による区分が厳然と行われているもので、異性のものを着用しているとしばしば犯罪的な行為と見なされる場合がある。 ここは慎重に選択せねばなるまい。曰く、はくかはかないかそれが問題だ。 そもそも下着の違いというのは肉体に合わせた機能的な差なのだろうか?胸当てはほぼ完全にそうだと言い切れるがこの場には存在しないので(脳内)議論の対象から除外するが つまるところ  とか  の形状に適応したものだということであろう。だがそれがどうしてこういう差になって現れるのか私には分からなかった。 別に私がブリーフ履いても問題は無いのではないのか。それとも何か致命的な齟齬があるのか。 大体、下着というのは本来他人には見えないものであって個人のプライヴェートな部分に極めて近いものであるべきである。 もし観念的な性差意識が前提になってぱんつの種類を区分されているのだとすればそれは社会的人格のみならずパーソナリティの深い部分にまで 文化的性差というものを押し付ける行為に他ならないといえよう。つまりアレである、えっと、侵害。侵害されてる。 私は支配者どもの思惑に従属するのを良しとせず、強い反逆の意志を以って一枚のボクサーパンツを手に取った。 妙に抵抗感を感じるのは搾取階級による洗脳のせいだろうか。いやいや、恐らく衛生面での不安だ。 洗った後であるとはいえ消毒が為されたかどうかは疑問だし、常時粘膜に接するものであるわけで感染症等を媒介する可能性も無いわけではない。 煮沸する火も道具も時間も無かったのでとりあえず簡易検査を試みることにした。すなわち嗅覚を活用するのである。 精密性に乏しく半ば不安を払拭するための儀式めいた行為だがやって損は無い。私はためらわずにその布着れを鼻と口の間あたりに押し当てた。 ………………やっぱり洗剤の匂いしかしなかったけどね。 「もしもし、何をなさってるんですか?」 と、そのとき唐突に声をかけられ反射的に私は振り向いた。 何ってぱんつのにおいを嗅いでいるんですけどとか何とか答える前に、私は凍りつく。 建物に入ってすぐのところに変態が立っていた。赤い異形のマスクを被り、マントを羽織った怪人。 マントの下が裸なら分かりやすい変態だったのだが 異様に凝った作りのボディスーツを着こなしているあたり得体が知れない。 ヤバい。絶対ヤバい。何かもう色んな面でヤバい状況なので半ば開き直ってしまったのか 私は外見的にはなんら反応を示してないけど、内心はものすごく混乱していた。 あ、風通しがいいからという理由で寝る前にサッシ戸を開けっ放しにしていたのはもちろんこの私だが そのせいで声をかけられるまで気が付かなかったんじゃないのかとかいう揚げ足取りは却下。 どうせガラス張りで開いてようがいまいが丸見えだし、仮に奴が戸を引き開けたのに気づいたところで逃げられなかったことに変わりないのだ。 くどいと言われようと、私の判断は間違っていないことを主張しておく。 「それはあなたのものですか?」 怪人が床の衣類を指差して問いかけてくる。ということはこいつは所有者Aではないのだな。 私は首を縦に振り、質問に対して肯定した。もっともこれらは先ほど床に接した瞬間から私の所有物になったのでウソではない。 「……男性のものに見えますけど。ええと、その、下着も」 未だ顔に押し当てているままの黒いボクサーパンツを指しているのだろう。 このままだと妙な誤解をされるかもしれないので、まず私は顔の前の下着を床に放った。 それから言い訳をしようと口を開く。健全な人間関係の構築の為にもまずは対話を試みることが大事なのだ。 とーく。いっつおんりーとーく。私は出来るだけ穏やかに、わざとらしいくらいに弱弱しく、且つ媚びを含んだ声で語りかけた。 「────────」 しまったそういえば声が出ないんだった。ぱくぱくとアホな魚のように口を開閉する私を見て、変態マスクは怪訝な顔(?)をする。 まずい、このままだと病院からあられもない格好で逃げ出したうえぱんつの匂いを嗅いでいたアレな人と認識されてしまう。 私が何かコミュニケーションの手段を考えていると、変態はさらに追及してきた。 「率直に聞きます。あなたは悪を為そうとしていたのではないですか」 すぐには意図が分からなかったが、恐らく脅迫だろう。“悪”とは恐らく下着の、じゃなくて衣服を収奪していることを指すと思えた。 私にとっては生存の為の手段であっても家畜どもにとっては犯罪行為なのだ。 臭い飯食いたくなかったらおとなしくしてさっさと股を開け騒いだら豚箱に突き出すぜぐへへと暗に言っているのであろう。たぶん。 無論、そんなことは許すわけにはいかない。だって金がもらえるならまだしも私にとって何の得にもならないではないか。 だが逃げようにも出口には変態マントが立ちふさがっているし、うまくすり抜けたところでこの体調では数十メートル走っただけでそのまま倒れかねない。 また逃げおおせたところで繊細な私の心は変態や公権力の追跡に怯えながら暮らすことに耐えられないだろうと思えた。 結論、隙を見てブッ殺そう。所詮人は分かり合えない。だったらやられる前にやるしかない。 私は非力ではあるがそれゆえ従順なフリをすれば油断するだろうし、いずれ決定的なチャンスがめぐって来るはずだ。 この時、どうせ私には何のバックボーンも無いのだという意識が罪悪感とか倫理観とかそういった観念をほぼ抹消してしまっていることを自覚した。 社会から著しく乖離している存在が故の異常な利己主義。私にとってそれを持つことは憂うことではなかったが。 さて殺害はいいとして問題は方法である。手近に凶器が見あたらないのは残念でならない。これは考えなければならないと思った。 と、そこで妙な空気のコインランドリーにキャッチーな電子音が鳴り響いた。どうやら変態の携帯電話が着信を告げているらしく、奴は慌てた様子を見せる。 「あ!ちょ、ちょっと待ってください」 何を待つのかは知らないが、変態スーツは私に背を向けて電話に出てしまう。どうでもいいがその携帯はどこに収納してたんだろう。 「はい……あ、はいどうもお疲れ様です。はい。は、はい。いえいえ。はい。はい。ハハハ、はい」 相槌を繰り返しながら、存在しない相手に対してペコペコと頭を下げるところを見ると実はそんなにヤバい奴ではないのかもしれないと思ってしまった。 無論そんなものは錯覚である。社会に見せる顔など誰だってごく普通のままでいるに決まっている。 きっと目の前の異形こそがこの男の真の素顔なのだ。 ん?というか後ろ向きで会話してるけど、これって、いきなり隙だらけではないのか。殺れるかな。いや、こりゃ殺れるわ。 決断と同時に行動に移った私は、間抜けな変態の背中に一歩づつ静かににじり寄っていく。 素足が床と結託してぺちぺちと余計な警告音を立てるが奴の耳には届いていないようだった。 何の障害もなく真後ろに辿り着いていささか拍子抜けしたものの、本番はこれからである。 素人が人間を素手で撲殺するのは困難なことだが、かと言って突き飛ばして叩き落とすような崖も溶鉱炉もここには無い。 ここはやはり絞殺がベターだろうと思い、私は変態の首に腕を回すべく手を伸ばそうとした。 が、そこで気づく。ヘンなマスクは首までしっかり防護していた。微妙に実用的っぽいのが腹立たしいが、ここまで来てしまった以上は引けない。 ええとまず仮面を引っぺがすとかしないと。待てよ、これってどうやって取るんだろうか。普通に引っ張ったら取れるのか? 「……はい、では失礼しまーす。ガチャ」 変態社会人はガチャまで口で言ってから携帯を持ったたまますぐに振り返り、私の接近に気づいてのけぞった。 「!?」 間髪入れず手を伸ばして携帯を奪う。美少女のイラストとなんかのタイトルロゴが表示されたディスプレイをスルーして 適当にボタンを操作すると、新規メール作成画面になった。私は無表情のまま簡潔に文字を入力し、抗議の声を上げる変態OTAKUに見せた。 『わたしはしゃべれません』 この辺はくどくど説明しているわけにはいかない。なんせ当人すら事情を知らないのだし。 変態マンは一瞬思考が停止したと見え、大人しくなった。間髪入れず私は次の文章を打ち込み、見せる。 『たすけてください、悪いひとからにげてきました』 そして次の文章を入力する前に、死体から奪取して持ち歩いていた電池切れの携帯電話を取り出して いかにも重要なモノですと言わんばかりに差し出した。正直、ハッタリのガジェットに使うには説得力に欠ける気もしたけれど。 なにやら面倒なことになってしまったが私は作戦を修正してもう一つの賭けに出た。 コミュニケーションさえとれれば、この変態をうまく騙して利用できるかもしれないと考えたのだ。 そして運よく奴の持っていた道具を使って対話を開始し、とりあえずの窮地を脱したかに見えるが、最も大事なのはこれからである。 作り話をでっちあげ庇護欲を掻き立てるような被害者を(不本意ながら)演じ、 その上で巧妙にお金とかご飯とか服とか靴とかぱんつとかを要求して調達、頃合を見て適当な理由をつけておさらばするのだ。 実際こっちの方がただ単にブッ殺すよりはるかにマシである。なんせ私が得をするからね。 あと、いくら凄腕の変態とは言え電話の様子を見ているとそれなりに社会的立場もあるようだから、それがある程度は蛮行への抑止力になるだろうという打算もあった。 それにもし危害を加えられても逆に脅迫するという選択肢もあるし、場合によってはこちらからアプローチしてハメるのもいいかもしれない。 いやいや、まだやるって決めたわけではないが。結構面倒だしね。 もちろん言うまでもなくこれらのことが可能になったのは危険を顧みず昼寝したおかげでもあるということで、 まったく私の判断の正当性には揺らぎがないことが完全に理解していただけたと思う。 なお、作戦が失敗したときのことは当然考えなかった。人生は常に上と前方と私自身だけ見ていればいいのである。 ……さて、まずこの携帯はどんな設定のアイテムにしようか。