C3 りざあど  ――ついてない。  風祭高等学校。比較的最近に建てられた私立の進学校であり、風紀の殆どを生徒達 に委ねた自由な校風で知ら れている。  その高校の校舎二階に作られたとある教室の前、一人の男が舌打ちをした。  彼――浅倉恭哉の瞳には、三人の男が机に座り込んでケラケラと笑い合う姿が見え ている。そして更に先、窓際 最後尾の机に下げられた通学鞄も。  この鞄というのは勿論、彼の所有物である。発端は約一時間前の休み時間、授業は 次では最後ということもあっ て気が抜けていたのか、うっかりその教室に鞄を置いたまま行ってしまったのだ。  みなみにこのせいで恭哉は、教師からプリントと鉛筆を借りて授業を受けるという 惨めな姿を晒す事になった。 完全に自業自得だが、彼からしてみれば、単位制という学校中を何度も行き来する方 式自体を恨みたい気分だ。  そういうことで決まりの悪い思いをしながら教室へ駆け戻ったのだが――そこで人 影を見つけて現在へ至る。  ――最悪だ。コイツ等上級生でも特に評判が悪い不良共じゃないか。  ――出て行くまで別のトコいた方が良いか……。  面倒事を回避しようと決め込んだ恭哉は、抜き足差し足で三人組の見える位置から 退避した。  遠ざかる距離とともに歩調を戻しながら彼は、今の自分を客観的な相手――本を読 む読者のような立ち位置から 見たらどのように見えるかを考え、少し陰鬱な気持ちを抱いた  人生は物語に例えられるべきではない。それは彼が幼少の頃から持っていた考え方 である。  世界や運命という極端なものが問題なのではなく、現実の存在する人間そのもの が、物語に相応しくない。そう 恭哉は考えていた。  ――良く言われるスリルも、冒険も、望みさえすれば簡単に手に入れることが出来 る。  ――当然の様に存在するルールの中からどれか一つ、踏み躙るだけでも十分だ。  ――けど望まない。誰しもそれを求めたことがあるはずなのに、最後の最後で怖気 づく。衝動はあっても覚悟が ない。  或いはそれも当然のことかも知れない。望みがリスクに直結する以上、大人なら覚 悟がないことを賞賛すべきだ ろう。  しかし彼はまだ当たり前にそれを許容出来るほどの社会性を持っていない。  そして強烈な差異を感じることは他にもあった  幾らでも、あった。  ――小学生の頃、母さんと一緒に銀行に行って強盗と鉢合わせたことがある。  ――片腕には、銀行で待つ間に読もうと思ってた冒険活劇ものの小説。俺が犯人に 体当たりして活路を開く、お はなしに有り勝ちなそういう場面だった。  ――だが結局、僕は何も出来なかったし、何かをしようとも考えられなかった。  ――そしてそれは周りも同じ。テレビで聞くように、銀行員がこっそり警察へ連絡 を入れる、ということすらな かったらしい。  ――……その日から、僕は自分達の卑しさに目を向けるようになった。  自覚と自虐。過去の惨めな記憶は、彼自身の限界をそこに定めた。他の大多数と同 じ、ヒーローに没個性と罵ら れるのを待つエキストラとして。  そう、現実の世界に生まれて尚、登場人物として名を刻むなら、精々がエキストラ というところだろう。  主役になれるのは広い世界の中でも一握り――と、そこに行き着いて初めて、恭哉 の憂鬱にブチ当たる。  ――……一握りの主役と、無数の端役<エキストラ>。なら僕達は、誰とも知らな い主役と通り過ぎる為だけ に、生まれてきたのだろうか?  それは理論ではなく、彼独特の無常観。理性では馬鹿馬鹿しく思っていても、その 性質ゆえに頭の中から消し去 ることが出来なかった。 「わっ!?」  妄想に浸りながら学校を徘徊していた恭哉に、小さな悲鳴と軽い衝撃が降り掛か る。はっとなって意識を戻す と、目の前で箒を持った見知らぬ少女が鼻を押さえていた。如何やら真正面からぶつ かったらしい。 「ご、ゴメン」彼はそう言いながら周囲を見渡す。足元にある連続した段差と、奥に 見えるロビーから、此処が校舎 一階の踊り場であるということが分かった。 「もうっ、ちゃんと退いてって言ったじゃない! 私の声そんなに小さかった?」  鼻の痛みが引いたらしい少女が、膨れっ面で恭哉に突っ掛る。  恭哉は改めて彼女に向き直り、ギョっとした。袖をチェーンで繋いだドクロ柄のT シャツに、所々が引裂かれた ジーンズ。所謂パンクファッションと呼ばれる彼女の服装は、私服が許可されている 学校だとはいえ注意されない のかと聞きたくなる程に異色を放っていた。  そのまま目を背けたくなる衝動を押さえ、敢えてフレンドリーに言葉を返す恭哉。 「だからごめんって……。けど何で箒なんか持ってるの? 『掃除は自主性に任せ る』って校則で態々したがる奴 がいるとも思えないんだけど」  これは無論、単位制という方式故、決められた時間に生徒を集めるのが難しいた め、体裁として出来た校則であ る。  少女は愚痴を漏らす相手を欲していたようで、恭哉の疑問に「当然よ!」と敏感に 反応する。 「それが私だけ遅くまで残ってたからって理由で先生に掃除を手伝わされてるのよ!  しかもその先生も直ぐレポ ートの採点があるからって職員室に引っ込んじゃうし!」 「若しかしてそれ小林先生? あの人は何でも生徒にやらせようとするからね。けど 名前覚えられるぐらい手伝っ てると評価も良くなるよ?」 「ホント? ……いや、でもそこまで先生に媚売りたくはないわよ」 「そっか、まぁ頼まれた分はやっといた方が良いよ。敢えて印象悪くすることはない んだし。じゃあね――――え?」  話を逸らすことで少女に怒鳴られるという状況を回避することに成功していた恭哉 は、これ以上掃除の邪魔をし ない為にも早く退散しようと彼女を通り過ぎたのだか、しかしその女は逆に彼の腕を 掴んできた。 「いやいや、こんなに困ってる乙女をほっといたらいけないでしょ」 「? 一体どんな理由で、知り合いでもない女に掃除の手伝いをしてやらなきゃいけ ないんだい?」 「つまり交換条件でエロいことしろと」 「言ってないよ」 「じゃあ知り合いなら良いのね? 私は生柳院藍。苗字は生きる柳と書いて生柳。そ れに漫画で良くお偉いさんの 苗字につく院を並べて生柳院よ。名前は藍色の藍ね」 「そういう意味じゃないから。そして名前知ってるだけで知り合いでもないし。後 『院』の説明に妙な表現を使っ たのは自分が偉いとアピールしたかったからなの?」 「あははは! ナイスツッコミ! 関西人になれるよ」  冷め切った恭哉のテンションとは裏腹に、嘲笑ともとれる軽快な笑い声を上げる 藍。  ――何で一度ぶつかっただけの娘とこんなに話し込んでるんだ?  しかしその疑問はとっくの昔に氷解していた。  彼は彼女を嫌ってはいないのだ。衣装とも言える服に軽薄な口調、本来なら関わり たくないと感じさせるその個 性は、軌を一にすることしか出来ない彼にとってある種の憧れすら感じるものだっ た。 「ホントに頼むよ。私も今日は長く居られなくて……。こんなトコでブラブラして たってことは用事がある訳でも 無いんでしょ?」  彼の心中にある歪んだ好意を見透かしてるかのように、今度は微笑を携えて拝み倒 す藍。  ――そういえば時間つぶしになる事を探してたんだった。  今更になってそれを思い出した恭哉は、申し訳程度に悩む仕草をし「仕方無いな」 という言葉で答えた。  ――ついてない。  恭哉が掃除を始めた頃、数分前の彼の行動を再現するかのように、あの教室で立ち 尽くす学生が一人。  彼もまた下らない忘れ物を取りに教室へ戻り、入り口手前でその悪名高い三人組の 不良を見付けた。  唯、敢えて恭哉との違いを明言するならそう――不良達がその男の存在に気付いた という点であろうか。 「あっれぇー? ここ今日はもう授業に使わないよね? どうしたの?」 「あ……いや……」 「ていうかさ、なんで入り口で立ち止まってたの? 盗み聞き? もしかして盗み聞 きしてた?」 「そいつはイケナイことだ! 許して貰うためにも君は俺達にジュースを奢るべきだ な。一番高い奴をサイフが空に なるまで!」  それは運が悪かったとしか言いようが無い。三人はちょうど会話が途切れて別の話 題を探していたところで、何気 なく振り向いた先に彼が立ち竦んでいたというだけの事。  或いはそのまま意に介さず、忘れ物を取ってさっさと帰れば目を付けられずに済ん だかも知れない。しかし彼等の 評判を聞いていた気弱な彼は、視線が合ったその瞬間、反射的に怯えた表情をとって しまった。  不良達からすればそれで十分。その男が搾取される側の人間だということは明ら か。  その男は、決定的なまでにカモだった。  階段の埃は恭哉だけでも数分で片が付いた。  ロビーも多少広いが二人ですればやはり数分。藍がゴミを出しに行ったのを待てば それで彼の仕事は終了だった。  ――けどまぁ、態々待つ必要も無いか。そろそろあいつ等も帰ってるだろうし。  箒を壁に立て掛け、その場を後にする恭哉。その途中、不良達が階段を下りて来な かったのが気になったが、他の 階段を使ったのだろうと思い直した。  そして教室前。  無論、そこには未だに不良達が屯しており、更に言うなら哀れな学生がカツアゲさ れている真っ最中だった。 「んん?奢ってくれないのかなー? 俺等の言う事聞いてくれないのかなぁ?」 「何々? 自販機まで行くのが面倒臭い? よし、特別に俺が行って来てやるよ。だ から有り金全部寄越せ」 「ハハハッ! ミヤっちそれは露骨過ぎでしょ」  酷く癇に障るその声を聞きながら、恭哉はやはり入り口の前で隠れていた。  素知らぬ顔で鞄を取って帰ること、威風堂々と乗り込み学生を助けること、一度彼 等から逃げ出した恭哉にはどち らも出来ない。  こっそりと隠れ潜み、心中で罵る程度が関の山。それが彼の限界。  ――クズがっ。半端な度胸しか無いくせに粋がって……! 「気に入らないならアンタが助けたら?」  小声で投げ掛けられた言葉に、彼ははっと振り向く。  藍がいた。恭哉の脇から、藍が同じ様に教室を覗き見ていた。 「思ってること口に出てたわよ?」 「君……何で此処に?」  藍はクスクスと、愉快そうに笑って答える 「そりゃ勝手に逃げられちゃ探すって。お礼を言わせない気だったの?」  一頻り笑い終わると、藍は恭哉の横を通り過ぎ教室の中に踏み込む。不良達は学生 をからかうのに夢中でまだ気付 いていないが、逆に言えば直ぐにでも気付きそうな状況だった。 「お、おい……」 「アンタは助ける気無いみたいだから、私がヒーローになっちゃうわね?」  藍は、乱れの無い机の列から椅子を一つ取り出し、頭より高く持ち上げた。椅子の 足を引き摺る音で教室の中に居 た者達全員がそちらを振り向くが、藍は寧ろ待ってましたとばかりに不適な笑みを見 せる。 「てめぇ何して……」 「いじめカッコ悪いッ!!」  その言葉とともに、振り上げた椅子を放り投げる。 「!」 「!?」  「!!」    「……?」  藍の腕から開放された椅子は、見事な放射線を描いて四人が固まっている場所に降 り掛かり――その中でも逃げ遅 れた不良の一人とカツアゲされていた学生、それに多くの机へと叩きつけられた。 「ぅっぎぁ!」 「げあぁっ」  犠牲となった二人が、呻きとも叫びともつかない奇声を上げる  少女にも持ち上げられる程度の重さだと言え、堅い木材と金属製の足で構成された それは完全に凶器。肩に当たっ ても骨にヒビが入りかねない上、もし頭に当たったら死の危険すら有り得る。  しかし、彼女はそれを全て承知でその椅子を武器に使い、更に被害者を巻き添えに するという最悪に近い結果を出 したのだ。 「あっちゃー、失敗失敗。まぁいじめられてる奴もカッコ悪いってことで。運が悪 かったね」  藍は大して動揺もしてない風にそう言うと、逃げ延びた不良達を見遣る。  逆に不良達は酷く動揺した。カツアゲを咎められた事、その咎め方が常識の粋を超 えた暴力であった事、その全て が予想外――寧ろ有り得ないと断じても良いほどの異常。  しかし、それは今、現実に起こっている。 「お、お前何なんだよ! 何考えてんだよ!」  強がりを維持する為に発せられたその怒声に、藍はやはり不敵な笑みを浮かべる。 「何考えてるかっつっても別に大した事は考えてないしねぇ。まぁ何なんだよって質 問の答えは……ジェラルド・ゴ ルドーかな?」 「……?」  ボクシングに疎い彼等にはその言葉の意味が分からなかったが、それは次の行動を 予告するものだった。  即ち、『次は眼を潰す』と 「うぎゃあぁぁぁああぁ!!」  安易に近付いた一人の眼に、藍の指がズブリと突き刺さる。失明するほどではない が、暫くは声を上げる以外何も 出来ないだろう。  彼女は決して喧嘩慣れしているわけではない。単純な腕力の差などから、本来なら 不良達相手にここまで善戦する ことは有り得ない筈だった。  その有り得ない事を可能にしているのは、彼女の容赦無さである。椅子投げにしろ 目潰しにしろ、普通ならそれが 引き起す結果や常識外れな行動への躊躇から、思っても戸惑いなく実行することは出 来ない。しかし彼女はその法則を 容易く覆し、堂々と実行していた。  たった一つの要因。それどその要因は不良達を完全に畏縮させ、彼女の独壇場を作 り上げる。  そして――その舞台を唯一の観客として見ていた恭哉は、藍に加勢する事も人を呼 びに行く事もせず、そこで立 ち尽くし歓喜に打ち震えていた。  ――見付けた!  ――こんな近くにいたなんて……僕にもヒーローとの縁があったんだ!  藍は正義の味方<ヒーロー>とは程遠い、寧ろ卑怯や外道という言葉が似合う存在 に思えるが、そもそも恭哉の求 めるのは物語の主役<ヒーロー>としての特異性のみ。その点で彼女は完璧に合格 だった。  ――離さないぞ、この繋がり。  ――こいつに付いて行って、必ず最高の場面<シーン>を掴んでやる  ――この人生にも、僅かばかりの意味を。  この日、名も無き物語に小物が一人と化物が一匹紛れ込む。  その先にあるものは、まだ誰も知らない。