B77 絵空つぐみ  高梨ヒロコ。それが私の今の名前だ。少し、話をしようと思う。黙って聞きなさい。  私には好きな人がいる。  彼に出会ったのは、私が学生の時。街が灰色と真っ赤に染まる雲行きの怪しい夕暮れ時、何の変哲もない公園のブランコに彼はいた。家路を急いでいた私は、彼の寂しそうな瞳に心を奪われた。  そいつには何の特徴もなかった。美形でもなく、不細工でもなく、背格好は高くなく、低くもない。細くもなければ太くもない。街で出会えば無意識に避けてしまっていただろうし、学校で出会えば単なるクラスメイトの一人だっただろう。例え親戚だったとしても、名前と顔が一致しないに違いない。とにかく、彼には印象というものがなかった。  でも、その時、私は彼に心を奪われた。彼の中にはすうっと透き通ったガラスみたいなものがあって、その先は底の見えない暗闇。嫌な気分になる黒じゃなくて、ドロドロとした、バターの海みたいなうねりを帯びた黒。それまで見てきた鼻の垂れた男どもとはまるで異なる眼差しは、当時の私には神聖なもののように感じられた。  その時、彼はこう思っていたのだと、私は後で聞くことになる。 「『ただ立っていても、ただ座っていても、ただこうして街並みを眺めていても、僕にとって時は過ぎないんだ』」  私が言葉の真意を理解するのは、もっと先のこと。  その頃、私は今よりずっと臆病者で、内気で、でも、ヒロキの姉として立派な学生でいるように頑張っていた。ヒロキはああ見えてスポーツだけじゃなくて勉強も普通くらいにはできる。けれど、私も普通。私は決して凄い人間じゃなかったし、そうありたくても、心は弱い。今も弱いまま。手が震えるのは止められないし、人が怒った顔を見るのは何より怖い。それは今も昔も変わっちゃいない。  私が彼に話しかけたとき、もしも彼が少しでも声を荒げていたら、きっと私は怯えて逃げてしまっていただろう。声を掛けたことそのものが、きっと奇跡だった。  彼が声を荒げることはなかった。それどころか、近づいた私に何一つ応えようとしなかった。  一回、二回、三回。ブランコに座ってじっと止まったままの彼は、私の呼びかけを無視した。怖かった思いが段々と怒りに変わって、失礼な奴、と私は言った。それから彼の背中を無理に押して、私は背を向けた。 「『   』」  ブランコが軋む嫌な音にあわせて、彼はようやく何かを言った。  そんな歳で初恋だなんて恥ずかしいじゃない。でも、お遊戯みたいな男と女の連れ合いは、恋だなんて言わない。死んでも言ってたまるものですか。  不器用な私と、超然としたそいつとの「お付き合い」は、結局のところそんなに長続きしなかった。私が彼を連れまわすばかりで、彼は「楽しい」「普通」「つまらない」しか言わないのだ。私は彼の格好よさに段々と飽きてしまい、彼を連れ出すことはなくなってしまった。  そんな折に一度だけ彼が誘ってくれたけれど、そのときは酷いものだった。知り合いに見つかるわ、落し物を拾うわ、交番でおやつたんまり押し付けられるわ、そりゃもう予定なんてちっともこなせなかった。  私の引越しが決まったのは、そんな出来事のすぐ後のことだった。  そいつは私とのお別れをきっぱりと告げて、その代わりとして、私に「お守り」と称しておまじないをかけてくれた。そんなものいらないって私は言ったのだけれど、彼は無理矢理押し付けるように私におまじないを掛けた。彼なりの優しさだったのかもしれないけど、そのときはとんでもない男だと思った。  お守りが何を意味しているのか、そのときにはわからなかった。けれど、そのときに確かに私はお守りを受け取った。  あの公園で。  そういえば、そこは、随分と昔に爆弾騒ぎがあって、なくなってしまったんだっけ。  引越ししてからかなりの年月が経って、父と母が相次いで死んだ。そのときのことはあまり思い出したくないのだけれど、これはきっと言っておかなければいけないことだと思うから、言う。  二人とも、私の手の届く場所で、信じられないような顔で急に倒れて、それっきりだった。死因は心停止。それは、何もわかりませんでした、と言っているのに等しかった。死体に疑わしい点は何一つなく、二人は病死として片付けられた。  どうしてそんなことになってしまったのか。医者もわからなかったことを私は知る。  父親が病院に運び込まれたとき、私は何かを思い出せそうな気がしていた。思えば、そこまでだったら今より幸せだったのかもしれない。  母親が私の前で崩れたとき、私は何度も同じことをやってきたように思えた。まだ、戻れたはずだったから。  そして、病院の霊安室でヒロキの涙を拭いてあげたとき、私は失くした記憶を取り戻し、理解して愕然とした。もう、戻れなくなってしまった。  両親を殺したのは、私の能力だったのだ。  私は全てを思い出した。かつて私が好いた男が、最後に私にプレゼントしたお守りが、私の能力を呼び覚ましたことを認識した。  誤解しないで欲しい。私は最初からその力を持っていたの。高梨ヒロコという名前ではなく、もっと違った名前で、もっと違った生き方で、そのときに必要だった力。でも、それから途方もなく長い時と距離があって、私はその力を忘れてしまっていた。  あいつは、その「昔の私」をお守りとして呼び覚ましたの。強い心を持った、素敵な女性だった、彼の知る昔の私をね。  そいつは、力を与えて、両親を殺させた外道? そうとも言えるかもしれない。  でも、私にとっては確かに「お守り」だったのだから、よくわからない。あまり思い出したくないって言ったでしょう。お守りは確かに私を守ったのよ。  ただひとつだけ、気になっているのは、そう。  ヒロキの両親を、永遠に奪ってしまったこと、だけ。  結局、私の携帯電話は見つからなかった。貴重な内容は入っていないからいいのだけれど、壊されてしまったか、どっかに仕舞いこんであるのか。電話でも掛けてみればわかったのかもしれないけど、残念なことに私は自分の番号を記憶していなかった。  電話なんて公衆電話の一つでも捕まえればいいのだけれど、連絡したい相手の番号も、わからなくなってしまった。その代わりと言っては何だけれど、立ち上げっぱなしのパソコンから、トトの残した伝言を知ることができた。 「『携帯は始祖の場所』」  時間を見れば、恐らくこれを踏まえてオールトの雲は動いたはずだ。私が望める何もかもが、全ては結局そこに行き着くというわけか。私はお約束に忠実なトトの趣味に若干呆れながらも、決意を新たにした。行くしかないじゃないの。  それはさておき、日付を見て、私は暗算する。今日の月齢さえわかれば、今はそれでいい。この夜の月齢は十三。明後日の夜が、満月だ。まだ少しだけ時間はあるように思えるけれど、オールトの雲たち、吸血鬼の強硬派が動き始めたなら、話は別だ。彼らは社会に露見するようなことを恐れたりしないし、危なくなれば周りの全てを抹消するくらい当然のようにやってのける。彼らが携帯を手に入れ、本気でその手に収めれば、素人が一日二日で取り返せるようなものではない。  今すぐ。行く必要がある。ヒロキを助けるためにも、トトに会いに行くためにも。  久しぶりの外の風は、私の心の中と寸分違わず、そしていつかの雪山の洞窟みたいに、凄く寒かった。高層マンションの最上階近くから見えるこの街は、ずっと向こうの山すそまで灰色に覆われていて、まるで埃でも積もっているように見える。あの向こう側に、塔でも建っていれば完璧だった。何て名前の塔だったっけ、そう。  そんなことはどうでもいいの。  私は高ぶっていた感情を抑える術を持っていた。これこそが私が吸血鬼として振る舞える武器だ。常に冷徹に、常に、悲しいくらいに、遠巻きに憎んでいれば、私はいい。  だから、私は無鉄砲にオールトの雲を追うことを考え直した。手段を選ばずそこらへんのバイクを掻っ攫い、全速力で飛ばしていけば間に合うだろう。あいつらは人数もいるから準備も移動も時間が掛かるはずだし、オールトの雲は知っての通り、自分本位だ。彼が決断した瞬間に全てが整っていなければならないが、彼が決断するのはいつになるかわからない。厄介な男。  私の能力をもってしても、むしろ、私の能力だからこそ、あの変態はどうにもならない。どうにかなるならこれまでに一度や二度は殺していると思う。直接対決となれば、死ぬのは私のほうだ。能力が発動するよりも前に、私が消し飛んで終わりだ。  でも、ヒロキが楯突いているのだ。確かな情報じゃないけれど、私がそれを見逃すことはできない。変態を私が倒すことができなくとも、ヒロキを助けることさえできればそれでいい。ヒロキがもしオールトの雲と対決せざるを得ない状況ならば、アイツだってバカじゃない。一人で向かうはずもないし、始祖の協力を仰ぐか、少なくとも仲間がそうしようとするだろう。  ならば、私がするべきことは一つ。  どんな犠牲を払ってでも、始祖の下へ赴き、ヒロキを奪って逃げる。シンプルよね。  幸いなことに、私は始祖の家を知っているし、普通以上に詳しいことにも自信がある。多分、オールトの雲より詳しいはずだ。  私は吸血鬼が組織されるよりずっと昔から「お守り」によって能力を持っていたから、ある意味では、始祖より古い吸血鬼だったと言うこともできる。私が始祖と会ったのは吸血鬼の結成より随分と後の話だけれど、始祖は私のことを「トトがかつて気まぐれに作った野良吸血鬼で、取り分け特殊な能力を持ち、副作用を持たない隠し玉」として認識していたはずだ。最近の動向をどう思われているのかはわからないけれど、少なくとも、オールトの雲よりは話が通じる相手だ。  徒歩でも、それほど馬鹿げた時間は掛からないし、オールトの雲の部下がまだうろついている可能性がある以上、私は下手に目立つわけにもいかない。私は始祖の家の隠し通路を幾つか知っているし、山を貫くとびっきりの秘密通路も知ってる。きっと、大丈夫。  畜生。  相手の存在そのものが非合法で警察沙汰にならないからといって、やったこともない侵入なんてのを見よう見まねでやらされた身になってみろ。心臓には自信があるつもりだったが、未だに早い鼓動が収まりそうもないし、手袋の中はじっとりと湿っていて、不快極まりない。  姉貴の家の隣にそびえる高層マンションの一室、名義だけなら何かのマネジメントをやっているような会社の事務所が、吸血鬼の居場所だった。この世界で生き抜くためにそんな偽装を施したことに哀れみこそ覚えるが、むしろ魔王殿のごとくいてくれたほうが侵入する側としては嬉しい。俺の見た目は単なるこそ泥であり、警官に見られたら一発で職質を喰らい、道具類で任意同行を求められる程のものだ。  吸血鬼らしき相手に遭遇したら、何タイプか聞け。聞いて、何のことかわからないようならそいつは吸血鬼ではない。スピードタイプと答えたら、迷わず撃ち殺せ。運が良ければ間に合うかもしれない。パワータイプと答えたら、やっぱり撃ち殺せ。少なくとも殺せるだろうが、運が悪ければ道連れにされるだろう。「それ以外」のタイプだったら、俺はもう死んでいる。  そんな物騒な夢子のアドバイスと指示に基づき、俺は侵入用の道具を買い揃え、技術指導を受けて時間をたっぷり取った後、俺はやっと事務所の戸を叩くことができた。  夢子の話によれば、彼女のデータベースにある吸血鬼は全て外出中との確認が取れているそうだ。一体どこで確認を取ったのかはわからないが、少なくとも、彼女が嘘を言うとは思えない。悪意のままに言葉をぼかすことはあるにせよ、嘘を言う奴ではないからだ。全ての物語が決まった上で配置された村人Aが彼女だ。  だが吸血鬼相手に油断はできない。念には念を入れねばならない相手だからこそ、俺は宗教勧誘の振りをして事務所を訪れることになった。  しかし、チャイムを押せどドアを叩けど返事はなく、試しにドアノブを回せば、鍵さえ掛かってはいなかった。  事務所の中に人の気配はなく、付けっ放しのパソコンの類が唸り声をあげているばかりだった。警戒しながらも一通りの部屋を回ったが、生きている人間一つおらず、その代わりに、知らない男の死体が一つ転がっていて俺を驚かせただけだった。  やっと辿り付いたと思ったのに。  夢子の情報が間違っていたのかと思い片手でコールを掛けながら、男の傍らに転がる中世風の足かせを拾い上げる。べたついているのが手袋越しにわかる。これは、砂糖か?  男の死体には傷がない。死んでからさほど経っているようにも見えないし、むしろただ目を見開いて硬直しているだけにしか見えない。 「……予想外のことが。そちらはどうなっていますか」  珍しく焦っているのか、夢子の言葉はいつもより乱暴だった。俺が事務所の中の様子を伝えると、彼女はじっと押し黙って俺を待たせた後、 「ヒロコさんらしき女性の姿を、先ほど、駅で確認しました」 「駅だと?」  俺は思わず聞き返した。自力で脱出できたなら、それに越したことはない。ここで死んでいる男には申し訳ないが、姉貴と比べれば、俺はこれくらい黙って見逃すしかない。でも、何で家に帰ったり、よく知っているはずの五所瓦組に助けを乞うこともなく、駅へ向かった? 「情報の質が悪かったため断定はできませんが、吸血鬼の事務所にヒロコさんの姿がないとすれば、恐らくその人物はヒロコさん本人でしょう。ヒロコさんは、私の予想していた全てのパターンに嵌らず、彼女自身の力で脱出してしまったようです」  この見張りらしき男を殺してまで、どこかへ。 「姉貴は、どこへ向かうつもりか、わかるか」 「恐らく」  夢子は戦くようにそこで言葉を締めた。予想の範疇にないときこそ人間は本性が現れると言うが、夢子もまた、人間ではあったということらしい。 「始祖。吸血鬼の、始祖と呼ばれる総元締めのところへ向かっていると考えられます。始祖の一派はヒーローさんが今相対している吸血鬼とは決別していますが、かといって決してヒロコさんの味方ということではありません」 「それじゃ、なんで姉貴は」 「私にはわかりません。中立程度であるから、保護を求めたのかもしれませんが……しかしながら、ヒロコさんがもし始祖の下まで辿り着いてしまえば、始祖がいかなる対応をしようと、それを止めることは叶わないでしょう」  姉貴は五所瓦組のことを知っている。それどころか、学生だった俺を引き連れ、組と真っ向から保護を交渉したことさえある胆力の持ち主だ。駆け込み寺に使うならそっちを使うだろう。姉貴は何の理由もなしに危ない橋を渡ったりはしない。 「追えるか」  俺は証拠を残していないことを指差して確認した後、事務所を後にする。高層マンション特有の狭いエレベータに乗り込み、無言の夢子に問い詰めた。 「追えます」  彼女は迷っているようだった。何が因果で俺をここまで助けてくれているのかわからないが、きっと彼女にも理由があるのだろう。  エレベータの防犯カメラに気づいて、不安のない眼差しを心がけてそれをぼんやり見てから、俺は視線をはずす。「こそこそするな」がもっとも大事。 「わかりました」  夢子は俺に一つ念を押した。 「これから私は全力を挙げてヒーローさんをサポートするつもりですが、私がサポートしたこと、した内容、その全てと推測を、未来永劫、秘密にしていただけると約束していただけますか」  明らかになるとまずいことなのか、夢子の声はいつもの淡々としたものに戻っていた。俺が約束する旨を伝えると、彼女はきっかり四秒沈黙して、それから俺に指示を与えた。 「まずはマンションを出て右に曲がってください。歩くスピードは八十メートル毎分としますので、それ以上の速度で行動してください。これから、私が言うまで携帯電話の通話は切らないで下さい。私の指示の意味を尋ねないで下さい」  夢子のナビゲーションを聞きながら、俺は街路を早足で歩いた。八十メートル毎分と言えば不動産で使う数字だが、実際に歩いてみると結構早い。しかも、言われたからにはその数値を下回らないように歩いていったのに、彼女はまるで隣に歩いているように完璧なタイミングで道を案内していったから、休まる暇もなかった。  俺はじきに繁華街に出て、入ったこともない雑居ビルの二階に登りながら財布を開き、金を握ったまま入った見知らぬ店でぴったりの値段のナイフを買い付けた。見たこともない男が突然入ってきて何の迷いもなく商品を名指しし、価格設定どおりの金額をその手に持っている。店主は信じられないと言った顔をしながら俺に物騒な軍用ナイフを手渡した。明らかに非合法の品だった。  パッケージを店に全て押し付けて破棄するよう伝え、ナイフは新調したバッグに入れた。先日使っていたバッグはダメになってしまったから、侵入工具と一緒に改めて仕入れたのだ。銃も入っているからナイフが必要とは思わないのだが、弾もほとんどなくなっていたからだろう。銀二の兄貴は必要な分しか俺に渡さなかったから、「二回分」は想定されておらず、あと一発残っているのみだ。ゴンザレスに弾を貰って置けば良かったと思う。夢子はそんなことまで把握していた。  買い物を終えるや否や、何の愛想もなしに俺は店を後にした。次は駅に向かうのかと思いきや、夢子は半端な路地裏へと導いていく。 「次の角を右に曲がったところに鍵を付けたまま駐輪されたバイクがあります」  俺は耳を疑ったが、足を止めずにそのまま曲がると、確かにバイクがあった。近づいてみれば、鍵は刺しっぱなしでチェーン一つ掛かっていない。 「それを使ってください」  完全に泥棒じゃねえかこれ。  俺はそう思って一瞬躊躇したものの、夢子はこう続けた。 「私の把握しうる全てのパターンの中で、ヒーローさんがヒロコさんに追いつける可能性があるのは、これを使ったときだけです」  可能性、か。  曖昧な言葉だが、ここまでくれば信じるしかない。恐らく足は付かないように取り計らってくれていてのこの選択肢なのだろう。俺はバイクに跨った。超法規的手段が許される。いつか姉貴が言っていた。 「次の指示を」俺は夢子に催促した。  それからの夢子は、物凄い情報量を俺にもたらした。バイクによって速度が上がったためだが、よくもまあ、見ているような風に俺を導けるものだと思う。俺がその指示にきちんと従えたのは、何も考えずにいられたからだ。  違和感はあった。俺が渡った全ての信号は俺の眼前で青になり、渋滞に巻き込まれることもなく、そんなドライブが一体どこの世界にあるだろう。  山の中腹、変電施設を装って入口は隠されている。吸血鬼でも知る人ぞ知る山を貫く隠し通路の入口は、一見ただの変圧器だ。  どうやらここを使った人間はいないらしく、取っ手には埃が被っていた。緊急用なので、無用心だが鍵は掛かっていない。私はそこから地下通路に入り、幾度となく水没したらしい湿っぽい通路をひたすら進んだ。  レンガで積まれた壁越しに、水脈を通じて振動が響いてくる。と言っても音として感じるほどではなく、よくよく神経を研ぎ澄ませれば水面が揺れる程度のものだ。この様子は、接地機関銃だろうか。物騒なものを取り出してくるものだ、と考えながら、私は先を急いだ。  吸血鬼がいかに超人であろうと、銃器で死なないほどの怪物ではない。スピードタイプなら銃弾の軌道を見てから避けることもできるかもしれないが、相手が巧い使い手ならば撃たれてしまうし、撃たれたときのダメージは常人と変わらない。パワータイプならそれ以前の問題だ。ヘッドショットに耐えられる人間なんていやしないのよ。例え吸血鬼の力を得ていてもね。  ただ、あのオールトの雲の能力は、そのどちらとしても特級だった。あのマッハ彗星パンチがちょっと鯖読んでいるとしても、亜音速で動けるスピードタイプなんて私は見たことがないし、その反動に耐えられる程度の丈夫さをあの変態は兼ね備えているということでもある。完全に特殊タイプの領域じゃないの。  特殊タイプは単なる化物。人間にはないはずの特殊な能力を発現させた奴らで、つまり、私を含む。  隠し通路の終端は、ちょうど大広間の暖炉の脇の壁になっていて、巧いことずらすと外せるようになっている。  ただの石の塊なので異様に重いのは仕方ないにせよ、可能な限りゆっくりとずらし、私は始祖の屋敷への侵入を果たした。  そのとき、私はどうして気付かなかったんだろう。私は、私が思ってるほど冷静じゃあないのかもしれない。運がいいとは思ってなかった。でも悪いとも思ってないけど、でもちょっと、これは悪い方なんじゃない?  大広間にいた招かれざる客が、おもむろに私に気付いた。一番会いたくない、オールトの雲が。  その変態は、私が囚われの身だったときと寸分違わぬ笑顔で私を楽しそうに眺める。首を傾げて、戻して、傾げる。 「ヒロコ君! ヒロコ君じゃない、か。こんなところで、奇遇、奇遇」  そんな言葉で片付けられるような状況とは思えないのだが、コイツにとっては何の出来事も恐れるに足らないのだろう。 「実は、やっぱり、強いんだ、ね。嬉しい嬉しい。見張りはどうしたの、殺した? 買った? それとも」  ポケットに手を突っ込み、ヒヨコ頭はピョイン、ピョインと跳ねる。小さい子供なら可愛げもあろうが、四五十は行っていそうな初老の男がやると、どうにも嫌悪感しかない。それとも何なのよ。 「あんた」  私は尋ねることにした。予定通りではないけれど、仕方ない。館の内部にコイツが侵入してるとは、随分出遅れた。 「ヒロキを、知ってる?」 「知ら、ない。見て、ない。聞いて、ない」  オールトの雲は、くつくつと笑った。 「わかった。ヒロキ君が、ここ、に居るだろうと思って、来たんだね。残念。いるのは、僕だけ、だ」  まだヒロキはここに来ていない。あるいは、来ないかもしれない。私は安堵したけれど、同時に危機に直面していることを自覚した。 「そう。……じゃあ、私は帰るわよ」 「ダメダメダメダメダメダメダメ」  ヒヨコ頭をがりがり掻き毟って、何かが散った。オールトの雲は白衣のポケットの中をごそごそ漁って、拳銃を取り出す。 「ヒロコ君は傷つけたく、ない。愛しのヒロコ君。可愛いヒロコ君。違うよ、違うよ、君を女性として見ているんじゃない、プラトニックなんだ」  弁明するように哀れっぽく言いながら、変態は容赦なく私の両足を撃ち抜いた。  激痛。私は倒れる。足先の自由が利かないことから、完全にいかれてしまったことがわかる。 「……っくしょう」  私は呻いた。その様子を満足そうに眺めながら、オールトの雲は言った。 「僕は、君が、好き。君は、強すぎる力に逆らわないし、でも十分に強い。美人だし、美人だし、美人だし、何より瞳が綺麗だ」  ずっと睨みつけている私を意に介す様子もない。コイツは、本当に、ダメだ。  電気の通っているものなら、なんでも夢子の手にあると、俺は気付いた。思い返せばこれまでの全てのネタは、何かの機械の影響下にある。  図面データをどこからか見つけ出して、彼女は隠し通路を見つけたという。山の中腹、変圧器に偽装した入口を俺は潜った。  あとはまっすぐ進めば、始祖の屋敷の中に出られると夢子は言う。俺は足早にぬかるんだ土を歩みながら、彼女に聞いた。 「夢子。何でお前はこんなに手伝ってくれるんだ」  返答はない。こいつは昔から、親戚の俺に対しても容赦なく金を取ってきたある種平等な奴で、また誰かに入れ込むとかそういうことをしそうな人間ではない。人を陥れるのが好きな人間ではないから信じては来たが、正直なところ、疑ったって罰は当たらないと思っている。 「俺がこうすることで、お前にメリットがある。……ってとこか」  投げやりに俺が言うと、夢子は嘆息した。 「親戚だから、貴方のことが好きだから、ではダメでしょうね。私はそういう人間ではありませんから」  よくわかっていらっしゃる。 「私も、吸血鬼と良く似たものだからです。トトと始祖の行いによって生み出された組織としての吸血鬼とは関係ありませんが、私も同類だからです。私にとっても『とっておきの秘密』を公にされて得することは何一つありません。私の手は吸血鬼の組織と違って無力ですが、その秘密が隠蔽してくれる誰かの元に落ち着けば、それでいいのです」  やっと本音を語りやがったが、姉貴も吸血鬼、夢子も吸血鬼。俺の家は蚊の一族か何かかね。 「結局、『とっておきの秘密』って何なんだよ」 「私はそれを知りません」  夢子は答えた。 「推測することはできます。トトは始祖とともに、吸血鬼と言う人間を超えた種族と、ホムンクルスという人間とは異なる種族を作りました。その技術の大本を、彼は秘密として公開しようとしている。そう考えるのが、妥当だと私は思っています」  要するに、既得権益を守る会が組織としての吸血鬼ってわけだ。そう考えると随分安っぽい組織に思えてくる。  たんたん。 「もう少しで通路が終わりますから、通話を切」  声の途中で、俺は通話を切った。隠し通路の向こう、出口のところから、何かを破裂させた音、銃声が響いた。  オールトの雲の視線が、不意に私を離れた。猛烈に嫌な予感がして、そちら、暖炉の方に何とか振り向く。 「姉……貴?」  そこにいたのは、紛れもなく私の弟。ヒロキだった。私の通ってきた地下通路を同じように通り、血に染まった私の横顔を見ている。なんてことだろう。私がもう少しゆっくり来ていれば、こんな再会の仕方をしなくても済んだなんて。私ってば、一体何を。 「来ちゃ、ダメ」  私は激痛を堪えながらうごめき、言う。コイツには、例えヒロキが私の推測どおり無自覚に能力を持っていたとしても、敵わない。敵う気がしない。 「ダメ、来ないで」  オールトの雲が私に近寄って、私の髪を掴んだ。楽しそうに私とヒロキの顔を見比べて、私の頭を恭しく地面に押し付ける。 「良く、良く、似ている! 似てるね! 君達姉弟! 素敵だ、素敵だ、素敵だ」  ヒロキはこの光景をどう思ったのだろう? 押し付けられた手が邪魔して、その顔をちらりとでも窺い知ることはできなかった。 「姉貴ッ!」  銃声が二発、立て続けに鳴った。ヒヨコ頭はひょいひょいと人間離れしたスピードで回避する。彼の手が除けられて、私はようやくヒロキの顔を見ることができた。怒っている。誰に? そりゃ、私にもちょっとくらいは怒ってるでしょうけど、でも。 「クソッ!」  ヒロキは大柄な軍用ナイフを抜いた。普通の人間相手なら十分に殺傷できる、工具でも道具でもない、純粋な武器だった。  対するオールトの雲は、ポケットに手を入れたままで、動じる風もない。 「やめ、て」 「ラアアアアアアアッ!」  弟の雄叫びを、随分久しぶりに聞いた気がする。私の制止はそれに打ち消されてしまい、届いて欲しい誰にも届かなかった。ナイフを大きく振りかぶった屈強な男が、貧弱そうで年老いた白衣に立ち向かっていく。その構図はあまりにも一方的に見えた。  私の頭の中を繰り返していたのは、いつか聞いた吸血鬼の教え。スピードタイプだとわかったら、即座に殺せ。パワータイプだとわかったら、即座に殺せ。特殊タイプだとわかったら、そのときには、お前は死んでいる。  そう。  意識の中だけに残像を刻み、オールトの雲は殺意をもって彼に接した。彼の手の甲が払うに任せてナイフは軽々と砕け、逆手の掌底が「何か赤いもの」を吹き飛ばした。  ヒロキが信じられないような顔をしてゆっくりとそれを見下ろし、倒れる。  オールトの雲が、ヒステリックに高笑いを上げる。私は呆然としてそれを見ていることしかできなかった。 「強い、強い、強い、強い、でも弱い! ははははははははは」  お前が。 「お前……」  私のせいだ。全ては私がいけなかった。こんな吸血鬼の世界に飛び込む原因を作ったのも、こんなつまらないゲームに彼が関わるようになったのも、こうして今オールトの雲が笑っているのも、全て、私のせいだ。 「お前が」  足の骨が砕けてる? 知ったことか。私は無理矢理に立ち上がり、転び、そして立ち上がる。傷口から血が溢れ、壮麗な大広間の一角を汚す。 「ヒロコ君……」  何だその顔は。私はヒヨコ頭を睨みつけながら、もう一度立ち上がる。感動している風にしてるんじゃない。 「弟を思うその気持ち気持ち気持ち気持ち気持ちいい」  うるさい。うるさいうるさいうるさい。私は息を切らせながら、頬を冷たい血が流れるのを感じながら、それでも立った。コイツだけは、コイツだけは許せない。私が悪いの。でも、コイツは許さない。 「何だ何だ、その目。ヒロコ君らしくない。そんな目をしてると、僕は殺さなきゃいけない、じゃない」  ヘラヘラと悪びれる様子もない。そりゃそうね。コイツは人間なんて何人殺してきたかも覚えてないんでしょうから。だから、いいでしょ? 「……殺す」  私は言い切った。武器なんてない。能力なんて当てにならない。返り討ち? 知ったこっちゃない。私はこの男を殺す気で殴れれば、それでいい。 「僕はヒロコ君のこと、好きだよ」  余裕たっぷりにオールトの雲は言う。足を失った私が辿り着くまで、待つつもりだろう。 「だから、傷つけたくないな」  オールトの雲は銃を仕舞いこむ。私はずるずると足を引きずりながら、距離を詰めた。 「お前……がッ」  やっとたどり着いて振り回した私の腕。握った拳は、男の顔面に届くことはなかった。  オールトの雲は受け止めた拳を優しく押しのけ、私の首を絞めた。見る見るうちに景色がかすみ、段々と理解できない光の粒へ変わっていく。 「ヒロコ君のこと好きだから。君の身体が壊れないように、丁寧に殺す、よ」  殺したいほど憎くても、一発殴ることさえ私にはできないのか。こいつの思い通りになって、辱めを受けて、生涯を終わるのか。  いや、私の生涯なんてもうどうでもいい。こんな奴のために、ヒロキは。  どこからか、私の声で『一、二』と数えるのが聞こえる。人生のカウント? 違う、これは確か、  私が誰かを殺すときの声だ。  オールトの雲は目を見開いて私を睨みつけ、そのまま倒れていった。理解できない。ただそれだけの表情を浮かべて。  息を精一杯吸い込み、咳き込んで、それでも言う。急激に私の思考が晴れていく。 「アンタが」 「アンタが私を好きでいてくれたこと、一回だけ、感謝してあげる」  私の能力。それは「四秒間、お互いに殺意を持って触れ合ったとき、相手は殺意によって即死する」もの。複雑な使い方は何一つない、純粋な殺人の能力。  力もない、技もない、何一つなかった私が、ここまで生き延びることのできたたった一つの理由。  いつか私が好きだった男──トトが私に思い出させてくれた「お守り」。ヒロキの両親を奪い、私の身を守ってくれたおまじない。  四秒間は、短いようで、長い。  もしもオールトの雲が全力で私を殺していたら、満たなかった不器用な能力。  私は力を失って倒れた。もう、立っていられるだけの気力はなかった。これまでどうやって立っていたのかも理解できないくらいに、全身から力が抜けていく。吸血鬼として、血を失った感覚は理解している。血をちょっと出しすぎたし、こんなところで補給のあてもない。終わり。  ヒロキは、ヒロキはどうなったのだろう?  私は冷え切って痛む身体をゆっくりと回して、倒れ伏した彼を見つけた。私のことを、ヒロキは見ていた。 「……あ、ね」  胸から空気が漏れているらしい。言えてないじゃないの。私は無様に這いつくばってヒロキに近づき、痛みに上下する彼の身体にそっと腕を回した。  足が打ちぬかれて失血死しそうな私と違って、最初から傷そのものが命を奪っていた。もう、これは助からない。  私は思う。  全ては私のせいだ。ヒロキの人生を、随分と狂わせてしまった。  私がいたから彼は両親を失い、私がいたからヤクザと交流する羽目になり、私がいたからこんなゲームで死ぬことになった。  見た目は荒っぽいけど、いい子なのよ。私が保証する。そんな子を、私は。 「大、丈夫、か」  ヒロキは心配そうに私の頬を撫でた。私なんてどうでもいい。ヒロキはこんなところで死んでほしくない。幸せになってよ。 「姉」  私の視界が歪む。涙かと思ったけれど、それだけじゃなかった。頭に血が回らない。 『ヒロキが、助かればいいのに』  私はその願いを言うことができただろうか。意識が消失したから、その後のことはよくわからない。 「時々思うんだけどさ」  僕は言った。 「IDEA事件の頃の啓一くんはやっぱりちょっとおかしかったよ」  啓一くんは驚いたように首を傾げて、 「そうかな」とだけ答える。 「ペルソナが力を持つIDEAで……いや、みんな色々おかしかったんだけど」 「ちぇーい」  茶化して答えた啓一くんに僕はぷんすか怒って、もういいよ、と話を打ち切る。  しばらくして彼は居た堪れなくなったのか、ごめんなと気のない風に謝った。 「僕が言いたいのはだね」  咳払いをして、僕は言う。 「僕らはペルソナを被っていたけれど、もしかすると、僕ら自身がペルソナみたいなもので……実は被られているんじゃないかって」  啓一くんはしばらく真剣にその言葉を考えていたが、唐突に笑い始める。 「ゲームのやりすぎだ。春日はハイデッガーの次の次に英雄血が濃い。やったーやったぞ」  僕は憤慨した。  それから。  私たちは、助かった。  五所瓦組の計らいによって病院の素敵な個室をあてがわれたヒロキは、現在長期入院中。  私はといえば、両足骨折だったというのに既に退院させられている。足の調子は依然悪いので、松葉杖を突きつつも通院中だ。  後で銀二さんに聞いてみたところ、どうやら私たちを助けてくれたのはあの夢子さんだったらしい。夢子さんが私たちの顛末を察知して、銀二さんに救助を要請してくれたお陰で助かったという。ヒロキのバッグを調べてみると、彼女の発信機が見つかった。どこかで接触したときに付けられていたらしい。あの女、やっぱり私は好きになれない。  私が見て致命傷だったヒロキも、助け出されてみるとそれほどではなかったらしい。あのオールトの雲がそんなミスをするとは到底思えないのだけれど、実際にそうだったのだから仕方がない。つまるところ、私は助かる程度のヒロキを見て死ぬものだと思って激昂し、アイツに立ち向かったってこと。顔が赤くなるわ。 「助かったから、いいじゃねーか」  ヒロキは私の差し入れたイチゴをつまみながら言う。無体だけど、その通りだ。  私の能力のこととか、全部話したのに、ヒロキはいつも通りに文句を言うだけだ。いい弟よ、本当に。 「それもそうね」  差し入れのはずのイチゴをヒロキより多く食べている私に、ヒロキは突っ込みを入れない。気付いていないって事はないだろう。あのとき『いちごぱへ』を頼み損ねたときから、ずっと食べたかったのよイチゴ。  ゲームのことは、どうなったかわからない。わからないってことを、ヒロキにも正直に伝えた。ツイッターには「終わり」とだけ書かれていることから、トトは無事なんだろうと推測できるけど、音沙汰もないのではっきりとは言えない。  トトのことだから、一応きちんと終わらせたんだろうけど、騒がしい新たな事件も起きていないことを考えると、多分「とっておきの秘密」は秘密裏に処理されて終わったんだろう。多分ね。  最近のニュースは、ゲーム内で起きたらしい幾つもの抗争について、今更連続殺人だの猟奇殺人だのと取り上げてばかりだ。ある建物から拷問を受けて衰弱した若い男性が救出されたと、先日の新聞の一面に書いてあった。これもゲームの犠牲者なのだろうが、今週はそのニュースばかりだ。 「じゃあ、また来るわね」  私はヒロキに微笑みかけて、それで病室を後にした。私が笑うのをヒロキは複雑そうに見ていたけれど、最近は柔らかく微笑み返してくれるようになった。  これからもしばらくはゲームの余波がニュースに流れるだろう。  けれど、そのどれもが終わった話なのだと知る人は少ない。私だって、このゲームの全てを見てきたわけじゃないのだ。ちょっとだけ人より多く見てきたというだけで。  全部見た奴は、これで満足なのかしら?  私はトトの顔を思い浮かべながら、病院の忙しげな雑踏を眺める。  色々な人が身体や、心や、お金や、名誉や、そして命を失い、あるいは得た。病院はその縮図みたいなもので、この中にはゲームの参加者だった人もいるかもしれない。  ゲームは終わった。それは確かなことだと思う。私は携帯争奪ゲームに負けて、賞金も情報も得られなかった。そんなものはどうでもよかったけど、トトに会うことも出来なかった。  美形でもなく、不細工でもなく、背格好は高くなく、低くもない。細くもなければ太くもない。そんな顔を捜す。  あの男は彼より少し美形で風邪を引いているらしい。あの少年は、ちょっと不細工だけど何で病院にいるのかわからないくらい元気そうだ。あの女はちょっと背が高すぎるし、あの老婆は小太りが過ぎている。平均的な人間というのは、実はどこにもいない。  私は帰ることにした。家はダメになっちゃったから、今は銀二さんのところに厄介になっている。あの人はヒロキには甘いから、なんだかんだ言って私にも優しくしてくれている。何かとお金の入用な状態だし、もう少しお世話になっていてもいいかな。  能力を使っての稼ぎも、足を洗った。むしろ、何だかもう、使える気がしない。あの日に使いきってしまったような感覚があるのだ。  トトに聞けば、解るのかしら。  逢えないのにね、と自分に笑いつつ、未練たっぷりな女だと思った。  病院の古びた自動ドアの向こうに、私はトトの姿を見た。気のせいだけれど、トトってそんなもんなのよね。  私は何を言うべきか、少し頭の中を整理して、決めた。  貴方のことだから、忘れてるんでしょうね。私も、随分変わっちゃったし。でも、多分言ったら思い出してくれるわよね。  永遠に、私は貴方の妻ですから。貴方が私の夫でなくても。 「そうでしょ、トト。   ──私、イサヨよ」 ED:B「X in the sky with Y」