B71 絵空つぐみ  何が楽しいのか、ヒヨコ頭は鼻歌と共に現れ、あやしい踊りを踊っては私の前を行き来する。  どこか懐かしい匂いのする愉快なメスっ気溢れるメロディ。そういうのはツインテの女の子が歌えばいいのよ。 「何よ」  ツッコミ待ちに耐え切れなかった私に、にんまりと男は笑った。 「好きな、曲を、好きなとき、に、歌う。ヒロコ君も、どうだい」 「断る」  我ながら驚くほどの速度で即答した。男はあまりの私の剣幕にか、びくっと震えた。  そのまま彼は俯いてプルプルと震え、そして盛大に笑う。畜生。 「素晴らしい! 素晴らしい! 素晴らしい!!」  心底どうでもいい賞賛の嵐に、私は可能な限り冷たい視線をもって応える。こんな視線も慣れたものだけれど、私は決して悪女じゃない……と思う。 「ああ、ヒロコ君ヒロコ君ッ!」  常軌を逸した興奮振り、そしてタコのように尖らせた口先、そこから舌がちろちろ見える。吐き気を覚える。私が思わず身を縮ませると、彼は一転して絶望の表情に変わる。 「大丈夫! 君が良いと言わない限り、僕は触らない、触らないよ」  絶望した彼は眉尻を盛大に下ろし、あたふたと私の顔を覗きこむ。  変態だとは知っていたけど、まさかこれほどアレな人だとは思わなかった。許可がなければ干渉しないという強迫観念でもあるのか、どうやら身はまだ安全そうではあるものの、そういう問題じゃない。 「……気持ち悪い」  思わず言ってしまって、それからしまったと思った。彼を怒らせるのは私の今の望むところではない。彼の部下を全員皆殺しにするなんて。  私の台詞に彼は完全に止まってしまった。瞬き一つせず、息一つ、もしかすると心臓さえ止まっているのではないか。そこまで思った頃に、彼はけらけらと笑い始める。この×××野郎。 「そう、そう、それ。それでこそ、それでこそ、ヒロコ君」  私のことをどう思ってるんだこの外道。 「君の強さ、秘訣は、何かあるのかな」 「あったとして、教える義理もないわ」  私は溜息を付いた。ヒヨコ頭は白衣のポケットに手を突っ込み、パタパタ羽ばたくように中で動かし、その間、思考をまとめる。 「僕を殺すこと、簡単だと思ってる、とか。怖い、怖いなあ!」  したり顔で言い、そして必要以上に怖がって見せて、リアクションが終わるとしたり顔に戻る。 「ワープ! とか」  彼は私を掠めるようにジャンプして、着地してポーズを取る。運動能力はそう高くないのか、もっさりした低空の短距離立ち幅跳びだったが、体操選手風の決めポーズだけはしっかりしている。そのドヤ顔が私をイラつかせるのは言うまでもない。 「できたら逃げるの簡単、簡単。ヒロコ君、なら、できる? かも?」  そりゃそうね。でも一つだけ問題がある。 「そんなのできたら、真っ先にあんたから逃げてるわ」 「えー」  不満そうに口を尖らせ、いじけて私の足元にののワを書きやがり、そしてぴょいと立ち上がる。 「そう、だね。そしたら、追うよ。灰色ヶ原のどこ、でも。日本中? 世界中。宇宙はちょっと、難しい」 「それはどうも」  彼は私のぞんざいな台詞を嬉しく受け取ったらしい。 「宇宙も、頑張」 「失礼しますっ!」  ノックしながら戸を開くという最低最悪の下っ端技能を発揮しながら若い男が入ってくる。見覚えがある。確かヒヨコ頭の部下の、 「ナス男」  ヒヨコ頭がつかつかと彼に近づき、その額を掴む。アルナスルのコードネームで知られる彼、通称ナス男は、反射神経と視覚、そして微細感覚を極限まで引き伸ばした射手の吸血鬼だったはずだが、彼は避けることができず捕まれてしまった。 「僕は機嫌が悪い。悪くなった」 「は、はい……しかし」  なにやら言い分があるようで、ヒヨコ変態はその手の圧力を弱めた。ナス男は冷や汗を描きながら慌てて理由を説明する。 「神崎姉弟の始末に、失敗しました」  屋内のはずだ。私は怖気を覚えて体を抑える。屋内なのに、風が吹いた。誰かが風を起こしたかのような、突風。 「詳しく聞こ、じゃないの」  ヒヨコ頭は言った。ナス男の目尻に恐怖が映っている。  私は心の中で呟いた。オールトの雲……  アルナスルは語った。神崎姉弟を路地に挟み撃ちにしたところまでは良かったが、身元不明の加勢の妨害によってその最後の一手を打つことができなかった。神崎姉の圧倒的な剣さばきの前で遠距離射撃はさほど役に立たない。そのために彼を含めて超遠距離狙撃に特化した吸血鬼が短距離用の拳銃しか持っておらず、かえって妨害の前では狙いを定めることさえ叶わない逆効果だった、という。 「ふぅーん。そんな、こと、あったんだ」  雲は面白くなさそうにその話を聞いて、わざわざ私の前に持ってこさせたフッカフカのソファをゴロゴロ転がる。 「で」  不安定なゴロつき具合でぴたりと止まり、 「その加勢って、の、何さ。確か、エアガン、使いと? 近接で吸血鬼を仕留め、る、女?」明確に女に興味を示しつつ、再びゴロゴロし始める。 「はい! エアガン使いは高地に陣取られたためその姿を確認することは叶いませんでしたが、改造銃を正確に整備し射撃する能力を持つ……恐らく、体格からして男であったかと思われます」 「察せ」  私の前に汚らしい革靴を下ろし、ヒヨコ頭をボリボリ掻いてそいつは言う。 「女、は?」  ナス男はそこまで言われてやっと気が付いたらしく、慌てて唸った。 「女は、ですね……小柄なそこら辺にいそうな少女なのですが、なにやら近寄ると特殊な能力……でしょうか」  どうやらおかしなことになっていたらしい。モゴモゴ言って、それから諦めたように、 「近寄ることに成功した吸血鬼を、一人で触れもせず止めたのです」  なんだそりゃ。私は思わず眉をひそめた。どうやらヒヨコ頭も同じように疑ったらしく、 「単なる、女の、子が? 選りすぐり、の、怖い、怖ーい吸血鬼、を?」  ナス男は頷く。 「そ、かー」ヒヨコ頭はううーんと唸って、 「その男、ヒロキ君だったりしない?」と呟く。私は一瞬だけ身じろいだ。ヒロキは五所瓦組で銃の訓練くらい受けている。可能性は、ある。  オールトの雲は、そんな私の様子を見てもう一度唸り声を上げ、ソファーに顔を突っ込む。綿に押し殺されて声が響く。 「いい、や。確かめりゃ、いい、ね」  そうしよう、そうしよう、と繰り返しながらヒヨコ頭は行儀良く座り直す。 「女の子、可愛かった?」  唐突な質問にナス男がたじろぐと、制限時間が過ぎたのか、ヒヨコ頭は頬を膨らませてブザー音を口にした。 「いい、や。はっきり答えられない、なら」  これまでの唐突な動きと異なって、すうっと緩やかな動作で立ち上がり、ナス男の胸に拳を軽く当てる。  パン、と明るい音がして、男の胸に穴が開く。壁に跳ね返ったその部分の「塊」が、私の足元まで転がってきてぶつかった。アルナスルが、理解できないまま絶命したのを私は理解して、思わず悲鳴を上げそうになる。 「あれ」  私が呆然とその光景を見詰めていると、オールトの雲は意外そうな顔をした。 「ヒロコ君、知らなかった、っけ」 「何を、よ……!」  やっと出た声は、いつも以上に上ずったものだった。彼の突き出した拳は、血に塗れていない。むしろ、何をしたというのだ? 「僕の必殺技。オールトの雲の、彗星パンチ。マッハ」  冗談じゃない。人間が、例え吸血鬼の力を得たとしたって、本当にマッハで拳が振るえるわけが。 「ま、そういう、こと。大丈夫、大丈夫。ヒロコ君には、使わないから。肉になっちゃう、から、ね」  塊から、取り残された血が染み出してくる。どこの部位だかもわからない肉の塊。まるでマッハでダルマ落としされたみたいな……冗談じゃない。本当に、マジで、こんなバケモノだったの? 聞いてない。  私は祈り、オールトの雲がふらふらと遊びに行くように出て行ったのを見た。  願わくば、あのバケモノとヒロキが出会うことのないように。神様なんて信じてないけど。頼むわよ、ねえ、トト…… 「ヒーローさん」  暗がりで安静にしていた俺を目覚めさせたのは、どこかで聞いた甘っちろい声だった。 「ヒーローさん」  俺がその声を聞きながらボーっとしていると、再び声が響く。 「夢子です」  驚いた。向こうからやってくるような甲斐性の持ち主だったとはな。俺はそっとドアの鍵を外す。敵か味方かっちゃ、味方だろう。多分。 「お久しぶりです」  僅かに開いたドアの向こう側、何の特徴もない、美人でも不細工でもなく、印象に残らない女性的な姿が俺の傷口をまじまじと見詰めている。街を映した写真にいるような印象を抱かせる女性。俺の怪我について、少しでも情報を得ようという魂胆が透けて見える。 「入んな」立ち話も何だ。俺は夢子を招きいれ、しっかりと鍵を掛け直す。 「用心深いのか、そうでないのか。わかりません、相変わらず」  夢子のぼやきに俺は答える。 「てめえは親戚だろうが。親戚くらい信用したっていいだろ」依田んちの娘。夢子と名乗るこの女は、実は俺のいとこに当たる。といっても血のつながりだけで、依田家から勘当された放蕩女だ。 「ヒーローさんは、見た目より、ずっと家族思いなんですね」 「うるせえ」  俺はそう突っ返したが、あんまり強く言い返すことは出来なかった。 「ヒロコさんも、きっと信じているのでしょうね」 「当たり前だ」  俺がはっきりと答えると、夢子は目を瞑ってしばらく考えをまとめた。 「わかりました。ヒロコさんの居場所が、わかりました」 「つまり、姉貴は……自分ちのお隣さんにさらわれたってことか」  俺は一通りの話を聞いて、なんだか悲しくなった。  ヒロコ姉はオールトの雲と呼ばれる吸血鬼組織のナンバー2によって拉致監禁されているらしい。オールトの雲は詳細こそ不明だが吸血鬼として何の力もないはずはなく、現実に幾つかの凶悪犯罪と関わっているという。普通なら係わり合いなど持ちたくもない相手だが、今回ばかりはそうとも言っていられない。  そんなオールトの雲の事務所が、姉貴のボロアパートと同じ住所に立つ例の高層マンションに入っている、というのだ。  情報が入ったのはものの数時間前。何者かが事務所のネットワークに侵入しては好き勝手情報を見た挙句破壊したというところから話は始まる。夢子はその動きを察知し、相乗りする形で情報を得ることができた。ちなみに破壊されたほうはたまったものではなく、大混乱だったそうだ。  彼らはネットワークが復旧してすぐに各地の配下へ連絡を行ったが、夢子にマークされたままの無防備に流したものだから、その内容は完全に筒抜けとなって俺の元にも届いた。彼らは『始祖』の元へと向かうという。 「重ねて言いますが」夢子は言う。「オールトの雲だけではありません。彼ら吸血鬼は、トトの持ち込んだ技法の一端を利用し、その身体能力の向上を果たしたものたち。普通の人間が生身で太刀打ちできる相手ではありません」  ついちょっと前にそんな相手とチャンバラしたことが頭を過ぎる。 「しかしながら、武器があれば、わかりません。一人二人くらいなら、何とかなるかもしれません。幸いにして、オールトの雲は、全勢力を傾けたところなのですから」  オールトの雲を始め、戦力となる構成員は全て始祖の元へ向かったそうだ。つまり、事務所は空。辛うじて一名の下っ端が「ヒロコの監視」を言いつけられているらしい。 「危険、か?」俺は尋ねた。 「危険です」当然だ、と言わんばかりに夢子は言った。  でも、だな。俺は夢子に礼を言った。ここまで来たのだ。そして、最大のチャンスだと、お前も言った。 「気をつけて、ヒーロー」  誰がヒーローかね。でも、行くぜ。  箱男は箱の中でくつくつと笑った。 「電子回路の引き篭もりが夕方のお散歩だからな」 「私が外に出ていては、いけませんか?」 「悪かないさ。『夢見る精密機械』『電子の悪魔』ともあろう奴が、珍しいこともあるもんだってな」  冷やかす台詞を意にも介さず、女は応える。 「『夢子』以外の名前は嫌いです」  杓子定規に、あくまでそういう規則なのだと言わんばかりの事務的な物言いだった。 「ありがとうございました、箱男。確かに高梨ヒロキと接触することができました。助かりました」 「気持ち悪いなこりゃ」  目の前で深々と頭を下げる女に、箱男はぼやいた。  ヒロコは、悩んでいた。  オールトの雲は、仲間を引き連れて始祖のところへ行ったらしい。どうやら、この建物にいるのは、私と監視役だけ。うだつの上がらない、ちょっとだけ普通の人より筋力のある吸血鬼が一人。 「そろそろ、きっと……」そろそろ、満月になる頃合だろう。ゲームが終われば、私は無事に解放される、かもしれない。オールトの雲は変態に違いないが、その機嫌を損ねない限り、決して無意味に害を与えない男だ。  しかし。  もし、あの報告にあった男が、ヒロキだったとしたら。ヒロキとオールトの雲が、始祖の前で激突するとしたら。  考えたくもない。ヒロキの胸元に風穴が開く姿なんて、見たくもない。 「トト」私は呟く。  その声が聞こえたのか、監視役の吸血鬼がふとこちらを見た。 「何か言ったか」  それだけは、ない。ありえない。あっちゃいけない。あって欲しくない。私は決心した。 「……ええ」  ゴメンね、名も知らない監視役の君。  死んでもらいました。  久しぶりの外の風は、私の心の中と寸分違わず、そしていつかの雪山の洞窟みたいに、凄く寒かった。  トトさんトトさん。  呼ぶ声が聞こえます。麒麟でしょう。でもどこから呼んでるのかわからず、私は緩慢に首を振ってそれを探します。 「トトさんトトさん」  見えました。テーブルの端から、頭の先っぽだけ見えています。  私は役所への届出書類をフォルダに入れてしまうと、答えました。 「どうしたの」 「あれ、トトさんイメージ違うね今日」  それは多分お互い様なのでしょう。そういう世界なのです。本日の当番はサービスカットが発禁になるような人です。 「へええ」  どこに感心する要素があったかわかりませんが、麒麟は話を摩り替えます。「何書いてたのさ」 「役所に提出する書類を一式書いていたよ」  もっとも、私の分ではないのですが。麒麟の分でもないのです。架空の人物の戸籍を作るためのちょっとした裏道の書類です。作るかもしれませんし、今日の夕飯の薪に使われるかもしれません。インクのノリがよくなければそうするでしょう。 「へええ」  やっぱりわかりませんでした。今度は私が質問をするほうがいいかと思いました。 「そうだ。今日はどこに携帯あるかな」 「へ? トトさんから聞くなんて珍しいねえ」そういえばそうですが、そろそろ終わりなので。 「だよねえ。ううーん。何か、シソ?」  麒麟は始祖の意味がわからず、音だけ理解していたようです。彼は梅干の上手な漬け方とか考えている様子ですが、私はそのフォローをしないことにしました。それにしたって、おあつらえ向きの場所になったものだと思います。 「携帯は始祖の場所」  私は呟きました。物理的な奴じゃなくて、ツイッターです。  今更ながらにお教えしますと、携帯の場所は某haiirogahara Botが呟いていたのです。