B67 絵空つぐみ  灰色ヶ原駅の近くに、古い地下街がある。  かつて景気が良かった頃には賑わいを見せていたのだろうが、どうしても薄暗くアングラの雰囲気が漂う地下街が不況の波を耐え切ることは出来なかった。今となってはシャッターが並ぶばかりで、辛うじて生き残っている古ぼけたスナックの類も、金回りが良いとは到底思えない有様になっている。  俺は自分で書きとめたメモを頼りに、そのシャッターの一つ一つを注意深く数えていた。  部屋番だけ教えられても、見た感じでわかるように作られていないのだ。  元々はどこかに書かれていたのかもしれないが、入口に掲示したプラスチックの案内図でさえ真っ二つになっていたり落書きでありもしない廊下が増えている有様、期待するだけ無駄というものだ。  ともあれ、辛うじて読み取れた地図と部屋番号から、なんとかお目当ての場所へたどり着こうとしていた。  回廊型になっている地下街の、角を曲がると代わり映えのしない風景。  俺はふと、端っこに座り込んでいる人影に目が留まった。  地下街には誰一人歩いていないが、一人だけ座り込んでいる。黒いレインコートを羽織った、細い人間。  薬中か何かかと思って通り過ぎようとしたが、あまりにも小奇麗な上、しゃがみこんで携帯を弄っている。そんな薬中がどこにいるだろう。俺は何の気もなしに通り過ぎようとしたが、ふとその視線が戻る。──Z404だった。  その瞬間、人物は手元のZ404を無造作に落とし、両手にナイフを取った。ゆらりと立ち上がり、俺の前を塞ぐ。  美しく手入れされた軍用ナイフは、手首にでもしまってあったのか、まるでマジックのような手さばきで現れた。 「お兄さん、これ、知ってるんだ」  どこかで聞いたことある声が地下街に響いた。  フードの下の顔にも、見覚えがある。いつか姉貴が言っていた。 「……これ?」 「途方もなく、運が悪いね、君」  光源は、俺のちょうど真上にある古い蛍光灯と、そいつのもっと先にある蛍光灯くらいなもの。フードの奥は、薄暗くて見辛い。しかし、見える。  こいつは、クリシュナだ。  姉貴が言っていた、あのときの、姉貴を張り倒していちごぱへ塗れにした、あのウエイトレス。  しかし、なんだか無性にイメージが違う。クリシュナは俺の顔を知っているはずなのに、知っている風もなく、ぼんやりとしている。そもそも、こんな落ち着き払った、枯れ切ったような人間だっただろうか。 「何がだ」  運が悪いのは確かだが、こっちにも武器はある。俺はそっとバッグの中に手を突っ込んだ。  クリシュナの足が動き、落ちていたZ404を蹴った。滑らかなウレタン塗りの薄汚れた緑色の上を、携帯が転がっていく。俺はそれが止まるのを見届ける前に、猛烈な悪寒を感じて一歩退き、左手で顔を覆った。  枕に飛び込んだ時のような、深く鈍い音がして、左手の感覚がわからなくなる。  痛い、と思ったのはその後だ。 「やるね」  刺された。首を守っていた左の前腕が、燃えるように痛む。クリシュナはねじるようにその傷口を広げると、ナイフを抜いた。せき止められていた血が、まるで痰を吐いたみたいに床に散らばる。俺はもう一歩退いた。  俺が意識を奪われた瞬間に、やられた。何の躊躇もなく、ブスリだ。 「っく、しょう」  あまりの痛みに悪態を付きながらも、バッグにつっこんだ右手は忘れない。こんなときだというのに、肝心の銃が出てこない。俺がもぞもぞ手を動かしていることに気付いたらしく、 「武器、入ってるんだ?」クリシュナは言い、ぴたりとそちらにナイフを向けた。先ほど俺を刺したナイフではなく、反対側。俺を刺したナイフは、後ろ手に持っているのか見える様子がない。 「かもな」  俺はやっと引き金を見つけ、指を通す。 「銃、と見た。間に合わないと思うけど、やってみる?」 「間に、合わない?」 「構えた瞬間に、ブスリ。間に合わないよ」クリシュナは笑った。  そうかもしれない。俺は武術もやっていないただのちょっと丈夫なだけのチンピラ。向こうは、何だ? 「悪いが」  俺は強がって言った。 「無理だからって何もしないのだけは、性に合わなくてな」  姉貴直伝。世の中には喰らい付いていけ。  持ち上がった俺の右手が、クリシュナの体に射線を作ろうとする。そのとき、既に俺の眼前にナイフが踊っていた。  ああ、間に合うねえ、これ。 「ぼん、やり。どうしたの、ヒロコ君」  女は思わず顔をこわばらせたが、ぐっと堪えて眼前の顔から目を背けた。  ヒヨコ頭の白衣の男。吸血鬼の中でも曲者で、始祖の次に偉いという。吸血鬼なのに戦闘向きではないと当人は語るが、そんな暴れられない吸血鬼がナンバー2になれるほどこの業界は甘くはない。  怒らせれば、危うい。死ぬことはないが、今はダメだ。女は思った。 「別にいいじゃない」 「いい、よ。ぼんやりヒロコ君、それも、また、美しい」  でゅふふとヒヨコ頭が笑って揺れる。 「ホント、ド変態ね」  女がついた悪態も、男は楽しそうに受け取って笑った。 「さ、っすが。さすが。ヒロコ君は頑丈だね、心が。頑丈頑丈」 「褒めてるようにちっとも聞こえないわ」  嘆息交じりに女は答え、足をもぞもぞ動かし、鎖をじゃらりとさせた。 「君に似た、かな」  男は頭をぼりぼり掻きながら言う。 「ヒロキ君、捕まらない。呼んでもこない、ね」 「そう」  男は怪訝な顔をして、それから熊のように行ったりきたりして思考をめぐらせてから、 「残念? 残念そうな、顔をしている」 「そうかしら」  つんと澄まして女は応えた。 「そう、そう。残念そうだ。理解に苦しいよ、ヒロコ君。理解できない……理解」  男は歩みを止め、ゆっくりと踵を返し、女に顔を近づける。 「どういうこと? 言え」  じっと見つめる男の視線に、女は深々と溜息を付いた。 「アンタ達如きじゃ、ヒロキは殺せないし。捕まったほうが、実は安全なのかしら、と思ってね」 「殺せ、ない? ただの、素人の、チンピラ。殺せない……殺せない」  男は腕を組んでうんうん唸った後、 「そう信じたいんだね。わかる、わかるよ。ヒロコ君、弟思い、だから、ね」 「そう思うなら、そう思っときなさい」  女は言い捨てた。  そこに、慌てて第三の男が駆け込んできた。 「大変です! 寝返りが出ました!」  白衣の男は猛烈に気分を害した表情でそちらを見、 「誰が、誰に、どう、寝返った、のかな」と問いかける。 「ええと、街に放っていた携帯回収班のおおよそ三十名ほどが連絡不能です。神崎姉弟の持つ携帯を狙っているとの情報も!」 「ううーん」  間の抜けた声で腕を組み、ヒヨコ頭は盛大に体を傾けて考え込む。 「神崎君の持ってる携帯、確か、有力?」 「はい!」 「寝返ろ、か」  男は晩飯を決めるような適当な口調で言う。それを受けた部下らしき男が見る見る青ざめる。 「か、神崎姉弟は始祖直属ですよ!?」 「うん、そう、だね。いいじゃない」  明日は晴れるとでも言わんばかりに軽々しく続け、捕らえた女の足の周りをうろうろする。しばらくして飽きたのか、小窓から外を覗いて、 「要は、ゲームで、勝てばいい。そう、だろ?」 「そんな」 「四の五の言わずさっさと行け下郎。全員に伝えろ」笑顔のまま、白衣を翻して宣言した。  部下らしき男は、慌ててそれを了承し、出て行った。  後に残されたヒヨコ頭は、ヒロコにニンマリ笑いかけ、 「ま、そ、いう、ことだから」 「正気じゃないわ」 「知、ってる。常識は全て知って、るけど、それだけじゃ、つまらないし。ヒロコ君が、ヒロキ君が死なないって信じてるみたいに」 「信じてないわ」  ヒロコは言った。 「アイツは、死なない。アンタ達みたいな三下には、絶対に殺されない。そう、決まってるの」 「興味深い、兄弟愛、だね」  ヒヨコ頭はそう言って得心し、楽しそうにヒョコヒョコと出て行った。 「事実よ、バカ野郎……」  耳が痛くなるほどの轟音が、地下街に響いた。  そして鋭く白い欠片が、空から降り注ぐ。俺の視界の中、女にだけ、降り注ぐ。  雪じゃない。  俺のかかとが女の腹部を打ちぬいて、軽々と数メーター吹き飛ばした。  俺がゆっくり下ろした右手は、まだバッグの中にある。その黒光りする表面の革には大きな傷とともにナイフが突き刺さったままになっているし、風穴も開いていた。もう、このバッグは使い物にならない。  射線は作らなかった。作ろうとしなかった。俺は、バッグの中の銃を握ったままの右腕を、そのまま迫るナイフに叩きつけただけだ。 「動くな」改めて銃を抜き、クリシュナを警告する。  思わず引き金を引いてしまったのも、その弾丸がちょうど蛍光灯に当たったのも、そしてそれに彼女が怯んだのも、偶然だ。 「……運がないんだよね、本当」  クリシュナは悟ったように言った。若く見えるが、諦めが早いのは、どういう人生を送ってきたか解る気がした。 「諦めるのは僕も嫌いなんだけどね……良いよ、兄ちゃん。煮るなり焼くなり好きなようにすればいい」  俺は彼女に銃口を向けたまま、血まみれで震える左手を使ってどうにか携帯を取り出し、銀次の兄貴に連絡をつける。 「でも、僕に勝っちゃうなんて、兄ちゃん、バケモノだね」  俺と銀次の兄貴の会話を聞きながら、クリシュナは言う。  確かにクリシュナはぞっとするほどの手慣れだったが、俺は運と武器で勝ったようなもので、バケモノ呼ばわりされるのは心外だ。とはいえ電話中の身であるゆえ、反論はしなかった。  俺が通話を終えると、クリシュナは曖昧な笑顔で言った。 「僕がクリシュナってこと知ってたんだ。兄ちゃん、本当に何者なの?」 「ただのチンピラだ」  そう。俺はただのチンピラに過ぎない。ヒーローでも悪役でもない。汚い手は使うし、自分の身が一番大事だ。使命感や、誰かのためとか、そんなことはあまりない。ただ襲われたからやりかえしたまでで、でも。 「お前、クリシュナ。健、五所瓦健って覚えてるか」  彼女は少しの間考えていたが、やがて残念そうに首を振った。  いつのまにかに取れかかっていたフードがずり落ちて、一本飛び出した髪の毛がふにょりと動いた。 「そうか」  俺は、多分難しい表情をしていたに違いない。  コイツは多分、健を殺した。けれどそんなことさえ覚えていないという。人間のやることとは思えないけれど、でも、多くの人を殺したとき、俺もそうなってしまうのだろう。何となくそれが解った。 「君は、その健君の」 「いや」  俺は先手を打った。 「ただ聞いてみただけだ。健のために、お前をどうこうしたわけじゃない」 「そっか」  クリシュナは嬉しそうに笑った。どこに嬉しい要素があったのかわからないが。 「君、本当に運が悪くて、本当に運が良いんだね」  その言葉に、俺は返す言葉もなかった。  それからしばらくしてゴンザレスがやってきて、彼女を縛り上げて回収していった。  俺の怪我には一切触れることなく、淡々と彼女を持っていくだけ持っていって、俺は取り残される。左手は動くし深手ではないものの、そりゃないだろ。ちったあ心配するか傷薬の一つでも置いていけ。  取り残された俺を、地下街の薄ら寒い沈黙が包む。血は止まったものの、正直洒落にならない。さっさとあてがわれた部屋に篭り、治療に専念する必要がある。  それにしたって、こんだけ騒いだというのに、誰一人出てくる様子はない。  銀次の兄貴が用意してくれた潜伏場所は、それほど物騒な地下街の一室だった。 「『誰か』以外に殺されないが、常に『誰か』に近づいてしまう──不可避の障壁(ボス・キャラクター)、か」  女は付け足して、言った。