B22 絵空つぐみ  女の子を押し倒しただけでは済まなかった。信号無視の車に激突しかけ、ついでにゴミ袋につまずき、食事を邪魔したとはいえカラスに突付かれ、忠実な番犬には吠え立てられ、交番のおまわりさんには不審者扱いされてみっちり職質を受け(生憎と身分上は潔白なので困りはしなかったが)、最終的には猫の尻尾を踏んづけて猫パンチがクリティカルヒット。すまんタマ(仮称)。あれは確かに俺が悪かった。  そうこうして一年分くらいの不運を浴びた俺は携帯追跡事業の先行き不透明に撤退を余儀なくされ、うざったいくらい輝く太陽の下、駅前の噴水に座り込み、ぼろきれみたいにうなだれていた。傍目から見て酷いザマなのはわかっているが、こうなるに理由があったことだけはぜひとも御理解いただきたい。 「無能ね」  だが、電波の向こうの姉貴はそう斬って捨てた。この身の不幸を一々全部説明したわけではないが、どこか悲しくなる。 「そっちこそどうなんだよ。ええと、あー。クリシュナとやらはどうなった。女同士の友情でも育んだか?」 「残念ながら何一つ。アンタの期待してるような生暖かい展開もなしよ。そもそも話せるタイミングがなかったんだけどね……クリシュナが店員だったのが良くなかったのね。私とあの子は別の部屋でお説教とお会計……終わったときにはドロン。今は何処で何をしてるやら」  ドロンて。今時誰も言わんぞ。俺が時代錯誤に溜息をつくと、姉貴は無体な言葉を続けた。 「アンタにあの子を連れ去ってもらえればよかったのかしら。お持ち帰りしてからみっちり尋問?」 「……街ん中女の子抱えて走って逃げろってか?」 「ヒロキならやってやれないこたないでしょ。パワー系だし」 「できるできないの問題じゃねーよ。んなことしたら大事になんだろが」 「いいじゃないヒロキ。アンタの大好きな超法規的手段よ。私の意向にも沿う最高のプランだったわ」  姉貴は冗談っぽく言ったが、俺はそれが割と本気であることを理解している。次があればやらされる。多分。 「超法規だろうと、警察のお世話にゃできるだけなりたくねーっつの。他当たれ他」 「へえ。仕方ないわね……ま、終わったことを悔いてもしょうがないか。腰も痛めちゃったし、お気に入りのスーツはベッタベタだし、ホント踏んだり蹴ったりよ。不運もいいとこ。誰のせいでしょうね」  非難バリバリの言い回しで言う姉貴に、俺は気になっていることをぶつけることにした。一切俺のせいじゃねえよ。姉貴の自業自得だろ。 「なあ」 「何」 「『吸血鬼』に『トト』……まだ聞いてないことあるよな。他にも何か隠してねーか、姉貴」 「失礼ね、隠してないわよ。ただちょっと思いつかないけど、忘れてるなら特に問題にもならないことでしょうし」  無体なことを姉貴は悪びれずに言って、 「……わかってる。説明するわ。それが礼儀だものね」  急にしおらしく言うものだから、俺は呆れ果ててしまった。どうにも調子が狂う。 「今、家に帰ったところだから、アンタも来なさい。どうしてもファミレスで話聞きたいって言うなら別だけど、流石に嫌でしょ?」 「しばらくは行きたくもねーよ。どっかの馬鹿姉貴のせいでな」 「どっかの弟のせいでね。待ってるわ」 「あ、そうそう。大事なことだから、念のため先に言っとく。ヒロキが何かに巻き込まれないとも知れないしね」  俺が携帯から耳をはずしかけたそのとき、姉貴は言った。ラッキーマンかアンラッキーマンかしらねえが、俺はその類のトンチキじゃねえ。と思いはしたが、姉貴の勘は割と当たると俺は思っている。姉貴が俺の運を評価してるのと同じくらいには。 「もし貴方があの携帯の件で名乗る必要があったら、『エリナーの使い』と名乗りなさい。本名は嫌でしょ」  もしかすると本物が釣れるかもしれないしね、と付け加える。 「ってえことは、嘘っぱちか」 「当たり前じゃない。……と言っても、ヒロキには当たり前じゃないか。エリナーってのは『トトに最も近い人物』の一人よ」 「共犯か何かか?」 「そんなとこだろうけど、今回の件では何やってることやら。参加者かもしれないし、もしかしたら携帯の監視役でもしてるのかもしれない……まだ表に出てきてないし、携帯を取った名乗りもないのだけれど……トトがいるなら、必ずエリナーはいる。それは推測じゃない。絶対よ。ヘイムダル……じゃなくて、クリシュナもいたことだしね」  本物が釣れたら私に報告するのよ。姉貴は注釈を加える。 「……エリナーなあ。エリナー・リグビー?」 「あら。良く知ってるじゃない。アンタ洋楽の趣味とかあったっけ」 「それなのかよ。……ああ、知り合いにビートルズ馬鹿がいてな。教え込まれたっつうかな」 「じゃあ聞いてみたいんだけど、ねえ、『エリナー・リグビー』ってどんな曲なの?」 「そうだな。孤独な人物を歌った曲、ってとこじゃねえか? 曲自体は有名だから、姉貴も聞いたことがあるだろうよ」 「へえ」  姉貴は、それで、と続きを急かした。俺は溜息混じりにこう続ける。大した曲には思えないんだがな、アレ。 「……エリナー・リグビーっつう孤独な老婆がいてな。孤独なままに教会で死ぬ。ただそれだけの歌だ」 「何よそれ。起承転結とかないの?」 「ポールにそう聞いてやれよ」  俺は投げやりにそう答えた。  姉貴の家は、この町に高々とそびえるあの超高層マンションの、隣の二階の一室だ。とはいえ、姉貴の住んでる建物はボロっちいアパートだ。屋号を除けば住所は一切同じな辺り、随分な格差社会だ。  彼女はいい年して一人暮らし、浮いた話も聞かないが、だからと言ってこんなセキュリティの欠片もない薄扉の向こうに居住区を構えていていいとも思わない。俺は何度か姉貴にそう進言したことがあるが、姉貴はその意見を真面目に取り合おうともしてくれない。多分相手が俺だからなんだろうが、俺の意見がアンタの思ってるより常識的なんだってことを知るべきだと思う。  俺は、ぶち破られられた木製の扉を見ながらそのことを思い出した。紛れもなく姉貴の家の玄関だ、が、元々こうだったはずもない。扉に鍵は掛かっていたようだが、もちろん、壊れた鍵はその意味を成さない。既に扉は半分外れているし、大盤振る舞いに解放されてぶらぶらしている。  どう見ても、ただ事じゃねえな。少なくとも、几帳面な姉貴が扉を閉めずに寛いでることは考えられない。厄介ごとがまた一つ増えてしまったらしい……と、俺の精神は姉貴への心配より先に苦悩した。姉貴なら大丈夫だろ、多分。  とはいえ、心配してないわけでもないのだ。俺は姉貴の名前を呼んでから、返事を待たずに敷居を跨いだ。  姉貴の部屋は神経質なまでに整理整頓が行き届いており、ゴミが入っていないゴミ箱がそこかしこに鎮座している非常識な様相を誇る。(可愛いゴミ箱を買うのが趣味らしい。ゴミを入れるゴミ箱は別にきちんとあるんだが)  部屋の間取りは大学生の下宿みたいな1K。入口と接する小型のキッチンは使っているらしく、いつ来ても置いてあるものが違う。今日は皿とフォーク、フライパンにボウルが漬けおきされている。浅瀬で黄身の残骸が漂っているところを見るに、朝飯はスクランブルエッグ辺りだったか。  そんな生活感も、キッチンだけでぴったり収まっているところに姉貴らしさを感じるが、逆に嫁の貰い手はなさそうだ。  俺が靴を適当に脱ぎ散らかして室内に入っても、それを咎める声はない。ざっと部屋の奥を見渡しても、姉貴はいなかった。押入れにでも潜ってない限り。俺は一応押入れも開けてみたが、丁寧にしまわれた煎餅布団が我が物顔で狭い空間を占拠していて、人一人入れそうにない。  部屋の真ん中に置かれた年代物のちゃぶ台は相変わらずいい色をしているが、これは実家から無理を言って持ってきた姉貴お気に入りの逸品だ。上には水位の低い麦茶が鎮座し、その側面にケーブルが繋がっている。ケーブルのもう一端は壁だ。  部屋の窓は開けっ放しだが、柵には植木鉢が二、三個乗っていて、これをどかさずにここから外へは出れそうにない。そもそもここは二階だ。用がなければ出る気は起きないし、入るのはそれなりの芸が必要だ。  つまりは、姉貴は不在、ということになる。呼んでおいて不在とはいい御身分だ。  いつもなら黙って待たせてもらうし、不在だったことを問い詰めて奢りの一つでも引き出せれば御の字なのだが、今日はそうも行くまい。玄関のドアは明らかに要修理だし、タイミング的にどうよって思うわけだ。  俺は早速姉貴の携帯に電話を入れる。  コール、コール、コール、ブツリ。  切られた。それも向こうからだ。もう一度掛け直してみる。 「電波の届」  クソ。  そんなわけで、姉貴は俺を置いて忽然と姿を消し、姉貴の残した遺産は全て俺のものとなったわけだ。我が物顔でタンスを開けてぱんつをかぶっても誰も咎めやしない。やって何になるか、それはやってから考えればいい。きっと誰かの好感度くらい上がるさ。かといってやらねえけどな。  俺は何とか姉貴の消息を掴むため、辺りを見回し、姉貴のしそうな行動を考える。  キッチン、……違う。それならあいつは片付けてから行くだろう。時間がなかった? それなら、キッチンには手を触れない。  ちゃぶ台。ケーブルは、……そうか。この部屋にはパソコンがない。姉貴は確かノートパソコンを持っていたはずだ。ケーブルはいわゆる電話線。時代錯誤な奴だ、無線にしろ無線に。麦茶は多分飲みかけ。  俺は麦茶を手に取る。冷たさが残っていることから、長くて十数分。俺と電話した直後でも、まあまあありうる。だが、麦茶を飲みきるなり、流しに片すなりできなかったものだろうか? つまり、それさえできないほど急いでいた。あるいはさせてもらえなかった。  姉貴はさらわれた。ノートパソコンは一緒に持っていかれた。  そう考えるのが、多分一番妥当だ。誰に? そりゃ、心当たりなんて一つしかねえじゃねえか。「トト」の携帯を奪い合ってる奴らさ。超法規的手段が許されるんだろ? いい塩梅じゃねえか。誰に利点があるかなんてわかりゃしないが。姉貴さらうくらいなら携帯追うよ俺なら。  とはいえ、何も言わずに姉貴が消えた現状、その推測は決して見逃せない可能性の一つになる。推測が正しければ、俺に対して何らかのアクションが起きるはずだ。姉貴がヒントを残すかもしれないし、そのさらった奴が要求をする相手は俺しかいねえはずだ。幸いにして俺はファミレスの一件で顔をさらしてるから、あそこでチェックされてると考えられなくはない。  この部屋で物を隠せそうなところと言えば、そこかしこに置かれた空のゴミ箱以外にはない。下着の隙間に隠すような野暮な真似はしねえだろうし、されても探してやんねえ。そのことを姉貴もよく解っている、と思う。  俺は手近な黄色のアヒルゴミ箱を持ち上げてひっくり返してみた。  ビンゴだ。綺麗に折られたメモが、はらりと落ちた。 「『ヒロキへ エリナーを探して 私は大丈夫』」  それは紛れもなく姉貴の走り書きだった。っつうことは、だ。 「俺が何かに巻き込まれる前に、手前が巻き込まれてんじゃねえかよ……」  大丈夫なんて、誰が言えるんだ。俺はメモをポケットに突っ込み、次なる手を自分の頭で考えることとした。