B2 絵空つぐみ  携帯電話の向こうの姉貴は、震えた声でこう言った。 「ねえ、ヒロキ。楽してお金、稼げちゃうのかもしれない。生きていけちゃったりするのかもしれない」 「あ?」  俺は耳を疑った。姉貴は堅実を最善とする頭の固い女で、そんなことを言うはずがなかったからだ。楽してお金が稼げるかもなんて言うのは俺の役柄だし、ましてやそれを姉貴が肯定することなんてありえない。  けれど、姉貴は確かに言ったのだし、その先を続けた。 「……だから、お金。ちょっと、話があるんだ」 「俺に?」 「そう。アンタに。駅前のファミレスまで出てきて。……どうせ暇でしょ」 「暇じゃねーよ」  実際は暇だったが、定型句のようなものだ。姉貴もわかっているし、そのことについて俺もわかっている。姉貴は沈黙でそれをスルーする。 「ったく、しゃーねーな。わーった。行く」  俺は乱暴に通話切断のボタンを押し込み、舐めてんな、と一人語ちた。  駅前のファミリーレストランはいつでも賑わっている。立地が良いのもあるのだが、競合店舗がほとんどないこと、チェーン店なりに安いこと、多少の素行不良なら甘んじて受け入れてくれること、等がその勝因だなんて言われている。 「オレンジジュース」  もっとも、そんなことはどうでもいいのだ。この店で働くわけじゃなし。  俺はメニューを机の端に放り、ウエイトレスの尻から視線を外した。形が良かった。……じゃなくて、制服が可愛い。  そういえば、昔ここで姉貴が働いていたことがあった。制服姿は残念ながら一度も見ることがなかったが、姉貴のことだから無難か、それ以上程度には似合っていたんだろう。姉貴が学生の頃だからずいぶん前のことになる。もうそれをはっきり覚えている人などまずいないのだろうが。本人以外。 「お待たせ致しました。こちらオレンジジュースになります」  しばらくして、ウエイトレスがタンブラー一杯のオレンジジュースに添えて勘定を置いていった。相場から見て安いか高いかと聞かれれば安いと答えざるを得ないが、一口飲んで思う。缶ジュースでも買ったほうがマシだな。  閑話休題、姉貴はまだ来ていなかったから、俺は四人座りのテーブル席に一人で待っている。人を呼び出しておいて先に来ないとは太い神経の持ち主だと思うが、今に始まった話でもない。姉貴は堅物で良識的だが、それはあくまでも対外的なものであって、本来の人格はただのサドに過ぎない。  そんな姉貴を震えさせるほどの話とは、一体何なのだろう。  姉貴の理論武装は厳重だし、保守的だから融通も利かない。姉貴は冗談でも弱みを見せたがる人間じゃないし、自身の震えた声と動揺した心に気づかない程鈍感でもないはずだ。となると、彼女の元には本当に物凄い話が舞い込んだのだろう、と推測できる。  それに対して、姉貴はそれを喜ぶべきか悲しむべきかわからず、苛立ち怖がっているのだろう。その点だけは、嗜虐趣味の方向性で可愛いと思う。迂闊に触れば噛み付かれるが。 「楽して、か」  そんな姉貴の発した魅惑の台詞を思い出しながら、釈然としない声色に思いを馳せる。幾ら姉弟と言えど、俺に話を通しておきたい、なんて言うからには、俺に何か用事があるのだろう。そうでもなければ全幅に不信の弟に電話を寄越すなんてこともない。  に、しても何を手間取っているのだろう。俺は窓の外を眺め、往来の人々から姉貴を探していた。 「何すんのよ!」 「そりゃこっちのセリフだ!」  そこに響き渡った声は、斜向かいのテーブル席からのものだった。瞬間的にしんと静まり返ったファミレスの空気に、俺は呆れ果ててオレンジジュースを一口。見ると、年頃の男女が言い争っているようだった。煙草の女のがちょっと年かさの風で、たしなめているように見えなくもない。  一瞬なりとも静かになった店内だったが、空気はすぐに元通りになった。若者の多いこの店じゃ、騒がしい客は決して珍しくない。俺のように暇の一人身ならいざ知らず、話相手がいるのにわざわざ喧嘩を眺める酔狂者なんてのもいやしない、ということだろう。  二人組の声は途切れ途切れにしか聞こえてこないが、どうやら、痴話喧嘩ではないようだ。俺は気取られないように眺めていたが、彼らの元にウエイトレスが歩み寄るのを見て興味を失った。大方、注意か退店願いかそこら辺だろう。これ以上事態が面白くなることはない。 「……お?」  そう思っていた俺は、肝心なところを見逃してしまったらしい。特に意図もなく彼らに戻った視界で、ようやく俺は違和感に気づいた。二人は口を開けっ放しで、事態がつかめていないようだったのだ。その二人の前で、不安げに立ちっぱなしのウエイトレス。  これは、何か面白い話でも始まったに違いない。俺はニヤリと笑って、再び観察を始めようとした。 「盗み見は感心しないよ、ヒロキ」  その視線を遮る女の下腹部に、俺は遠慮することなく舌を打った。  ただでさえ高い身長をハイヒールでさらに底上げし、パンツとスーツで飾った野暮ったい印象の女が、黒ブチの眼鏡越しに俺を蔑んで見下ろしていた。 「私の弟に変質者は要らないの。わかってる? ……わかってないでしょうね」  後ろで一つにまとめた波打つ黒髪をさっと撫でて、女は俺の前に座る。 「てめーのほうがよっぽど変質者だろーが。このデカコ」 「いい? この世の中には開いて良いクチと、悪いクチがあるの。アンタは後者。生涯黙ってなさい」  そんな無体なことを言って、その女──俺の姉貴、ヒロコは凄惨に笑った。