A39 奥山キイチ  ふらふらと名前も知らない公園の公衆便所に辿り着いたアタシは、とにかく血まみれになった自分の顔を洗う事に専念した。もう、とにかく何が何だか分かんなくて、どこからどこまでが自分にとって大切な情報なのか、はたまた不必要な情報なのか、さっぱり整理がつかなかった。  ただ一つ。ただ一つだけ分かることは、アタシは大失敗を犯してしまったということ。  アタシは例のZ404携帯を、あのくそ忌々しい変態姉弟どもに奪われてしまったのだ。  遡って振り返ってみると、事の発端は琢己の中華料理屋から出てすぐ。アタシが店を出て満腹後の一服にタバコに火をつけ、ふと目を上げると、まるで申し合わせたようなタイミングで例のウエイトレスさんがアタシの視界に入ってきた。いっちょまえに、アタシを待ち伏せなんてしていたのである。 「あの……」  と、まるで憧れのサッカー部の先輩に初めてタオルを渡そうとする新人マネージャーのようなオドオドした態度で、ウエイトレスはアタシに声をかける。 「おっす! 体は大丈夫? 昨日ど派手に転んでたじゃん?」  と、アタシ。 「あ、いえ、あんなの別に……」 「いいタックルだったよね。あんたもっかして、ラグビー好き?」 「え、いや、私あまりスポーツは……お好きなんですか?」 「いや、全然」  ……。  アタシはタバコを肺に吸い込むと、顔を上げて、晴れ渡った空に煙を吐き出した。真っ青な空模様は、いつも通りとても平和そうに見えた。 「そ、その……」  と、マネージャー、じゃなくてウエイトレス。ウエイトレスにしても、こうして普通の私服姿をしているとウエイトレスでも何でもないし、眼鏡以外に特徴らしい特徴もない。彼女の着ている灰色のチュニックはとても良く似合っていたが、でも彼女は“チュニック”ではなく、やはり“ウエイトレス”なのだった。 「その、状況が変わったので、少し早いですが携帯の方を返してもらって……」  恐る恐る口を開くウエイトレス。  どうせそんな事だろうと思った。 「いやだ」  と、アタシは一蹴する。  ウエイトレスはびっくりして目を見開き、声も出ない様子だ。 「な!」 「これはもうアタシのものなのさ」  ウエイトレスは慌てて鞄の中に手を突っ込み、ぱんぱんに膨れたクラフト封筒を一つ取り出した。 「に、二十万円ならここにありますよ!?」 「要らない」 「ま、前金で十万円渡したじゃないですか!?」 「そのうち返す」  アタシはタバコを指で弾くと、ウエイトレスに手を振ってぶらぶらと歩き始めた。 「殺されちゃいますよ!?」  脅しにしても極端過ぎてアホらしいウエイトレスの言葉に、しかしアタシは足を止めた。返せ返せと借金取りみたいにタカられるのはごめんだけど、あるいは何か携帯の秘密をほじくり出すチャンスかもしれない。 「誰に?」 「吸血鬼にです!」 「……はい?」 「吸血鬼です!」 「なんて?」 「吸血鬼!」  ……これも脅しか何かのつもりなのだろうか?  ウエイトレスの言葉はアタシを脅すことは出来なかったが、完全に脱力させる力を持っていた。 「……はいぃぃぃ?」 「吸血鬼たちが、あなたの携帯を奪いに来るんです!」 「ベラ・ルゴシ? クリストファー・リー? まさかゲイリー・オールドマン?」  とりあえず、おちょくってみる。 「冗談じゃないんですよ!?」 「あの映画に限っちゃ、ブラピよりトム・クルーズだよねー」 「真面目に聞いてください!」 「フロム・ダスク・ティル・ドーンみたいなのは勘弁よ。あれもうどっちかってーとゾンビじゃん。どうせならもっとさあ……」 「一緒に居た男の人、死んだんですよ!?」  と、ウエイトレスは言った。  どうもフロム・ダスク・ティル・ドーンの話ではなさそうだ。  ……一緒に居た男の人? 「一緒にって……ファミレスでアタシと一緒に居たあいつ? 草吉のこと?」  アタシが訪ねると、ウエイトレスは恐る恐るうなずく。 「そうです。連中の一人に捕まって……」 「嘘くせえ」 「嘘なんかじゃ……思えば、私が軽率だったんです。いくら手に余るからと言って、見ず知らずの赤の他人にお金で責任をなすりつけるなんて……」 「連中って、あんたの言う吸血鬼の事かしら。ヘルシング? あんたはナチス?」  アタシのおちょくりにウエイトレスは耐えかねたのか、彼女の顔はみるみるうちに強ばっていく。アタシは思わずわくわくしてしまった。 「……早く返して下さい!」  ウエイトレスはそう怒鳴ると、さっきまでのオドオドした態度とは打って変わって、アタシの方を射貫くように真っ直ぐ睨み付ける。どうもこの子は、頭に血が上ると性格が変わってしまうらしい。普段から押さえ込んでいるタイプというか何というか、たぶん、酒を飲むとめちゃくちゃ気が大きくなるタイプだろう。 「まあまあ、落ち着きなってば」  と、アタシはそう言いつつも、内心、例のタックルを警戒した。あの時の瞬発力はあなどれないものがある。 「あんたはその吸血鬼とどういう関係なのよ。どうして草吉が死んだって知ってんの?」 「あの人たちは……その、知り合いで……」  ウエイトレス、急に口ごもる。  “何か後ろめたい事でもあります!”と顔に書いてあった。 「悪いけど、説得力ないわ。ごめ……」  と、その瞬間、ウエイトレスはうつむいたかと思うと、突然アタシの視界から消えた。  ……タックルである。  アタシは心構えこそしていたものの、ウエイトレスのタイミングは恐ろしく絶妙で、見事にアタシの虚をついたものだった。  咄嗟の出来事に、アタシはほとんど脊髄反射的に膝頭を前に突き出す。  膝蹴りが、ウエイトレスの顔面に強烈にめり込む。  膝蹴りをモロに顔面で受けたウエイトレスを背に、アタシは全速力でダッシュした。泡を吹いて気絶したであろうウエイトレスはともかく、近所の方々にこれ以上変な評判を立てられたく無かったのだ。タバコ、酒、おまけに暴力とくりゃ役満一発ハコテン、近所の公園掃除ぐらいじゃイメージ回復は図れないだろう。  生々しい感触が膝のあたりかぬぐい取れない。事故が起きると、人間はその瞬間を普段の何倍も長い時間に感じるってのは有名な話だけど、アタシはまさかそれを自分の体で体感するとは夢にも思わなかった。  しかも、加害者の立場で……  そして百メートルほど走って、脇腹に急激な痛みを覚える。天津飯、ラーメン、餃子の重みである。ふと、昼食後、五限目の体育のキツさが頭によぎって、いい加減昼食後の運動は危険だと、誰かPTAに訴えかける輩は居ないものかなんてアタシは考えた。  アタシはそれから休憩がてら繁華街にある漫画喫茶に入ると、ネットで携帯に関する情報を検索した。Z404、吸血鬼、クリシュナ。しかし、気がつくとお気に入りのブランドの新作やら映画スターのスキャンダルやしょーもない街角アンケートの記事を眺めていて、とっくに日は沈み、何の収穫も無いまま帰路につく。  なーに、携帯さえ持ってれば、黙ってても事はアタシの方へ向かってくる。当面アタシはアタシの首を守ってさえいれば、それでいいのだ。……“吸血鬼”たちからね。  自宅への日の沈んだ帰り道、いつものように高架沿いを歩く。魚屋や精肉店、木材屋の荷物なんかが歩道を圧迫し、車道へはみ出して歩くこともしばしば。アタシは別にこの道が好きなわけでも嫌いなわけでも無く、ただ単純に、アタシにとって帰り道と言えばこの道で、それ以上でもそれ以下でも無いのだった。電車が走って、接触不良を起こした電線がぱちぱちと火花を散らす。コンビニのぎらぎらした明かり、窓際には雑誌の立ち読みが日課になっている、予備校帰りのあんちゃんや会社帰りのOL。そして、高架下の臭くて汚い通り道には、くたびれたダンボールで外敵から己の身を守るホームレスが一人……  と、思いきや、一対の男女が仁王立ちで立ちふさがっていた。  男女は二人とも陰気な感じで、背格好はアタシと同じぐらいで学生服を着ていて、細身のシルエットからは何かタチの悪そうなオーラがぷんぷん香っていた。  二人はアタシの顔を見るや否や、おっ来たな、みたいな分かりやすいリアクションをとる。一方アタシと言えば好奇心半分、こんな手合いの連中だもん、どうせロクでも無い用事なんだろうな、というのが半分。  どこか青白い顔をした二人組だったが、吸血鬼かどうかまでは分からなかった。そもそも吸血鬼はフランケンシュタインやらハエ男やらプレデターやらと違ってぱっと見ではわかりにくいモンスターなのだから、判断するには銀の十字架やにんにくと言ったお約束を用意する必要がある。――強いて吸血鬼と言うなら、漫画“羊のうた”に出てくる高城姉弟に似て無くもないが、あいつらが基本的に無害な反面、この二人はむしろとても有害な感じだった。 「姉、この女がりそなの言っていた奴か?」  と、男の方が女に尋ねた。  不意に友人の名前が出てきて驚くアタシ。 「ゲェホゲエホゲホッ!」  女は返事の代わりに、今すぐにで死にそうなぐらい咳き込む。 「姉、大丈夫か」 「待つ場所が……げえっほ! わる……ぐ、ゲホゲホゲホゲホ! っぜえ……ヒュー……ぜえ……」 「待つ場所が悪かったのか?」 「え、グ、ゲホッ! げほっ!」 「大丈夫か」 「げぇほげぇほげほグホげほ!」  弟らしき人物の問いかけに、姉はむせ返しながら何度もうなずく。 「あんたら、りそなの知り合い?」  と、アタシは訪ねた。 「姉、サルタノール・インヘラーを」  と、弟は懐から吸入薬を取り出し、姉に渡す。  シュコッ! 「おい、女。姉はぜんそく持ちだから、空気の綺麗な場所で話すぞ」  アタシは姉が可哀想に思えて、弟の言うとおり高架の抜け道からでる事にした。  ……ぜんそく持ちの吸血鬼っているんかな?