A30 奥山 キイチ  俺は全身を縛り付けられ身動きの取れないまま、りそなの手に握られたペンチをただひたすらじっと眺めた。  相当年期が入っているのか、先端の金属部は所々赤く錆び付いていて、グリップの緑色のゴムも何となく時代遅れなデザインのように感じる。――ただの工具のデザインにトレンドがあるのかは知らないけれど。 「どうしたの?草吉くん。これが気になるの?」  りそなは俺の視線に気がついてそう言う。俺は目線だけをりそなにやり、沈黙を通した。 「これはね、ペンチっていう名前の、どこの家庭にも必ず一つはある最もポピュラーな工具の一つだよ。ナットを締める時に使ったり、硬いものを曲げるときに使ったり……あ!あと銅線なんかを切るときにも便利だね」  りそなは自分の手元のペンチを眺めながら、笑顔でそう言った。 「シンプルで、多用で、本当に便利な工具……でもね、実はこれ、人体に向けて使う場合も、本来の使用目的以上に多種多様の働きをしてくれるの、草吉くんは知ってた?」  二日酔いの影響か、りそなの声が何か見えない膜のようなものを介しているように、言葉がはっきりと頭に入らない。  人体?人体って?彼女は一体何のことを言っているのだ? 「例えばこの携帯!」  後ろ手に持っていた例の携帯を、しゃきん、と自分の前に登場させるりそな。 「この携帯に纏わる秘密や、持ち主の居場所を教えて貰うときにも、このペンチって道具はとっても便利。殴ったり、へし折ったり、剥がしたり、つねったり、ちぎったり、潰したり……半分も試さないうちに、相手は携帯の秘密どころかエロ画像の隠しフォルダの場所まで喋ってくれる」  俺は無意識に首を横に振った。 「持ち主なんて知らない!」  俺は言った。 「知らないはずないわ」 「知らないよ!あのウエイトレスか?黒髪のノッポの女か!?」 「あなたのいとこじゃない」 「え?」  かちゃん、と開かれる携帯。  ディスプレイには京都タワーをバックに仁王立ちをするメイコの写メが表示されていた。  彼女の言うとおり、この馬鹿な壁紙は、紛れもなくメイコの携帯だ。 「馬鹿な!俺はウエイトレスから預かってからずっと……」  ……と、言いかけて、俺ははっとした。  そうだ、俺は確かに一度だけメイコに携帯を手渡し、奴に背を向けてジュースを買いに行った。  抜け目の無いあいつは、あの時ちゃっかりと自分の携帯をウエイトレスのものとすり替えて俺に返していたのだ。  恐らくは、携帯に纏わる出来事の情報を得るため、自分自身をこの物語の渦中に身を置くために。 「……知らなかった、って顔ね。いいわ。とりあえず、知ってる事を全部喋って。どんな塵っかすみたいな事でも構わないの」  そう言い、りそなは落ち着いた歩調でゆっくりとこちらに近づき、俺の背後に立った。 「俺がキミに話す事なんてなんにも……」  りそなは後ろ手に組まれた俺の手をぎゅっと握った。  場所と状況が普通なら、さぞ“ときめいた”ことだろう。 「……何だ?何をする気だ?」 「とりあえず、“剥がす”から行こっか」  妙に落ち着いた声のトーン。 「……脅しのつもりか?」  りそなは手のひらから徐々に指を滑らせ、俺の右手の小指を握る。女の子の力とは言え、本気で握っているのか、俺の小指はもはや微動だにしない。  そして、ペンチでそっと小指の爪を挟む。途端に胃の辺りが苦しくなり、俺は思わずぎょっとした。 「もういい、もういいって!こんな茶番……しゃ、喋るよ!何だって喋る!クソ、20万ぽっちがなんだってんだ!もういい、縄を解いてくれ!」 「ふふ……気にしなくていいよ、草吉くん。喋っても喋らなくても、どっちでも」  りそなは穏やかな口調で、優しく俺にそう言った。 「痛みと恐怖の中で自分の体が次々に破壊されて……草吉くんは絶望のどん底で、藁を掴むような気持ちで洗いざらい喋ろうとする。携帯のことはもちろん、私に対して出来る謝罪も、どんな小さな事でもしようとする。私をオカズにした事とかね。  でもね、それでも私は手を止めず、終い目には草吉くんをばらばらにして破壊して、ついには命を奪ってしまう」 「馬鹿な!キミにそんな事、出来るわけがない!」 「どうして?」  りそなのペンチを握る手が少し緩んだような気がした。  気がつけば、俺の心臓は唸りをあげるほど激しく高鳴っている。 「私が温厚で、気立てが良くて、成績優秀の絵に描いたような良くできた幼なじみの女の子だから?」  そうだ、彼女の言うとおりだ。  彼女は温厚で、気立てが良くて、成績優秀で、おまけに可愛くて、いろんな人に愛される、幼なじみの……  しかし、俺が頭の中で考えている言葉を断ち切るように、りそなは言葉を続ける。 「草吉くん。草吉くんは私の事を、自分の残虐趣味を隠し通す為に、過剰に優等生を演じる嘘まみれの女の子だとは、想像もしなかった?」  俺はぎょっとして、首を回し、りそなの顔を見ようとした。 「え?」  しかしその瞬間……頭の中は真っ白になった。  右手小指の先が高熱で炙られたような激痛。  反射的に全身が強ばり、肺が瞬間的に空気を大きく息を吸い込み、瞼が固く閉じられる。  叫び声は出なかった。  自分のされた事が、俺にはまだ信じられなかったのだと思う。 「……もうっ!失敗!」  りそなは不満げにそう言い捨てる。痺れるような小指の痛覚。  失敗?何が? 「爪を剥がすのって、意外と難しいの。経験あるんだけどなあ……ほら、半分で折れちゃった」  と、俺の前に血塗れのプラスチックの破片のようなモノを差し出すりそな。  俺は自分の顔から血の気が引くのが分かった。 「てめえクソ女!マジでやりやがったのか!」 「痛みは嘘をつかないでしょ?」  パニックで頭の中がぐちゃぐちゃになる。 「うわあ、クソぉ!外せ、この縄を今すぐ外してくれ!畜生!」  りそなはお構いなしに、今度は俺の薬指をペンチで挟む。 「やめ……」  今度は早かった。  こちらが息をつく暇もなく、彼女は俺の薬指の爪を勢いよく毟り取る。 「うわああああああああ!」  言葉にならない絶叫。俺はそれが自分のものでは無いように聞こえた。 「痛い?」 「やめろ!もう、やめてくれ!何の恨みがあってこんな事するんだよっ!俺がキミに一体何をしたって言うんだよ!」 「恨みだったらいろんな人間にあるよ。私をお人形か何かと勘違いして、自分の理想に押し込めようとする人たち。あなたたちのその“理想”とか言うジメジメした薄暗い牢屋の中で、私の心はぶよぶよに腐っちゃった、っぽい」 「俺はキミに理想なんて……」 「嘘よ!」  中指の爪が嫌な音を立ててむしり取られる。俺は自分自身の叫び声に、絶望の色を感じた。 「私が少しでも脇道にそれれば、あなたや他の人々は私に落胆して、私に非難や陰口を浴びせるんでしょ?私には“人並み”も許されないのね!」 「もう……よしてくれ!」 「ごめんなさいね、草吉くん。私は他人を破壊しないと、私自身が破裂しちゃいそうになっちゃう、心の弱い女の子だから」  人差し指にペンチがあてがわれる。俺は目に涙を浮かべながら首を横に振った。 「『自分の身は自分で守れ』。これはお婆ちゃんの遺言なの。ホントごめんね!」  人差し指に走る、気の遠くなるような…… 「わあああああああああぁぁぁぁ!!」  指先から全身に広がる痺れのような痛覚に支配され、心は絶望という逃げ場のない檻に閉じこめられる。  何なんだ。これは一体、何なんだ?  がちゃん、と床に放り投げられるペンチ。金属部は鮮血で真っ赤に汚れている。  りそなは浮き立った、軽快な歩調で隣の部屋へ向かった。俺の前を通る際、とても人の良さそうな笑顔を見せたのだ。 「草吉くん、あなた、自分が主人公だと思った?」  開け放たれたドア越しにりそなはそう訊ねた。  隣の部屋は物置らしく、彼女はそこで何かを探しているらしい。よほど必死なのか、乱暴な物音がこちらの部屋にまで響いてくる。 「思わない!思ってなんかいない!」  俺はヤケクソみたいにそう言った。 「突然、おとぎ話みたいにちょっとばかりのお金とファンタジックな舞台が自分の元にやってきて、ヒーローかなにかになれるような予感がしたんじゃない?」 「してない、してないよ!」  ひょっこりと顔を覗かせるりそな。 「男の子はみんな、ヒーローに憧れてるもんね」 「憧れてなんか……俺はただ……」 「草吉くんの好きなヒーローは誰?」  俺は項垂れ、首を横に振った。  もう、こんなのはイヤだと、心底そう思ったのだ。 「じゃじゃーん!」  喜び勇んでりそなが持って出てきたのは、一本のハンマーと、十数本ばかりの五寸釘だった。 「やめ……やめてくれぇっ!」  俺はこれから自分の身に迫る災難を予期し、反射的に叫び声を上げた。 「あはははは!……草吉くん、凄い顔!うふふ」  りそなは心底楽しそうに笑っている。 「主人公だったよ、草吉くん。あなたが“携帯”を持っていた時はね。あなたは話の中心にいて、そしてヒーローになる可能性を持っていた。  でも……残念だけど、あなたにはヒーローにとって最も大切なものが欠けていた。なんだか分かる?」  りそなはつかつかと俺の足下までやってくると、手際よく俺の靴と靴下を脱がして、それを乱雑に床に放り投げた。  そして、釘を剥き出しになった足の甲にあてがう。 「あなたには、“運”が無かった」  ハンマーをゆっくりと振り上げるりそな。  ハンマーを振り上げ、そしてそれを振り下ろすという一連の動作に、彼女はためらいなど微塵もみせなかった。  そしてそれは、俺が命綱無しで一直線に奈落の底に落ちていく、ほんの始まりに過ぎなかった……。  ……。  さて!  と、アタシは思った。  草吉から件の携帯をぺちった翌日、アタシは例の五万円で最新の携帯機種を手に入れた。  日常生活に支障が出ないよう、まずは失ったアドレス帳の収集に向かわないと。  草吉からアタシのアドレスデータを奪えれば話は早いんだけど、逆にあいつに会って携帯を奪い返された日にゃあ、一体何のために新機種なんて買ったのか分かったもんじゃない。  せっかく回ってきた舞台なんだもの、アタシはそう簡単に主役を譲らんだもんよ?  ……と、アタシはそう思うのだ。  とりあえず、知ってる奴から拾えるだけアドレスを拾うつもりで誰かを捜そうとしたけれど、休日のツレの居場所を知る術は私には何も無かった。ホント、アドレス一つ分かんないだけでさっぱりわからないのだ。  しかし、一人だけ確実に居場所の分かる奴がいる。ラーメン屋の息子で、バイトがてら家業を手伝ってる、琢己という皮肉っぽい男だ。  仕事の邪魔をすんのは悪いけど、そこはホラ、もう、水くさい事は言いっこなしにしようぜ!  と、アタシは言いたい。  アタシが暖簾をくぐると、琢己の顔つきが変わった。例えるなら、ドアを開けて、外にNHKの集金人が立っていたようなのを認めた人間がとる表情にそっくりだった。 「あの、すみませんお客様……」  カウンターから申し訳なさそうに声をかける琢己。 「ウチはアホの方はご遠慮してもらってますんで……」 「アタシゃ客じゃないっつーの。アホはあんただし。携帯貸して」 「ホントもう、申し訳ありませんが、お引き取り願えますでしょうか……?」 「いや、もうそういうのいいからさ。早く携帯貸してよ」  アタシはカウンター越しに琢己に向かって手を伸ばす。  琢己は露骨に嫌そうな顔をして食器洗いを続けた。 「んだよ、人の仕事邪魔してアホな事言いやがって」 「水くさい事は言いっこなしにしようぜ!」 「アホか」 「アホはお前だ!」 「うるせえよ、アホ。他の客に迷惑だろ」  アタシは自分が苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたのが、自分で良く分かった。  何が悲しくてこんなところでこんな奴とアホアホ会話を…… 「……携帯落としたの。みんなのアドレスちょうだい」  けたけたけた、と奴の笑い声が響く。更に噛みつぶす苦虫。 「ま、とりあえず座れって。チャーハン?」 「ラーメン、餃子、あと天津飯」  がっつりかよ、と琢己は呟いた。  アタシはカウンターの席に腰掛けると、ポケットからマルボロを取り出し、一本だけ取りだして火をつける。  肺にたっぷりと煙を吸い込み、たっぷり吐き出し、見慣れた店内を眺める。  これからの動向を考えながら、そういや今頃草吉のやつ怒ってんだろうなあ、なんて思ったけど、すぐに忘れた。  心配しないでも、20万なんてはした金じゃなく、そのうち目玉が飛び出すような贈り物をしてやるんだから。