A11 奥山キイチ  きょとん顔で呆然とする俺たち二人の前にウエイトレスが差し出したのは、何の変哲もない1個の携帯だった。 「お話は簡単です。この携帯をしばらく預かって欲しいのです」  ウエイトレスは周りをちらちらと気にしながら、そっと携帯をテーブルに置く。  型は古く、自分の知る限り3、4年前に出たもので、飾り気の無い真っ白のフォルムが印象的だった。 「お、アタシと同じ機種じゃん」  と、メイコはポケットから自分の携帯を取り出し、テーブルの上に並べて置いた。  二つの携帯には、確かに“Z404”のロゴが入っていて、二つともストラップも何もついておらず、外からでは全く見分けがつかない。方や三十万円の価値を持つ携帯、方やただの使い古された型落ち携帯。いったい、何がどう違うというのだろうか?  何の前触れもなく、ぽん、と二つの携帯の上に厚みのあるクラフト封筒が置かれる。 「その封筒の中には前金として十万円が入ってます。後日、私がその携帯に連絡しますので、その時に携帯を返して下さい。残りの二十万円はその時にお支払いしますので……」  俺は封筒を手に取り、ふっと中身に息を吹き込んだ。……確かに、俺の財布の中にある全財産の十倍の額が、そこには入っていた。  驚きや喜びより、疑心暗鬼が胸中に渦巻く。  携帯を預ける?それも見ず知らずの、お世辞にも何の責任感もなさそうな(片方に至っては、セーラー服のまま白々と喫煙までしているのだ)二人の学生に、気前よく十万円もの大金を渡して?  お人好しなんて言葉では、説明のつかない馬鹿げた話だ。  俺は封筒を学生服の内ポケットにしまうと、含みを持たせた目つきでウエイトレスの方を見た。 「ただし」  と、ウエイトレスは言った。 「この事は他言無用です。ここでの出来事はお二人の心の中に固く閉まって、携帯の事は忘れたまま日常を送って下さい。その間、もしあなた方の身に何かあったとしても、あなた方は何も知らない。何も受け取っていない。そして、これが一番重要な事なのですが……」  ウエイトレスが顔を窓の外に向ける。眼鏡が光を反射し、彼女の目つきが全く見えなかった。 「何も知りたがらないで下さい。首を突っ込まない事」  目つきが見えないせいか、はたまた突然の冷たい口調のせいか、さっきまでオドオドしていたウエイトレスと同じ人物とは思えない、何とも言えない威圧感。  気圧されまいと、俺は思わず姿勢を正した。 「心配しなくても、俺はお金以外に何の興味も無いよ。俺たちはファミレスに来て、コーヒー一杯で長々と一服し、厚かましい客としてそそくさと出て行く。それでいいんだろ?」  俺はそう言いながら、テーブルに置かれた二つの“Z404”型の内の一つをポケットに入れたが、メイコが「そっちはアタシんだよ」と言うので、言われるままにもう片方と取り替えた。 「ごちそうさん。勘定頼むぜ」 「払いは私がしておきます」  にっこりと微笑むウエイトレス。安い時給を丸々潰してしまうのは申し訳無いが、もとよりこちらも余裕の無い身。大人しく相手の言葉に甘える事にして、俺とメイコは席を立った。 「クリシュナさん」  ウエイトレスより頭一つ大きな影が、ぽつりと一言そう言った。  ウエイトレスの全身の毛が逆立つのが、端から見ても分かった。 「ひ!?」  恐怖に表情を染めるウエイトレスの女の子。  見ると、ウエイトレスの後ろにはスーツに身を包んだ黒縁メガネの気の強そうな美人と、姉弟だろうか、似た面影のある青年が一人。 「ハンドルネーム、クリシュナ。あなたの事だというのは、既にこちらで調べがついてるのよ」  と、黒縁メガネが言うと、ウエイトレスは手に抱えていたトレイを床に落として、一歩、二歩と後ずさる。  ハンドルネーム?クリシュナ?インドの神様だっけ? 「ち、違う!違います!私はクリシュナじゃない!“アレ”は私の事じゃないわ!」  金切り声を上げて叫ぶウエイトレス。なんの事か分からず、俺とメイコは面食らって、今日で何度目か分からないきょとん顔だ。  ウエイトレスが必死の形相でこちらを振り向く。あまりの気迫に、俺たちは思わず身を後ろに引いた。 「さあ、お客様、他のお客様のご迷惑となりますので、お話し合いは店の外でお願いします!」  前後のつかない言葉を俺たちに向かって吐き捨てるウエイトレス。  つまり、さっさと逃げろ、という事だ。 「……お、おうおう!頼まれたってこんな店、一秒だって居やしないわよ!来なさい、草吉。話の続きよ!」  メイコもウエイトレスの言葉の裏に感づいたのか、臭い演技を打ちながら俺の学生服の袖を引っつかむと、強引に店の外に引っ張って行った。  俺はと言えば、とにかく周りの客の視線が痛かったが、まあ、なにせ面倒ごとはまっぴらゴメンだ。なんのごっこ遊びかは知らないが、これ以上は付き合わないのが得策だろう。ウエイトレスは携帯さえ持っていれば、三十万をくれると言ったんだから。 「待ちなさい」  と、黒縁メガネ。 「あなた、さっきこの子から何か受け取ったでしょ?」  俺、メイコ、そしてウエイトレスはお互いに顔を見合わせる。――ばっちり見られていたのだ。 「……あなたたちも、吸血鬼どものイヌかしら?」  吸血鬼? 「ふ、二人とも、逃げて下さいっっ!」  ウエイトレスはそう叫ぶや否や、黒縁メガネに向かって猛然とタックルをかます。  黒縁メガネは完全に不意を突かれたのか、後ろの全く無関係の客のテーブルにぶつかり、食器やら料理やらをぶちまけながら派手に倒れ込んだ。 「逃げてください!早く!」  俺とメイコはわけも分からないまま、ウエイトレスの気迫に脅される様に、慌てて店の出口の方へ走った。 「痛っ……この……ひ、ヒロキ、捕まえなさい!携帯よ、携帯!携帯を奪うの!」  後ろから黒縁メガネが怒鳴りつけ、彼女と一緒に居た青年ははっとすると、倒れ込む女二人に後ろ髪を引かれながらも、俺たち二人めがけて慌てて走ってきた。  他人に追いかけられるなんて、一体何年ぶりだろう。転がるように店を出ると、俺は追ってくる青年を尻目に、ポケットに携帯があるのをしっかり確認した。  クリシュナ?吸血鬼?イヌ?  これに何故三十万円の価値があるのかは分からないが、兎にも角にも、これを守りきらなければあのウエイトレスの女の子がロクな目に遭わない、みたいだ。  そして、こちらが最も重要なのだが、約束を破れば残りの二十万円が水の泡となって消えてしまう。  それだけは……それだけは、何としても避けなければ。